特急・古代への旅 2
日本の古代は謎に満ちている。
私たちの日本の成り立ちと始まりはどのようなものだったのか。
その謎を解き明かす旅へ出発する。
東京駅9番線21時50分発、最後の寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」で、
私たちはまず出雲へ向かった。
その第2話である。
その2 第一章 出雲
出雲には限りなくポイントがある。
興味が湧いたら、何度も訪ねてさらに深く分け入ることができる、古代冥界への入口である。
出雲市駅から松江しんじ湖温泉行きの一畑電車に乗り、途中の川跡(かわと)という駅で乗換え、出雲大社前駅へ向かう。この駅名は斐伊川の川筋が変わった跡の意味なのだろうか。
一畑電車には、南海電鉄の特急「こうや」号や京王、西武の旧車両などが第二のお勤めで活躍し、今は東急1000系も加わって、なかなか楽しい。
平成2年までは国鉄大社駅があり、昭和60年まで名古屋や大阪から急行「大社」などが直接乗り入れていた。
駅舎は国の重要文化財として今も保存されている。大社を模した立派な駅舎だ。
出雲大社
壮大である。社殿の前に立っただけで、感動を覚える。
「雲に分け入る千木(ちぎ)」、胴回り九メートルの太い注連縄、巨大で簡素な本殿。
これだけ名高い神社でありながら、謎でいっぱいの神社である。
今回の旅は、この謎を解く旅でもあるのだ。
祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)。「だいこくさま」である。
いなばの白兎を助け、兄神や八万(やおよろず)の神たちに死ぬほど迫害されながら、国生みをしてこの国を作ったとされる神、大国主命。
[降臨した天孫ニニギノミコト]に、国を譲れと迫られ、美保の岬で釣りをしていた息子の事代主神(コトシロヌシ)に相談して国譲りを決め、自分は幽界を治めるから大社を造ってくれと言って鎮まった。
そこが出雲大社である、と日本書紀は書く。古くは杵築(キツキ)大社と呼ばれた。
ちなみに事代主神は太公望の「えびすさま」である。
「大社造り」。これが謎の造りであることは有名だ。
本殿の内部は、「心の御柱」を中心に4つに区切られ、主祭神の大国主命は、本殿の右奥に左を向いて鎮座している。
そして左奥には、大和の神々が正面を向いて座っている。
本殿の入り口は正面でなく、右隅にある。しかも本殿自体が妻入り、つまり横向きだ。
主祭神に会うには、入り口から左へ向かい、心の御柱を右折して大和の神々の前で右折して
ようやくたどり着く。
つまり参拝客は、横向きの主祭神・大国主命を拝んでいることになるのだ。
それを良くご存知の地元の人々は、わざわざ本殿左側へ回り、左横の塀越しに拝んでいる。
だからそこにも小さな賽銭箱が置いてある。
大国主命の神座は、「常世の国に相対せられている」ゆえ西方に向いている、という。(千家尊統「出雲大社」)
大社造り、不思議な社(やしろ)だ。
しかし、この大社の清涼感、荘厳さは何だろう。
冥界の入り口、出雲大社。特急列車の名前とは逆の「サンセット出雲」。
出雲大社は、現在以上に壮大な神殿であったことで有名だ。
平安時代に、大きい建物ランキングとして、「雲太、和二、京三」、つまり一位・出雲大社、二位・東大寺大仏殿、三位・京都御所大極殿であると、「口遊び」という書物に書かれている。
奈良の大仏より大きく、高さ十六丈あったといわれる。熊谷組の再現プロジェクトによると、高さ48メートルもあったという。あまりの大きさに、歴史上、何度も倒壊した記録がある。
なぜ、そこまでして大きな神殿を造ったのだろうか?
