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どれだけ「自由」を使ってますか?

テーマとして今考えている内容と関連があるので引用させていただきました。そして重要なテーマだとも考えています。(ありがとうございます。)

 私はスピリチュアル系の思想を信望している者ではありませんから、スピリチュアル系の意見からはたぶんかなり外れると思います。(ですが、別記事で書きましたようにスピリチュアルを否定する事はありませんし、自分でもそれなりに本を読み、スピリチュアルを深く信望する複数の友達との交流もありました。)

 Sakuraさんが書かれている通り、自由に2つの意味があるのはそうだと考えます。束縛や拘束から解放される自由と思いのままにする自由です。

 ここで最初に問題になるのは「何から」の解放かではないでしょうか? 実は、これは多くの分野で「近代化」という概念に含まれるものです。つまり、時代が近代(現代じゃなくて、その前です。)に移行していた中で多くの分野で「自由」になる事がテーマでした。それが実現して現代に入れたかは別の問題で、割とそうでもないかもしれません。なぜなら、自由になろうとすればその先にさらに拘束が出て来てしまうからです。自由になる発想でできたものが次の拘束になります。そうした意味では現代になっても完全な自由はえられていないと言えます。(だって、今生きてて不自由を感じる事がまだまだ多いでしょう? でもこのことはとりあえず置いておきます。)

相手は誰?

 それで、実際、何が私たちを拘束しているかをちゃんと見なければなりませんが、それは陰謀論で言われるような支配者なのでしょうか? いえ、そんなのは実際のところ拘束者としては小物と言わざるを得ません。あらゆる組織も人間もいつかは死んでしまいますし、時代が変われば形を変えなければ存続できません。(陰謀論で挙げられる組織等は、中身を見ると実際に短期間でかなり変質しているのがわかります。)

 本当に問題になるのは、人の「考え方」の方です。自由を求める先人が戦った相手はそれです。極端な例ではジョン・レノンという人がいました。彼は言いました。「国なんか無くても良いじゃん。そしたら国どうし戦争なんてしなくて済むよ。戦争するなんてバカらしいよ。そんな事してる位ならベッドで寝てようよ。神様なんていないで良いじゃん。そのために争わなくて良いんだからね。」

 それで、あれから何十年も経っていますが、誰もまだ国なんてやめようとか、神様なんて捨てようとは言いません。それより国の体裁を保つには軍隊は必要だから徴兵制度もちゃんとしよう、その為に国民を働かせて税金取ろうって言ってます。この時にそう言ってる人を支配層だからって言ってそこから自由にって言っててもそれはおかしいわけです。だって、自分だって隣の国が攻めてきたらとか、あいつらがこっちの国の悪口言ってるとか思っちゃうわけだし、あっちの国より自分の国の方が優れているとか言い続けてたりします。

 そう考えると自分を拘束しているのは誰かじゃなくて本当は自分だったとわかるわけです。自分の心の中で当たり前って思ってる何かとか、正しさとかそっちの方が自分を拘束しているのです。昔の人が自由を獲得しようと考えていたのもそっちがメインです。もちろん考え方と考え方の戦いだからそれが人に属している事はあるのですが、それは「議論」を便宜的に人に置き換えたもので実際は他人を攻撃したり吊るしあげたりするのとは違います。議論は人がする事であっても人に属してはいません。(日本では議論の仕方を教育しないので今では政治家さえも個人攻撃が議論だと思っているようです。ある有名な政治評論家でジャーナリストの方でさえ、政治はパワーゲームだと言い切っています。政治の話をちゃんとせずに陣取りゲームの話ばかりしているって事です。)

解放された後は?

