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母に感謝の妙深寺報

秋の御会式、高祖会の御法門を収録した妙深寺報が完成しております。内容からしてまた史上最高を更新したのではないかと思います。いち早く手に取ってお読みいただきたいです。どうか、よろしくお願いいたします。

表紙にはコレイア御導師と母の写真を選びました。本人は「絶対にイヤ」「冗談じゃない」「やめて」と大反対でしたが今生人界の素晴らしい記念写真ですので掲載を断行させていただきました。

渾身の寺報、「一実」から始まった紙媒体を活用したご奉公は生きたお寺・妙深寺の伝統です。「妙深寺報」はこの体裁で発刊するようになって20年以上過ぎたことになります。

紙に限らず、寺報、ホームページ、ブログ、ツイッター、YouTube、ラジオと、いろいろなことに取り組んできました。すべて「お伝えしたい」「お伝えしなければ」という愚直な思いが原点です。

法華経修行の真骨頂は他者とのかかわりにあります。自己を磨く修行は決して自己のみで成立しません。それでは磨けないし、磨いたことにならない。自己と他者、正依の二法、その双方の関係性や働きかけによって修行しなければなりません。

他者への自発的、積極的な関与、働きかけ。信仰心に自発性と積極性がなければ未熟、本物ではないことになります。「化他即自行」という原則は思っている以上に大切な位置にあります。

感動したら、伝える。嬉しいことがあったら、誰かに伝えたくなる。ごく自然のこと。法華経に説かれる「随喜転教」は理屈ではなく心の働き、アクションに表す感動の信仰心のこと。

「信心増進」とは「初心の心に帰る」ことです。どんどん進む、段階を上る、レベルアップする、というよりは、最初の心、ウブな、ピュアな心に立ち返ることを言います。

「信心増進と申すは初心の正直の所にかへるが信心増進と申すなり」扇全3巻272頁

来年で25年。先住がご遷化になり、私が住職になってから、来年で25年です。母がいてこそ四半世紀のご奉公が出来ました。25年。大きな節目です。

さらなる随喜と感動をお伝えできるように努めます。最新号の「妙深寺報」には澤田御導師の御法門、コレイア御導師の御法門が掲載されています。コレイア御導師の御法門では過去70年に及ぶブラジルと妙深寺の御縁、日博上人のご奉公に触れてくださっています。

「ヨコハマラグーン」を通じて妙深寺に出会った斎藤さんのお話も素晴らしいです。ラジオをやってきてよかったです(涙)。乗泉寺の伊藤さまのお話も私たちのお手本のようです。是非ご一読いただきたいです。

先日、ネパールでINSのみんなに「雪山童子」について話をしていたんです。良潤師や清行師、カルパ、ランガ、シェーカー。雪山童子はみ仏の教えを半偈聞くために身を投げたという壮絶な説話。パーリ語やテーラワーダにも同様のジャータカがあるようです。このお話は日本の「いろは歌」の原典と言われます。

「然れば雪山童子の古を思へば半偈の為に猶命を捨て給ふ、何に況や此の経の一品一巻を聴聞せん恩徳をや」松野殿御返事 / 日蓮聖人

たった半偈、漢字で言えば僅か8文字のために命を捧げた少年。しかも、その8文字は「生滅滅已、寂滅為楽」。み仏の金言ではありますが、正直なところ「このために?」と思ってしまうほどシンプルな半偈。

本化の菩薩であるお祖師さまがこの雪山童子の説話を引用されている真意は想像を絶するほど深いです。雪山童子が求めた御法門と本化の御法門は全くレベルが異なります。本化の御法門であるならば、どれほどの随喜と覚悟をもって聴くべきか、いただくべきか、ということになります。みんなで話をしていました。

ローマのキケロが引用したソクラテスの「最高のソースは空腹である」という言葉の逆で、飽食の膨満感の中ではどんな食事も美味しく感じません。なかなか難しいですが飢えることは大切だと思います。

いつもいる、いつでも聴ける、いつでも会えると思っていたら、大切に出来ません。なかなか聞けない、滅多に会えない、すぐに消えてしまう、と思えば、貴重に、慎重に、大切に思えます。人間の心は難しいですね。

妙深寺報、毎月刊行してズラッと並んでいますが、丁寧に読んでいただきたいです。

これから数年間、私たちは法華経修行の核心、発露である「歓喜踊躍(かんぎゆやく)」を柱とします。幸せになるために、幸せを感じながら毎日を過ごせるように、ご信心させていただきましょう。

とにかく、母に感謝です。
ありがとうございます。

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