出雲大社の本殿の真後ろには、「素鵞社(そがしゃ)」という摂社が鎮座しており、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀っている。日本書紀や古事記(記紀)には、大国主命の父で、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟と書かれている。
粗暴で乱暴狼藉のあげく、姉のアマテラスが天の岩戸に隠れる原因を作った「荒ぶる神」として、記紀には悪しざまに書かれている神である。
壮大な本殿の背後、鬱蒼とした木立の中に、異様なほどの存在感を示す素鵞社。気になる存在だ。
大社造りの構造から、一般の人々が本殿越しに拝んでいるのは、実はこの素盞社ではないのかと思わせる位置関係だ。
(この旅の中で、何かそのヒントが見つかるかもしれない。)
もうひとつ気になるのが、「十九社」である。本殿の両脇に細長く並んでいる。
毎年十月、出雲以外が「神無月」の月、ここに全国の八百万(やおよろず)の神が集まって来る。
出雲は「神有月」となる。
神々は、出雲大社の門前、国譲りの場である稲佐浜に上陸し、十月十日からこの出雲大社十九社に集い、そのあと東の佐太大社などに移って、二十七日に直江の万九千社からそれぞれの国へと帰って行くという。
出雲は神事を主宰する神の国なのである。
稲佐浜から、さらに奥へ岬をめぐると、朱塗りの日御神社がある。
上社の祭神スサノオが、下社の祭神アマテラスを見下ろしている。向かうのは日本海、その正面は朝鮮半島、新羅である。
出雲大社で浮かんだ謎を追って、旅を進めよう。
神庭荒神谷遺跡
出雲は記紀神話で重要な役割を担う土地である。
しかし長らく、出雲には何もない、といわれてきた。
つまり、考古学的に目ぼしい遺跡や発見がほとんどなく、出雲は神話に謳われるだけの実体のない土地だといわれてきたのだ。
ところが、昭和59年(1984年)、出雲市の隣、斐伊川が流れる斐川町の広域農道工事の事前調査で、大変なものが見つかったのである。
最初は、古墳時代の須恵器の一片を拾ったことから始まった。そして調査のトレンチの一角から、銅剣の一部が見つかったのだ。
その時の現場の様子が斐川町の冊子に書かれている。「予期せぬ発見に関係者は一様に驚きの表情。山陰考古学界の第一人者、山本清氏が訪れ、銅剣を確認。大御所の来訪で一挙に緊張感が走る。」大発見の興奮が伝わってくる。
猛暑の炎天下、島根県と斐川町の教育委員会の人々、そして山陰や奈良の専門家による発掘の結果、4列に並べられた368本の銅剣が発見されたのである。
それまで、日本全国で発見された銅剣の合計が約300本であり、一箇所からの出土数は淡路島・古津路遺跡の13本が最大だったから、まさに驚天動地の発見であった。
そして2年後、付近をレーダーで探ったところ、さらに銅鐸6個と銅矛16本を発見した。
銅剣と同時に埋められたものとみられ、銅鐸には最古のⅠ式、菱環紐式のものもあった。
教科書にはそれまで、弥生時代の青銅器文化は「近畿を中心とする銅鐸文化圏」と「北九州を中心とする銅剣・銅矛文化圏」の二大勢力に分かれる、と書かれていたから、銅鐸・銅剣・銅矛が同じ場所からしかも大量に出土した荒神谷の発見は、青銅器二大分布圏説を覆す大事件となった。
さらにその12年後の1996年、近くの加茂岩倉遺跡から、全国最多の39個もの銅鐸が見つかり、学界においても、出雲の存在感はにわかに大きなものとなった。神話は架空でなく、大きな勢力が出雲に存在した可能性を示す証左となったのである。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は、「サンライズ出雲」から見た出雲平野の神奈備・仏経山の表側と裏側にあたり、わずか3キロの距離にある。
しかも荒神谷の銅剣のうち344本と、加茂岩倉の銅鐸のうち12個には、同じ「×」のマークが刻まれていた。
(荒神谷遺跡は、斐伊川下流・出雲ドーム付近にある矢部遺跡などの集落を中心とした人々、加茂岩倉遺跡は奥出雲の木次から横田、そして吉備へのルートに存在した人々が埋葬した祭器だろうともいわれている)。
1世紀後半に、マツリの青銅器祭器を一斉に埋めた事情とは一体何だろう。
そして、謎の×印は何を意味しているのだろう。
中国の史書に、2世紀の列島は「倭国争乱」であったと書かれている
青銅器祭器が埋納された百年後、2世紀後半には出雲を中心とした日本海側に、突如「四隅突出型墳丘墓」という独特の首長墓が築かれる。
前方後円墳などが現れるはるか以前のことだ。
荒神谷遺跡から斐伊川をはさんだ西側、出雲市駅の近くにその四隅突出型墳丘墓の西谷墳墓群がある。
弥生時代後期の2世紀、出雲の地に出現した、かつてないほど大規模な「王墓」である。
そして四隅突出型墳丘墓は、はるか北陸まで、日本海側に広がっていく。
確たる答えはまだ誰にもわからない。そこが古代探索の面白いところでもある。
数少ない古文献と先学の研究、発見された考古学史料を参考に、自由に推理してゆく。
そして何より、現地の土と空気に触れることで、さらに大きな想像力がふくらむのである。
フィールドワーク、この旅はその楽しい謎解きの旅である。
*荒神谷遺跡は、山陰本線荘原駅の南西約3キロ。
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