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政府から勝ち取った明治の記憶 ~明治産業革命世界遺産登録後~【後編】

# ユネスコ産業遺産登録までの道のり
(ゲスト)加藤康子氏:元内閣官房参与

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(深田)
自由な言論から学び行動できる人を生み出す政経プラットフォームITビジネス アナリストの深田萌絵がお送りします。今回は元内閣官房参与の加藤康子さんにお越し頂きました。どうぞよろしくお願いします。

今回も「ユネスコ産業遺産登録までの道のり」というテーマでお話を伺います。これで第3弾ですね。前回は岩手の釜石に関連するお話を伺いました。そこから日鉄が誕生したという話も出てきました。

(加藤)
はい、そうですね。実はこの登録は本当に難しいものでした。8県11種類で構成された23の産業遺産、これが1つの「世界遺産」としての価値を持つという形式だったのです。

(深田)
つまり、どれか1つでも欠けると成立しないわけですね。

(加藤)
その通りです。それぞれ個別の遺産が世界遺産としての価値を持つわけではなく、全体で1つの価値を形成しています。当時は文化財、例えば重要文化財や史跡に指定されているものを文化庁が選んで推薦する仕組みでした。普通は県から国に推薦し、1県につき1つ、多くても2~3県で1つの候補を出す形です。ただ、この構想は文化庁にとっては非常に異例でした。特に明治以降のものは優先度が低く、産業遺産はさらに低い位置づけでした。やはり「美的価値」が中心なのです。

(深田)
例えば、金閣寺のように一目で美しいとわかるものが評価されやすいのですね?

(加藤)
そうですね。伝統的なものが価値があるとみなされていました。私は対極にあるもので、また各県には色々な構想がありました。その中でスミスさんからは、「鹿児島だけでは世界遺産にならないよ」という助言を頂き現実を受け入れました。そして、明治の産業遺産群を繋げて、日本が明治時代に世界で奇跡を起こした道程を示す遺産群をまとめる必要があり、大変な作業でしたが可能性があると思いました。

(深田)
かなり大きな挑戦ですね。

(加藤)
はい。でも、これには当時の鹿児島県知事だった伊藤祐一郎氏の協力が欠かせませんでした。就任直後に直接お会いし、「九州の産業遺産群をまとめて登録しよう」とプレゼンを行ったんです。すると、伊藤知事がすぐに興味を持ってくれました。「面白い」と言って、九州知事会で提案してみようという話になりました。

(深田)
それは凄いですね!でも、九州知事会に持ち込むなんて、相当の勇気が必要だったのでは?

(加藤)
もちろんです。ただ、根回しをすると確実に反対されることが分かっていたので、根回しせずにいきなり提案しました。当時、各県はそれぞれ独自の世界遺産候補を抱えていました。例えば、長崎はカトリック教会群、福岡は宗像、山口は萩の城下町などです。皆、それぞれの計画がありましたが、「どうせこんなの世界遺産にならないだろう」と軽く承認してくれたのですが、これを良い話で終わらせるわけにはいかないので、私は、各知事個室にご説明に上がりました。私は、一民間人で博士号を持っているわけでもありませんし企業の重役でもありません。ただの声の大きい一民間人でした。

(深田)
当時は、内閣官房参与ではなかったのですか?

(加藤)
とんでもありません。勢いのある少し変わった一民間人でした。産業遺産と言っても皆さんにはわけがわからない。そんな中で伊藤知事に「面白い」と言っていただいて協力していただいたのですが、どれほどの確証があるかは判りませんでした。

(深田)
そもそも当時、産業遺産をユネスコに登録できるとはどなたも知らなかったのではないですか?

(加藤)
はい。日本では、少なくとも文化財としての価値は認められていませんでした。その中で各県に説明にお伺いしましたが皆さん「三信七疑」でどなたも信じていただけませんでした。その後、県庁の職員さんがもう一度伺って頂いたのですが、その時に色々と言われてしまったそうです。ところがその後、文化省が公募制に代わり伊藤知事が名乗りを上げ公募して頂いたのですが、ものの見事に落とされたのです。文化庁からしてみれば「誰だこんなとんでもない大きいのを出してきたのは!」となったのでしょう。

(深田)
向こうから見たら、「この人は一体何者だ?」という感じだったでしょうね。

(加藤)
本当に不思議がられていました。でも、私は登録が落ちる前に「山口県が抜ける」といった話を耳にして、日曜日にふと思い立ったんです。「萩の市長に説得しに行こう」と。会ったことはありませんでしたが、翌日すぐに約束を取り付けて向かいました。

(深田)
それは大胆な行動ですね!どうなったのですか?

