末永く幸せに
生きる事には何故こんなにも塵労が纏わりつくのか。
僕は新しいスリッパに履き替える。
上履きは遠の昔に焼却炉で焼かれ、学校で借りたスリッパも何度となく切り裂かれ、僕が早朝事務員室に新しいスリッパを借りに行くのもほぼ日課になってしまった。
僕の言う事を理解出来ない人間のする事は、僕も理解出来ない。ただただ暇で暇で仕方なくて、暇潰しに使用されているのがたまたま僕なのかもしれない。
化学部にいる時は楽しい。僕のものとはまた違った脳を持つ人間が奇天烈な発想で面白いものを作る。今から将来が楽しみだと思う後輩も入ってきた。だから、その後輩が作った発明品を滅茶苦茶に蹴られて壊された時は、我を忘れる程激怒した。僕でも激怒する事があるのかと僕が驚いた程だ。
結果、喧嘩に不慣れな僕の身体もまた滅茶苦茶に蹴られ、眩しがる猫のように頭と目をかばって丸まるしかなかった。いつの間にか耐え難い暴力が止み、「おい!」と無造作に肩を揺すられた。「無事か?」
「紅島」だ、と分かった。学内で目立っている不良な生徒はすべからく僕の警戒範囲内だ。名前と風貌くらい覚えている。しかし、「紅島」というのは、僕を蹴りまくっていた凡骨達を蹴散らして、僕を助けるような種類の人間だったのか?
僕の観察力もあんまり精度は高くないな、と反省した。しかし、確認は必要だ。本当に「紅島」というのは僕を助けたのか?何か途方もない見返りを求めるだろうか?
「まず、礼を言う!ありがとう!」
「あ?おう」
「多人数を相手に立ちまわるとは中々君は勇敢なんだな」
「3人って多いか?じゃ。生きてるなら行くわ」
「待ちたまえ!」
「は?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・ありがとう」
「おん」
保健室で絆創膏や湿布を貼られながら、「紅島」というのは凄く良い奴かもしれない、と感嘆した。
元野球部、派手な金髪、微かに残る煙草の匂い、そして見ず知らずの僕をただ助けて去った、今分かっている「紅島」の情報はこれだけだ。
これだけだが、僕は僕の価値観が胸の内で大きく変わっていくのを感じた。いや、脳の中で。おそらくアドレナリンのせいだろう。傷も殆ど痛くない。ただただ胸の内で「紅島」ともっと関わりたいという欲が発生した。いや、脳の中で!
僕に「友達」はいただろうか。化学部の彼らは「友達」だろうか。いや、興味の方向が似ている同士、戦友のようなもので、学友ではないだろう。世の中でさかんに発生している「世間話」が彼らとの間に発生した事は無い。
僕は「紅島」と「友達」になりたいのかもしれない。
翌日、スリッパは綺麗なままだった。
「紅島」と一瞬関わってからというもの、学内で「紅島」を見ると目で追い、彼の笑い声が響くと何を楽しげに話しているのか気になって仕方なくなり、ついには読唇術まで身につけてしまった。
しかし、僕はよくよく分かっている。彼とは一瞬世界が交差しただけであって、住んでいる世界が、文化圏が、興味が、生育環境が、全く違うのだ。もう二度と交差する機会は無いかもしれない。僕から何かしらのアクションが無ければ。
しかし、何をすればいい。何を話せばいい。天気の話?今さっき窓の外を過ぎ去ったシジュウカラの話?カフェイン入りの鎮痛剤による薬物連用性頭痛の話?一体何を話して、何をすればいいのだ。
僕は生まれて初めて僕が何をしたいのかが分からない。ただ肩を揺すられて「無事か?」とぶっきらぼうに面倒臭そうに覗き込んできた目をもう一度真っ直ぐ正面から見たい。見てどうするのだ。
ああ、忌々しい。この謎の欲もまた塵労。僕の脳内を曇らせる。
僕が「紅島」に話しかけても彼を退屈させるだろう。シジュウカラの話も薬物連用性頭痛の話も彼には必要無いかもしれない。一瞬世界が交差しただけであって、彼は異世界の住人で、僕は彼にとっての塵労になるだけかもしれない。
「最近ぼーっとしてますね」化学部の後輩が笑う。
「すまない、頭痛がするんだ」
「またですか」
「ロキソニンかバファリンにしないと」
「そうそう、氷鏡先輩はすぐカフェイン入りのを飲むんだから」
「うん、気を付ける」
「恋ですか」などとは聞かれない。
化学部の皆は本当に僕を理解してくれている。僕は「恋」などしないのだ。
脳の活動を胸に宿し、笑う彼を見かけると鳩尾が冷たくなるように感じても、これは決して「恋」ではないのだ。
こんな複雑な脳の動きや身体の変化を「恋」などと、簡単に名付けては思考の停止、僕の研究欲の否定に等しい。
僕はただ、僕はただ、彼にもう一度声をかけて欲しい。肩に手をかけて欲しい。
いや、僕が声をかける。ただ、僕も、君がいてくれて、無事なら良かったと。息災でいて欲しい、などと、それも親戚の伯母が願うような凡庸な願いだけを。
君が僕を理解しなくとも、呆れ果てても、ただそれだけを言おう。
君が好きだなんて千度生まれ変わっても絶対に言わない。
末永く幸せに。物語の締めくくりのような願いだけを君にかけたい。
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