見出し画像

【明治産業革命世界遺産登録①】 誇れ明治の技術革新。ユネスコ登録の奇跡は民間人!? 2024年12月27日放送分

# ユネスコ登録、石見銀山
(ゲスト)加藤康子氏:元内閣官房参与

配信動画はこちらをクリック
政経プラットフォームはこちら

【目次】

  • 00:00 1. オープニング

  • 01:25 2. 研究から見えた課題

  • 06:43 3. 転機となった出会い

  • 10:03 4. 専門家との出会いと挑戦

  • 12:48 5. 世界遺産の価値とは

  • 16:07 6. 現代の日本への警笛

(深田)
自由な言論から学び、行動できる人を生み出す整形プラットフォーム、ITビジネスアナリストの深田萌絵です。本日は元内閣官房参与の加藤康子さんをお迎えしました。加藤さん、よろしくお願いいたします。

今回は、加藤さんのご専門である「明治日本の産業革命遺産」について、そのユネスコ登録までの物語をお聞きしたいと思います。日本には素敵な文化遺産がたくさんありますが、なかなかユネスコに登録されません。この産業革命遺産を登録された際、加藤さんは完全な民間人だったのですよね?

(加藤)
そうですね。私はアメリカの大学院で「企業城下町」を専攻していました。企業が撤退したら、その企業が築いてきた町がどうなるのか。それが私の関心事でした。

当時、アメリカのUSスチールのお膝元であるペンシルベニア州のピッツバーグ郊外、モノンガヒラ川沿いのモンバレーという地域をケーススタディとして研究しました。他にも、マサチューセッツ州のボストン郊外の繊維産業の町・ローエルのブート綿織物工場や、アパラチア山脈の炭鉱の町、イギリスのアイアンブリッジ渓谷やコールブルックデール、ウェールズのビック・ピット(炭鉱)やビーミッシュやコンウォールといった産業遺産を視察し、それらを研究テーマとしてまとめていました。

(深田)
すごいですね。その研究の中で日本についてはどうお考えになっていたのですか?

(加藤)
日本を支えている製造業が心配でした。私が大学院に行く前の時代は、夕張の炭鉱も稼働していて事故もありましたが、その後次々と閉山が続き、多くの失業者が出ていました。同様に、造船の町や鉱山の町、鉄の町が衰退していくのを見て、「高炉が消えたらどうなるのか?」という疑問を抱いていたのです。

(深田)
町が衰退していく様子が見えたのですね。

(加藤)
はい。そのケーススタディの中で、産業遺産という視点から世界の状況を見ました。アメリカやイギリスで同様の現象を観察し、産業遺産を地域活性化に活用できないかと考えました。しかし、それは簡単なことではありません。鉱山の町や鉄の町では、地の利が悪く新しい産業を誘致するのは非常に難しいのです。

(深田)
明治日本の産業革命遺産が生まれるまでの背景には、そういった衰退する町を観光資源に変えて復活させたい、という思いがあったのですね。

(加藤)
そうです。限界集落化する町の産業遺産や歴史を地域活性化の資産として使えれば、町が再び活気を取り戻せるのではないかとそんな可能性を探し続けていました。しかし、産業遺産を活用した地域復活の難しさも目の当たりにしました。

(深田)
難しさというと?

(加藤)
アメリカでは「ラストベルト」と呼ばれる地域が典型例です。工場が閉鎖された後、町全体が消失するような状況を数多く見ました。病院や警察署がなくなり、商店街にはバーや葬儀屋だけが残る。これは高齢者や失業者が町を離れられないから起こる現象です。復活には、地域の涙ぐましい努力が必要ですが、それでも困難なケースが多いのです。

(深田)
そのような中で、どのような出会いがあったのでしょうか?

(加藤)
それがスチュワート・スミス先生との出会いです。スミス先生は、産業遺産分野での世界遺産登録のプロデューサーとして知られる人物です。

(深田)
どこで出会われたのですか?

(加藤)
私は最初にイギリスのアイアンブリッジ渓谷、コールブルックデールを訪れました。この場所は、産業遺産を中心に世界文化遺産登録を実現し、地域を蘇らせた先駆け的な存在です。すでに世界文化遺産として登録されていましたが、その功績がスミス先生の手によるものでアイアンブリッジ渓谷が世界遺産第1号です。その場所でスミス先生と出会い、産業遺産の可能性を強く感じたのです。

(深田)
世界遺産として産業遺産分野で登録された第1号がアイアンブリッジ渓谷だったのですね。それで観光資源として復活したということでしょうか?

