【写真あり】シリコンバレーのお花があふれる市民公園「ギャンブルガーデン」🌹🌼🌻
こんにちは~!アメリカ・シリコンバレー在住のSeikaです😊
今回はシリコンバレーにある市民公園「ギャンブルガーデン」についてです。
シリコンバレーはテックの中心・スタートアップの聖地🌟
またスタンフォード大学やUCバークレーなどの名門大学もあり、優秀な学生が集まるエリアです。
そんなシリコンバレーの閑静な住宅街のある庭園とは、どんなものなのでしょうか。
ギャンブルガーデンの概要・歴史、エリア情報、ギャンブルガーデンに関わりのある日系人についてまとめていきたいと思います。
目次をつけたので、気になるところから見てみてくださいね😊
(2023年2月26日公開)
1、ギャンブルガーデンって?
広大な庭園と1900年代初期の本格的な邸宅を併せ持つ、パロアルトに残る最古の物件の一つ。
元々個人所有宅でしたが、現在は市に寄贈され地域住民に無料で開放。
四季折々の花が咲き誇り、住民の憩いの場です。
写真撮影としても人気で、いつも園内では写真撮影が行われています。
また結婚式やイベントの会場としても利用可能。
現在は少人数のスタッフと多くのボランティアによって運営されています。
エリザベス F. ギャンブル・ガーデン
Elizabeth F. Gamble Garden
📍1431 Waverley St, Palo Alto, CA 94301
📞 (650) 329-1356
⏱年中無休(庭園)
⏱平日9時~14時(邸宅、図書館、トイレ、オフィス)
💻ホームページ
📷Instagram→gamblegarden
🗺地図
大きさ
🍀敷地・・・2.5エーカー(約3060.44坪) / (テニスコート38コート分🎾)
🏠3階建て住居・・・5,240平方フィート(486㎡)
🐎馬車小屋・・・1,075平方フィート(100㎡)
見どころ
✅藤園
✅ローズガーデン
✅椿のコレクション
✅歴史的建造物
2、エリアについて
ギャンブルガーデンのあるエリア「オールドパロアルト」はカリフォルニアの中でも不動産価格が高いことで知られています。
不動産価格は、カリフォルニア州内、アメリカ国内でも、第4位(NewsWeek、moneywise)😮
このエリアの平均収入はなんと $1.09ミリオン(約1.3億円)😵
住宅価格の中央値は、$3.8ミリオン(約4.1億円)となっています😱
桁違いのエリアです🔥🔥🔥
($1≒136円)
世界で裕福なテック系起業家や経営者の多くがこの地域に住んでおり、
有名企業の多くがこのエリアの郵便番号からスタートしています。
例えば、フェイスブック(現meta)が挙げられます。
(現在はお隣のメンロ―パークに移転)
Apple創業者スティーブジョブズの生前の家もこちらのエリアです。
郵便番号は変わりますが、名門大学スタンフォード大学もすぐ近くにあります。
ちなみに、ギャンブルガーデンの向かい側には大邸宅があるのですが、
こちらのお家のお値段$36ミリオン(約48億円)😲!
3、ギャンブルガーデンの歴史
ギャンブルガーデンの歴史をまとめました。
1901年(明治34年)
この家を建てたのは、洗剤で有名なP&G(プロクター・アンド・ギャンブル)社の共同設立者の息子エドウィン・ギャンブル。
彼は、長男のスタンフォード大学に入学したのを機にケンタッキー州から、急速に発展していったパロアルトの端っに引っ越してきた。
妻はエリザベス、子供は4人、ジェームズ、ジョージ、エリザベス、ランスロット。
3人の息子はスタンフォード大学の卒業生。
ギャンブル夫妻は$6,039という当時としては比較的控えめな金額を費やして住宅を建設した。
1902年(明治35年)
ギャンブルガーデンは当時は「ヴィラ」と呼ばれていた。
家が面しているエンバカデロ・ロードの最初に建てられた邸宅で、電気を通すための作業から始められた。
1908年(明治41年)
ウォルター・A・ホフが正式な庭園を設計。
その後何年もかけて増築され、邸宅も大きくなった。
1939年(昭和14年)
娘のエリザベスはスタンフォード大学とウェルズリー大学で学び、
この年ギャンブルガーデンと邸宅を相続し、再び住むようになる。
1948年(昭和23年)
造園家アラン・ヒメス・リードが、ティーハウスの増築を完成。
1953年(昭和28年)
パロアルトの建築家レスリー・I・ニコルズがフロントポーチを改築。
エリザベス・ギャンブルは、何年もかけて自宅の庭を整備し、パロアルト・ガーデンクラブや一般の人々に頻繁に開放した。
1971年(昭和46年)
市民意識の高いエリザベスは、自分が死ぬまで住み続けることを条件とし、邸宅と庭をパロアルト市に遺贈、維持費の寄付も行われた。
1981(昭和56年)