 拘束からの解放って事がもし実現できたとしたら、その後に何があるでしょうか? 例えば、今、日本にクーデターが起きて今の政治制度が壊れて無くなったとします。その後に何がのこると考えられますか? 天国のような理想郷ですか?
 いいえ、たぶん、別の政治制度と別の政府ができるはずです。ジョン・レノンが言ったように国が無くなるのはちょっと考えられません。たまに国が無くなってしまって後は野原ってところも実際にはありますが、ほとんどありません。だから新しい国になります。せっかく壊したのにまた!どうして? 簡単な事で、皆がそれを欲しがるからです。原始時代に戻りたくないですし、それ以外に私たちにはアイデアがありません。

 前置きが長くなりましたが、そうした国が壊れる事は歴史上何回もありました。日本もそうでしたし、ヨーロッパもそうでした。何が言いたいかというと、拘束の反対が自由だったのか?って事です。まあ、それも間違いじゃないとは思いますが、拘束を逃れて出来たものは自由だけじゃなくて平等ってのもあります。他にもいろいろあるでしょうけど、平等は大きな要素です。では自由と平等が両方できて良かった良かったで済むかというと、これもそうでもないです。自由と平等はよく喧嘩します。だって、誰かが自由が欲しいって言って自由に行動すると誰かの権利を侵害する事もあるからです。だからその度合いをどうするかは大きな議論の種です。(日本ではしないけど)

 最近はコロナとワクチン、それにアメリカ大統領選挙でその議論がかなり活発化しました。でも、私たち日本人にはそれがわからなかった。だって日本では自由とか平等とかって学校で言葉は習って知ってるけどどこからどこまでにみたいな話は誰も教えてくれないし政治家だってそんな話をしないから。もし私たちが宇宙の広い空間で生きられて資源はいくらでもあって誰がどれだけ持っていってもまだまだあればそんな議論はしなくて済みます。でもそんなわけにはいかないのはもうわかり切っている。だってTシャツ1枚買って着てもその先には貧しい人が毎日長時間仕事してまだ貧しいままにそれを縫っているってのが現実なわけだから。(このあたりあまり掘り下げるとヤバいからこれで終わり。)

自由って使ってんの?

 そうは言っても、実はもっとヤバい事も考えないといけないかもしれません。それは、皆って自分にある「自由」ってちゃんと使ってる?って事です。そうでもないよね。ここで言ってるのは、空飛びたいから空を飛んでるとかそういう意味じゃなくて、「自分の事、自分で決めてる?」って意味です。これがどうしてヤバいかというと、これも学校も先生も親も教えてくれないからです。先生は「君らは自由だ」と言ってくれるのですが、最終的にはもっと上の学校へ行きなさい、良い会社に入りないと言います。えっ?、それって自由を行使しろってのと違って規則や禁止事項に従え、世の中のやり方に従えって意味になって逆じゃない?それで我々もなんとなくそれに従ってしまったりしています。私たちは彼らの言葉は当然正しいと思って聞いています。そうしてその通りにします。与えられた選択肢の中ででです。

 でも、心のどこかで違和感を感じているのです。小学生位の頃、多くの人は思い、親に質問しましたよね。「ねえパパ、なんで勉強しなきゃいけないの? なんで学校いかなきゃいけないの?」と。

 与えられた選択肢だけの中から選ぶってことは、自分の事を自分で決めてるって事になるの? 決めてるようで決めてないのだと思います。たぶんほとんど決めてない。小中学校は義務教育だから親は子供を小中学校に行かせないといけない事になっている。仕方ない。それについて「いや、それは自由に決めて良いはずなのになぜ法律で決められてんだ!」と文句言う人がほとんどいないからデフォルトでこれは拘束。

 でも高校は? 大学は? そんなの勝手にやれば良いけど、けっこう多くの人が中学出たら高校行くものだと思ってるし、高校出たらすぐに大学行くものだと思ってる。実際にそうなってるしそうしてる。なぜ? 自由のはずなのに。つまり、この事は自分自身で決めてない。それが有利だし、それが普通だから異を唱えないでそのままそれに従う。

 実はこの前書いてた「60 in Blue」というお話の中にも自由ってのを底のところに置いて書いていました。主人公の男性は会社勤めをずっとしてきて定年になって気が付いた。「えっ、ここまでちゃんとやってきて、残ったものってこれだけなの?」と。ちょっとのお金と古びた家があるだけ。後は介護されるようになるまで家で大人しくテレビでも見ててねって事だと気付く。専業主婦やってきた女性主人公も同じで、「ここまでやって来たのは悪くなかったし幸せだったのは間違いないけど、これで終わり?」その二人が会って、本当に自分たちがしなきゃいけない事がわかるまでのお話。これからそうした境遇の人が増えると思うのです。それは、自由が目の前にあるけど使うのに慣れてなくて使えない人って意味です。高齢者て意味じゃないです。

