第25回 三船敏郎、成城の街を行く
今回は、久々に三船敏郎の話題をお届けします。本連載の第6回・第7回でも取り上げた‶世界のミフネ〟三船敏郎。生涯、成城に住み続け、自身のプロダクションと撮影所も成城に置いたことで知られますが、もともとは中国大陸の青島(チンタオ)生まれ。大連で少年時代を過ごし、二十歳の時に応召、足かけ七年も軍隊で過ごし、熊本県の隈庄で終戦を迎えます。父親が大陸で写真館(その名も「スター写真館」)を経営していたことから、撮影技術の腕を買われ、前線には送られずに済んだ三船。終戦後にカメラで生計を立てようと考えたのは当然のことでした。
この8月には、生誕120年を迎えた山本嘉次郎の作品が、国立映画アーカイブで特集上映されました。三船は『暗黒街』(56年)と『東京の休日』(58年)にゲスト出演、其々の作品に花を添えています。
ヤマカジ先生こと山本嘉次郎監督は、三船がカメラマンになりたくて東宝に履歴書を送るも、空きがなく、第1回のニューフェイス試験(46年)へ回された時の面接官の一人(委員長だったとされる)でした。元々俳優になどなるつもりがなかった三船は、なげやりな態度で面接に臨み、結果は不合格。そこで撮影部の先輩・三浦光雄や山田一夫が山本に、いずれ撮影部で引き取ることを条件に、一時的に三船を(俳優を養成する)演技研究所に置いて欲しいと頼み込んだのです。
すると、今度は山本のほうが三船を気に入り、正式に俳優部に入ることになったといいます。よく聞く通説とは若干違う展開ですが、三船はのちに山田を三船プロダクションに迎え、ヤマカジ先生には結婚の媒酌人を依頼、のちのちまでハワイ旅行に招待するなど、礼を尽くしました。
山本は晩年、現在の「樫尾俊雄発明記念館」(成城四丁目)の辺りに居住。三船の家とも近く、谷口千吉、黒澤明、稲垣浩と競い合うように、三船を自作に使っていた時期もありました。
昭和25年、成城町七四六(現在の六丁目25番)のU氏邸の一室で新婚生活を始めた三船。この時、近所(八九六番地)の志村喬邸の風呂を使わせてもらっていたことや、続いて斜め前の七七七番地の一軒家に移り、さらにU氏の大邸宅と家を交換したことなどは、前に紹介したとおりです。これらはご家族の証言や東宝発行の「スタア名鑑」で判った事実ですが、それ以前(昭和23年頃)に岡本喜八監督(当時は助監督)と共同生活を送っていた下宿(監督は、撮影所から走って10分の〝素人下宿〟Tさんちと証言)の場所が、これまでどちらのご家族に伺っても不明の、謎のスポットとなっていました。
それがこの度、成城生まれの髙橋聰様の情報により謎が氷解。三船敏郎は、成城町六二七(現成城五丁目18番)の角地「高部」宅に住んでいたことが判ったのです。この部屋には、三船が出た後も「出世コースの俳優、何人かが住んだ」というので、まさに「素人下宿Tさん」に相当します。さらに、その後移り住んだBさんちは、消去法によりやはり成城五丁目18番北西側にあった「馬場」宅と推定されるに至りました(馬場姓のお宅は近辺に二軒ほどあったが、一軒のご当主に伺うと、三船が住んだ事実はないことが判明)。
幼い頃、三船にスクーターに乗せてもらった記憶があるという髙橋さんは、同級生の田村亮さんとは並んで明正小に通学した仲。京マチ子(大映)の敷地内(隣は千秋実邸)で遊び、やはり近所住まいの芦川いづみ(日活)や滝沢修(民藝)の姿もよく見かけたそうですから、なんと羨ましい環境でしょう。
さらに、六丁目在住の山本昭様からも情報が寄せられました。三船が整髪していたのが七四三番地の星野理容室であることは以前から判っていましたが、ほんの1ブロックしか離れていない自宅から、三船はロールスロイスかMGを使って店に通っていたというのです。これも、スターとしての嗜みだったのでしょうか。
昭和33年の狩野川台風のとき、三船が、仙川の氾濫で被災した人たちを、所有するボートで救出したことも有名な話です。三船のご近所=成城愛は、このエピソードだけにとどまりません。山本さんは、成城に大雪が降った年、三船が秘かに除雪作業を行っていたのを目撃したといいます。
近所の人たちの役に立とうと考えたのでしょう、心優しい三船は自ら拵えた三角形の除雪機具(ラッセル車のようなもの?)を、やはりMGで引っ張って雪かき作業に着手。ところが、いかに厚板で作ったとはいえ、所詮木製なので雪の上に浮いてしまい、除雪ははかどりません。そこで三船が考えたのは、機具の上に長男の史郎さんを重しとして乗せることでした。スリル満点の滑走を強いられていた(?)史郎さんに、丹下健三(建築家)邸にあった築山の上から雪玉を投げつけたのが、柳田國男の孫にあたるHさんと近くの洋館に住まうNさんのお二人。彼らには、てっきり史郎さんが橇に乗って遊んでいると見えたのでしょう。それを見た三船は、二人を叱るでもなく、史郎さんに「お前も投げ返したらどうだ?」と促したといいます。さすがは豪快かつ繊細な心をもつ三船敏郎。息子を鼓舞することで、相手の子供たちの悪戯もそれとなく許していたことになります。
山本さんは、三船敏郎に叱責された経験もお持ちです。深夜二時頃、都心から車で帰ってきた山本さんは世田谷通りを右折し、旧東宝撮影所裏門(現在のメインゲート)に差しかかったその時、後ろから猛スピードで追ってくるヘッドライトを発見。スピードを緩め、S字カーブを抜けると、その車は爆音を響かせて追い越しをかけてきます。横に並んだ車は見たことのあるクリーム色のMG! 左ハンドルの運転席にはなんと三船敏郎が乗っており、山本さんは「とろとろ走っているんじゃない!」と、映画で見たとおりの迫力ある表情、凄味のある声で叱責されてしまったといいます。
深夜に及ぶ撮影で気が立っていたのでしょうか、それとも一杯入って「黒澤のバカヤロー!」と叫びたかったのか……、三船敏郎はこうして成城六丁目の自宅へとMGを走らせていきます。
これは山本さんだけしか知らない、三船のプライベートでのワンシーン。教えていただいた「私だけが知っている」のも勿体なく、ここに発表させていただいた次第です。
こうして今でも、三船敏郎との思い出を大切にしている方々がいらっしゃることに、胸熱くするのは筆者だけでしょうか。成城を愛した‶世界のミフネ〟は、今も皆さんの心の中に生きているのです。
参考:三船敏郎が登場する過去記事はこちら↓
※『砧』832号(2022年8月発行)より転載(加筆の上、画像を追加)