エリザベスが92歳で亡くなる。
市への寄贈について、「バラの戦争」とも呼ばれる4年にわたる審議を開始された。
最終的にパロアルト・ガーデンクラブという民間団体が、庭園と建物の修復と維持のための地域キャンペーンを主導することに成功した。
1985年(昭和60年)
パブリック・ガーデン「エリザベス・F・ギャンブル・ガーデン・センター」がオープン。
4、ギャンブルガーデンと椿
ギャンブルガーデンは、椿のコレクションでも知られています。
ガーデンには、なんと50種類以上の品種と60本以上の苗木があります。
1695年の「白菊」、1875年の「薄墨」、1859年の「光源氏」、1695年の「熊坂」などがあり、これらは現在も栽培されている最も古いツバキの一つです。
これらの大部分の椿は、椿栽培のパイオニアであるDomoto Toichi氏から購入されていました。
Domoto氏についても調べました👇
5、Domoto Toichi氏
日系アメリカ人(1902-2001年)
✅カリフォルニアで最も優れた園芸家のひとり。
✅日本からカリフォルニアに移住してきた一世の息子。
✅スタンフォード大学とイリノイ大学で学ぶ。
✅何千もの苗の中から優れた新種の植物を選ぶ才能があった。
✅自身のコレクションをベイエリア各地の公共庭園に寄贈。
✅Domoto氏が紹介した植物の多くは、現在ワトソンビルのサンクレスト・ナーセリーなどの卸売業者から購入可能。
Domoto氏の生涯
1883年(明治16年)
父と叔父がアメリカに移住。
1884年(明治17年)~
・父と叔父がドウモト・ブラザーズ・ナーセリーを設立。
・当初は切り花の専門店。
・カリフォルニアのナーセリービジネスのパイオニアとして、椿、木牡丹、菊など日本の重要な園芸品種の最初の輸入をする。
・その後、樹木、低木、つる植物、バラ、ヤシ、シダなどを専門に扱うようになった。
1902年(明治35年)
・オークランドにてToichiが生まれる。
1927年(昭和2年)~
・ドウモト・ブラザーズ・ナーセリーに入社。
・ヘイワードに27エーカーの土地を購入し、自分の苗木屋を始める。
・日本から輸入した新しい植物や自分で作った新しい植物を植え、家業の伝統を引き継ぐ。
・花梨、八重咲きのガーベラ、藤、牡丹、モミジ、ツツジ、ツバキなどに興味を持った。
1930年(昭和5年)
・家業が閉鎖
1942年(昭和17年)~
・ルーズベルト大統領が日系人を強制収容所に収容する「大統領令9066号」に署名。
・家族とともに抑留される。
・椿の栽培経験を買われイリノイ州で椿を栽培する仕事に就く。
1946年(昭和21年)~
・ヘイワードに戻り、日系人に対する不信感が続く中経営を再開。
・植物を販売し、交配や新しい植物の選定を続けた。
6、写真
2020年から現在にかけて撮影した写真です😊
まとめ
今回はギャンブルガーデンについてまとめました。
一年を通して表情を変えるギャンブルガーデン。
日本のようなはっきりとした四季がない温暖なカリフォルニアですが、
ギャンブルガーデンに行くと日本のような四季を感じることができます。
和名の花もあり、これらはDomoto氏の育てたお花が多いのではないかと思います。
戦時中、今では考えられないような辛い悔しい思いがあったことでしょう。
どのお花がDomoto氏から購入されたものははっきりとは分かりませんが、
ギャンブルガーデンは日米の歴史を考えるいいきっかけにもなります。
明治時代に建設され、怒涛の20世紀を経てシリコンバレーの発展をずっと見守ってきたギャンブルガーデン。
現在は住宅に囲まれていますが、当時の建物はこの邸宅だけでした。
色とりどりの花や歴史ある建造物で、日々のテックな毎日から離れリラックスしてみるのはいかがでしょうか。
それでは、今回は以上です。
次の記事でお会いしましょう~🌸😊🌸
📺Youtube→【Vlog】洗剤ビジネス大成功!P&G(Procter & Gamble)のギャンブルさんのお庭に行ったよ│入場無料│シリコンバレーのフォトスポット│ギャンブルガーデン
参照
https://www.gamblegarden.org/wp-content/uploads/2019/02/historiccamelliamap-2019.pdf
https://oac.cdlib.org/view?docId=hb8f59p20j&brand=calisphere&doc.view=entire_text
https://www.at-newyork.com/new-york-history/new_york_20c.htm
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