(加藤)
萩の市長はとても頭のいい方で、元大蔵省出身の方でした。私は構想を説明しましたが、それこそ「海のものとも山のものともわからないような大きな構想」だったのです。それでも市長はすぐに理解してくれて、「わかった、乗ろう」と言ってくれました。

(深田)
市長の理解力と決断力に驚かされますね。

(加藤)
ええ。ただ、山口県全体の知事や文化庁は完全に反対でした。文化庁からは「絶対に乗るな」と強いプレッシャーがかかっていました。当時、安倍さんが最初の総理在任時で、私は文化庁の担当者にもお願いしましたが、なかなか話が進みませんでした。

(深田)
それでも市長は協力を決めたのですね。

(加藤)
はい。それでも登録は見事に落ちてしまいました。私は顔向けできない思いでいっぱいでした。確か11月か12月頃のことです。ただ、せっかく市長が協力してくれたのに申し訳ないと思い、2月にシンポジウムを開くことにしました。当時参加していた県の関係者を集めて、再度挑戦する決意を伝えたのです。その時に「講師を呼ぶお金は出しますから会場を押さえて下さい」とお願いして「負けても突破する!」と誓いました。

(深田)
スゴイですね!

(加藤)
その時にスミス先生と相談をして「日本の文化庁がダメならイギリスの文化庁長官を連れて行きたい」とおっしゃっていただきイギリスの「イングリッシュ・ヘリテージ」の総裁であるニール・コソン卿を特別に招きました。雪がしんしんと降る中、スミス先生とコソン卿が会場に来てくれました。九州の関係者にも電話をかけて集まってもらいました。ただ、山口県知事は来てくれませんでした。それくらい反発があったのです。

(深田)
それでも開催されたのですね。

(加藤)
はい。イングリッシュ・ヘリテージの総裁が、「日本の文化庁が落とした案件だが、これは世界史的に重要な意義を持つ。絶対に諦めるべきではない」と発言してくれました。彼は産業考古学の専門家としての見識でこれを支持してくれたのです。そして、その場にいた文化庁の担当者も心を動かされ、「頑張ろうコール!」をしていただき最終的には再挑戦への体制を整えることができました。

(深田)
なんと華麗な逆転劇でしょうか!

(加藤)
そこから本格的に動き始めました。伊藤知事も非常に喜び、「これを絶対に成し遂げる」と決意してくれました。やはり薩摩の方々は明治維新を成し遂げたという自負があるのでしょう。九州全体を盛り上げる構想だということで本気になってくれました。明治時代に奇跡を起こした人々の精神がそうさせたのだと思います。そして、6か国の専門家委員を集め、日本の文化審議会のメンバーも参加させて、体制を整えていきました。

(深田)
そこまで持って行けたのはスゴイ事ですよね。

(加藤)
それは第1の突破口ですね。その後は実は、盛り上がらない地域も多かったのです。例えば、長崎は23の構成資産のうち最も多くを占めているのがカトリック教会群に集中していました。また、現役で稼働中の産業設備を世界遺産にするという前例がなく、それに対する抵抗もありました。

(深田)
動いている設備を世界遺産にするのは確かに珍しいですね。

(加藤)
そうです。例えば、「三菱長崎造船所のドッグや三池港、日本製鉄の修繕工場、遠賀川水源地ポンプ室の工業用水を供給する施設など」も入っています。これを文化財にする場合、企業にも抵抗があります。文化庁も「こんな動いているクレーンが世界遺産か?」このドックに何の価値があるのかと言われる方もいました。これを文化財として登録するには文化財保護法では対応できません。その時に、文化財保護法で守られていなくても国の法律で価値が担保されていれば契約保全であれ、都市計画法であれ、色々な法律を駆使して守ればよいだけです。そこで、法律を見直し、規制改革が必要だと提案しました。

(深田)
規制改革がカギだったのですね。

(加藤)
そうです。例えば、三池港の保全を考えた時に産業港として稼働していますし有明は、干潟の干満が激しいので浚渫(しゅんせつ)をしなければ土砂で埋まってしまいます。保全するためには公安法を活用し、水面埋め立て法で守るなど、柔軟に法律を組み合わせることが必要でした。他にもクレーンを保全する場合、ネジ一本、釘一本を替える場合にも文化庁の役人よりも、最も理解しているのは現場の企業であり、文化庁の職員ではありません。だからこそ、規制改革を進めることで多くの課題をクリアしました。

(深田)
その規制改革の詳細については、また次回詳しくお伺いしたいですね。今日は貴重なお話をありがとうございました。

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