小説における文脈とギリギリのところにいたい私
良い記事がアップされていましたのでリンクしました。
まさにこれ、創作で一番大切な事だと私は考えています。いつも似たような事を書いていますが、自分が発表する作品はただポンっと作家の家の玄関から外に放り出されて「行ってらっしゃい」ではダメで、「じゃあ、皆さんによろしく言っておいてね」と送り出されなければなりません。つまり、作品は他の作品たちが会話している輪の中に入らなければならないのです。自分の作品は他の作品の使っている言語を作家の家にいる間によーく習っています。それが十分にできたと思ったら外に出て会話に参加するのですが、不十分であれば「君、何言ってんの?」と相手にされません。作品にそれを習わせるのがちゃんとできていないならそれは親である作家の責任です。作品はぽつんと孤独なまま冷たい雨の中の立ち尽くすでしょう。
難解であるとか、ストーリーが面白く無いは、どうしても出てきてしまうかもしれません。ですが、1つの作品を万人向けにわかるように作るのはなかなか難しい事ですし、そもそもストーリーの流れを上手くする事を作家は目標にしていなかったり、それが不可能だったりする事もあります。それは作日の記事でも書いた映画の話の中で、強固な警戒体制の敷かれている家に侵入する場面が全く無いまま暗殺サスペンスを成立させてしまうのと同じです。作り手にとってそれは全く大切ではないのです。難解もそうで、ここ1ヶ月以上私が名前を呼び続けているジョルジュ・バタイユの作品がまさにそれです。あの三島由紀夫でさえ、バタイユ作品が好きと言いながら読み違えていたのですから。それがどうしても仕方ないとは言いませんが、鑑賞するのに予備知識が必要なものも出てきてしまう事があります。
そうであっても、やはり文脈なのです。作家は作品に他者との会話に参加させたいと思って作ります。というか、それが何よりもまず最初にしなければならない事です。私は過去記事の中でトーベ・ヤンソンやアンデルセンを解体して自分の中に取り込んで書いてみるみたいな事をしているのはその為なのです。今はそれがジョルジュ・バタイユに移っています。そうそう、ちょっと前はほんの少しだけウェブ小説も同じようにやって書いてみました。
そうそう、私は桜坂郎さんのように芥川賞を目指して書いていたりはしませんよ。私はギリギリのところを狙って書きたいだけです。こいつバカ?って言われるかどうかのギリギリを狙って書きたいのです。それをする時に、その境目をよく知らないといけません。その境目の内側が文脈なのです。ちょっと踏み外すと崖下に落ちてしまうところにいたいのです。最初から崖下にいるって感じもしますが・・・
こんな事書いてる暇があったらさっさと校正終わらせてリリースせよ!と言われそうですね。その通りです。でも、その前にプレリリース版をPDFでnoteに公開しようかと考えていて、それも記事で言ったのですが、誰も反応してくれないので、やっぱり止めておこうかな? どうしようかな?