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25年
1995年1月17日5:46:52、忘れてはいけない瞬間。
阪神淡路大震災から、今日で25年。毎年、朝は手をあわせました。
勿論今年も。。。。
25年前、5:47のテレビのタイマーで目を覚ますと、いつもの音楽はなく、
「おはようございます、近畿地方に大きな地震があったようです」と、確かあの時はまだ、おはよう朝日ですを毎朝つけていたので、乾アナウンサーの一言で眼が覚めた。しばらくすると、近畿各地の震度がテレビにうつり、京都が震度5で一番大きかった。当時は、京都の竜安寺から、大阪の本町まで通ってました。
JRは多分遅れると判断して、6:30に家を出てJR花園駅へ。電車は予測通り遅れだけど、何分とか何も表示が出てない。
いったん家に帰ってテレビをつけても、まだ何も情報がない。北野白梅町まで歩き、タクシーに乗って「京都駅まで」と言うと、『お客さん電車動いてないようですよ』と運転手さんが教えてくれたが、とにかく京都駅まで行きました。
京都タワービルのガラスが割れていたりして、最大震度5の地震の被害と思ってました。そして、前日、都大路を走った、都道府県女子駅伝チームが帰途に就こうと駅に来たが電車動かずで。。。。僕もどうしようかと、会社に電話するも、朝早くまだ誰もいなく、8:00過ぎに庶務の女性が電話口に。
「なんか地震で電車が全然動いてないんで遅れます」と伝えると、『誰も来てないですよ』と。そして、彼女がどうして会社に行けたか聞くと、近鉄電車と京阪電車は動いていると教えてくれた。京都駅から近鉄で丹波橋に出て、京阪に乗り換え淀屋橋まで行き、淀屋橋から本町まで徒歩。
途中のビルもガラスが割れたりしていて、結構大きな地震やったんやな~と考えながら5時間かかって会社に到着。その時点では、京都が一番の震度5までの情報しか僕の頭の中にはなかった。
会社に着くや否や、隣の課の課長が、『石井ちょっと』と。課長の机の上には、当時のヒット商品であったラップトップTVがありそこに映ってた映像は。。。。。
「えっ!課長これなんですか?どこですか?」
『神戸や!!神戸でかなり大きな地震があった!!』
僕は、まず自分の会社で駐在している社員30名の安否と、サッカー部の連中の安否をとりに公衆電話へ走った。社員は大半無事、問題は神戸出身者70%のサッカー部員の安否。安否はうやむやな状態であったが、みんな各部署で生存報告をしていたので何とか安心。
僕は次に東京本社へ電話。なかなか電話がつながらない。
我々は、当時からEメールを使用していて、今のように写メとかはまだ普及していなかったけど、状況をテキスト分で伝え、関西からではなかなか電話つながらないので本社から頼む!!といった内容のメールを送信。
しばらくして、総務部長から電話があった。
状況を説明し、自分の部署の上司がそく大阪に向かうとのこと。
夜に到着し、翌日から神戸の社員の家を回ってくれた。
忘れてはならない日。毎年こうして覚えてることをブログってます。
今年もブログれました、よかったです。。。。。。。