(加藤)
そうです。復活しました。アイアンブリッジ渓谷には「アイアンブリッジ・インスティテュート」など産業遺産の保全を学ぶ教育機関も設立されました。保全の最前線でさまざまな研究が進められているのです。このゼロからの取り組みを牽引したのが、スチュワート・スミス先生とニール・コスン教授のお二人です。

(深田)
スミス先生が産業遺産登録の第一人者というわけですね。

(加藤)
はい。当時、私はスミス先生に会うためにアイアンブリッジ渓谷を訪ねましたが、その時点で彼は既にアイアンブリッジを世界遺産に登録し、新しい世界遺産を作るためにコーンウォールに移っていました。コーンウォールも彼の手でやがて世界遺産になりました。

(深田)
彼の活動は世界規模だったのですね。

(加藤)
そうです。例えばコーンウォールでは、リチャード・トレビシックという産業革命時代の人物の廃墟となった家に住み込み、自ら補修や保全作業を行っていました。真っ黒になりながら作業している彼を訪ねたのが私との最初の出会いです。彼は「アイアンブリッジは十分やり遂げた。次はコーンウォールを世界遺産にする」と語っていました。

(深田)
その後も多くの世界遺産に関わったのですか?

(加藤)
ええ。例えばウェールズのビッグ・ピット炭鉱やスウェーデンのファルン銅山も、彼の手によって世界遺産に登録されました。彼はまさに産業遺産を世界遺産にするスペシャリストです。風貌はカーネル・サンダースのような、いかにも味のあるおじさんでしたよ(笑)。

(深田)
日本にも来られたのですか?

(加藤)
はい。石見銀山の登録に関わり、非常に厳しい査定を行ったことでも知られています。その後も日本を訪れるたび、「日本の産業遺産を見せてくれ」と頼まれ、私が車を運転して案内しました。

(深田)
具体的にはどのような場所をご案内されたのですか?

(加藤)
九州の大牟田、長崎、そして北海道の赤平などですね。特に赤平では、国際鉱山史会議を誘致し、世界の研究者を招待しました。スミス先生がそのリーダーとして活躍されました。

(深田)
スミス先生のような活動家がいらっしゃる一方で、日本国内では産業遺産研究が進んでいないのではないですか?

(加藤)
おっしゃる通りです。海外には「産業考古学(Industrial Archaeology)」という学問分野がありますが、日本では学部すら存在しません。文化庁も当時は江戸時代以前の遺産にしか興味を示さず、産業遺産はほとんど評価されていませんでした。

(深田)
文化庁が産業遺産にあまり関心を示さなかったというのは驚きです。

(加藤)
そうですね。当時の文化庁が注目していたのは、神社仏閣や城、伝統的な美感に基づく遺産でした。しかし産業遺産は、人々の営みそのもので、美的価値では評価しにくいものが多いのです。例えば工場の廃屋や古い機械や廃坑など、これらに歴史的価値を最後の登録の時まで価値があると見出す人は圧倒的に少なかったのです。

(深田)
確かに、産業遺産は美しいものばかりではないですからね。以前、廃墟が好きな事もありピッツバーグの今にも崩れそうな廃墟を見に行った事があるのですが、赤レンガが崩れかかっている工場を建築学科の大学生たちが政府と交渉をして「崩れて瓦礫になるよりは自分たちが修繕して崩れないように直すので譲ってください」と交渉をして学生たちが楽しみながらそこで学び自分たちの場所としてお店なども入れ復興させていました。廃墟と言ってもまだまだ価値があってアメリカはそれを上手に活用していると思いました。

(加藤)
ええ。産業遺産には、額に汗して働いてきた人々の小さなイノベーションが詰まっています。それが日本を支えてきた歴史なのです。ですが、教科書には政治家、芸術家、武人、詩人、文学者ばかりが登場し、こうした無名の人々の歴史は載りません。

(深田)
本当にそうですね。100年前のベンチャー精神を知ることは、現代にも通じる重要な教訓だと思います。

(加藤)
そうです。現代の新しい技術やAIも重要ですが、日本を支えているのは、物作りの技術者や技能者の民度の高さです。それが今の日本経済を牽引しているのです。

(深田)
確かに、世界が求めているのもその部分ですね。日本の製造業の力が世界経済にとってどれだけ重要か、もっと理解してほしいです。

(加藤)
そうですね。例えばトヨタも繊維機械から始まりましたし、物作りの現場から多くの技術革新が生まれました。これらを大切にせず、新しい産業ばかり追い求めるのは問題だと思います。

(深田)
本当にそうですね。産業遺産には、私たちが忘れてはならない日本の歴史が詰まっています。今回の明治日本の産業革命遺産のお話、非常に興味深かったです。ありがとうございました!

いいなと思ったら応援しよう!