CM ↓

 ついでに書いてしまうと、前の記事で出てくるジョルジュ・バタイユという作家も自由のために戦ってました。これは思想上の戦いです。人間は動物じゃない特別な特性や能力があるって人がこう言います。「人間は動物とちがって未来の目的のために今働くって事ができるんだ」確かにそうです。動物はたぶん来年の収穫の為に種を蒔きませんから。でもバタイユは反対して言います。「おまえら、それが本当に人間らしい生き方なのか!」と。「そんなのは禁止や規制に従ってやってるだけだろ。本当に人間らしいのは目的とか時間の経過とかそんなのから離れて心のままに恍惚とするまでやる事じゃないの?」そうですよね。〇〇の為にってやるのが人間なら社会はもっと計画とか規制とか命令に従って構成されてたくさんの人がそれに従うってのが人間社会になっちゃう。そんなのアリ?
 そういうわけで、20世紀前半にはもう今の我々が悩んでいることについての疑問は出てきていて言われていたし議題でもあったわけです。結局結論は出たのか出ないのかわからなくなって皆興味を失って言わなくなっただけで。

参考 ↓ (興味ある人だけ。)


気付くと大きな

 自由のような大きな概念的な問題を扱う時に学校とか会社とか言っていますと、「いや、そんな小っちゃなことじゃないよ」と思われるかもしれません。スピリチュアルがあまりに大きな宇宙のような事を問題にしていますのでその落差がとても大きくて違う次元だよと思ってしまいます。

 でも、今の居心地の悪さの原因をよく見てみればそれってけっこう肌に近い距離の違和感から来ているのもわかります。これはもちろん私が幾人ものスピリチュアルの人と交流があるからそう言っているわけですけれど。スピリチュアルを求める人と求めない人は同じ人間なわけで、それにだいたい似たようなところで生活して環境も同じですから違いはそう無いのです。どちらも同じ違和感の中で生きていて同じように嫌だな、おかしいな、こんなはずじゃなかったなと感じます。実際の違和感はけっこう具体的なものなのですが、自分自身だけで解決できないって思うものですし、実際にどうしようも無い事もあります。だから小さな違和感は実はとても大きくて重要だと思うのです。

無力?

 そうは言ってもですね、我々個人としては無力をとても感じてしまうわけです。それは日常いつもそうで、それは劣等感というかコンプレックスのようになってしまっています。私たちの社会はどっちかというと「従う」事で成り立つようにできていますからそれに対抗できなければ、適応できなければ自分がいけないと思ってしまったりします。いろいろな面でそうです。

 誰も潰れないと思っていた大きな企業、優秀な人をたくさん採用していて庶民から見ればほとんどエリートばかりで組織された頭脳集団のような会社が・・・・潰れるってのを私たちは見てきました。潰れなくても分割されて売られたりしています。平気でそうなってる。私たちはそれを見て考えます。中の誰か1人とか2人とかが、「それちゃうやろ!」って言わなかったの?と。 まあ、言わないんでしょう。それは従う事で成り立ってるから。つまりそこにいる限り自由じゃないのです。

 2022年のトヨタ自動車の入社式で社長が言いました。「車を好きになってください」「情熱をもってやってください」みたいな事を。いや、待ってよ。それは個人の信条の事だよね。会社とは関係ないじゃん。その心情にトヨタはお金払ってくれるっての? これって、自由の拘束じゃないかなと思ったりします。

 それで良いの?って疑問に思ってる人、実は多いと思うのです。そして同じかそれ以上に無力を感じている人も多いと想像します。解決策は無いです。でも、実際のところ問題は「割と自分の近くにある」という事がありますし、それに対して(できるだけ)「自分の事を自分で決める」って心がければそれが解決策になるかも、とも思います。そして自分だけじゃなくて他人が自分自身の事として決める事に対して寛容であれば我々全体として楽じゃないかなとも考えるのです。

おわり

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