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渋沢栄一が最期に期待したこと

渋沢栄一の生涯をたどる旅もいよいよ最後となった。これまで連載を読んでいただいた皆さんに心から謝意を伝える。
私の中でどこか彼の物語を終わらせたくないという思いがあり、なかなか筆を起こす気になれなかった。人生には始まりがあれば、終わりがある。本稿では、彼の最期の時をご一緒頂ければ幸いである。

彼は1909年に第一銀行頭取と東京貯蓄銀行取締役会長を除き、企業の相談役や監査役の職を辞した。その後、1916年それらの職も辞し、完全に実業界を引退する。ではなぜ、1909年に事実上、実業界から引退したのか、その点を探求していきたい。
私は以下の3点が、引退を決断した理由だと考える。

1、日本社会全体で世代交代が進んでいたこと
2、栄一の思想とは違う形で国が豊かになっていったこと
3、自分の信頼していた部下が不祥事の引責で自死したこと

この3つはすべて関連していると考えている。
1つ目の「実業界でも世代交代が進んでいたこと」は、江戸末期~明治初期の近代国家を作り上げた英雄たちが政界でも実業界でも英雄たちが退き、世代交代が進んでいた。そのことで、彼が頼っていた人的ネットワークにも影響が生まれ始める。加えて、若手が台頭することで、栄一が過去の人、昔の英雄の様に見られるようになってしまった。そうなると、絶大なる影響力が、徐々に弱まっていった。
そして、世代交代は社会にも大きな影響を与えていた。「近代国家を創る!」という思想の基、江戸幕府から明治政府へと変わり、近代国家の仲間入りをした日本である。その当時の人々が持っていた情熱は推し測るものがある。栄一も官尊民卑の打破を志し、大蔵省を下野し、実業界で骨を埋めることを決断した。


ここから2点目にもつながるが、世代交代が進んだ際に、創る思想から拡大する思想に変わっていき、規模の拡大が優先された。顕著な例としては、規模の拡大を優先するあまり、利益が出ない構造となり、窮地に立たされる企業が増加した。規模が大きくなったゆえに国民のインフラとなってしまっているので、国家が救済せざる得ない事態になった。そのような事態が頻発することで、規模を無理に拡大し→経営危機に陥り→国家が救済する、という負のサイクルが回ってしまっていた。まるで今の中国を見ているようだ。このようなサイクルが回っているため、志しなき拡大、つまり手っ取り早く規模を拡大することが優先された。このサイクルが回っているということはある意味、商業の力が認められ、民が官を動かしたと言える。よって、官尊民卑は打破できたと言えるが、それは栄一が望んだような形ではなかった。
このような実業界人の動きを危惧した栄一は「道徳経済合一説」を世に訴える。これは、「仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきものである」※1という考えである。要するに、仁義や道徳を忘れずに、何のために経済活動をするのかを考えなさい、と言ったのだ。道徳が先に来ているあたりが、彼らしい。
しかし、栄一の声に耳を傾ける人は多くはなかったのだろう。日本は志しや道徳を置き去りにして、どんどんと豊かになっていく。


国が豊かになっているさなかに起きた不祥事が、日糖事件である。これが3点目の引退理由であり、最終トリガーとなった。日糖事件とは、1909年に大日本製糖株式会社が大規模な政界工作、つまり賄賂を送り、同社の重役や衆議院議員も数多く摘発され、23名の代議士が有罪となった事件である。賄賂を送った理由は税の補助消滅を阻止するためである。自社の都合が優先された考えであり、道徳やモラルを感じることはできない。この事件からも、明治後期、大正期の実業界人の姿勢が見て取れる。
そして、「栄一が社長に推薦した酒匂常明は、不正経理が行われていることに気づくのが遅れ、適切な処理をとることができなかった。栄一は酒匂を厳しく非難した。その結果、酒匂は引責自殺という悲劇的な結末を迎えることになる」。※1
栄一はマスコミからこの事件により引退するのか、と迫られると、きっぱりと否定をしていた。しかし、彼に多大なる心理的なダメージを与えたことは想像に難くない。また、先に述べた2点も重なり、同年古希を機に、実業界から事実上引退する。

明治初期に比べると、明治後期~大正期は国が豊かになったことで、どこかに道徳や大志を置き去りにしているようにも見えてしまう。近年の日本にも通じるところがあるのではないだろうか。
しかし、栄一の場合は、引退後も大志を持ち続けた。実業家時代の大志は「国家繁栄のため、商工業を発達させる。そのために、実業界の人になる」というものであった。それが、引退後は道徳の啓蒙、平和の維持になったと考える。道徳の啓蒙について栄一は、講演で道徳経済合一説を訴え続けた。そして、1916年には名著となる『論語と算盤』を出版して、その思想を伝えようとしたのである。

次に、平和の維持についても、彼は相当力を入れていたのではないだろうか。特に日米関係を良好に保つことが彼の最期の使命であったのだろう。
日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で連戦連勝し、勢いに乗っていた。その結果、軍備の拡張を続けた日本と、各国との国際関係に緊張感が高まっていたことは、皆さんも御存知だろう。
このような状況下において栄一は、大国アメリカとの友好関係を極めて重要視していた。栄一は1906年サンフランシスコ大地震が起きた時に、真っ先に寄付を募り、また自身も多額の寄付をする。この行為は米国から称賛された。「しかし、米国では桂・ハリマン協定の反故を機に、排日の機運が高まっていた。この震災時も学校が被災すると、教室が足りないという理由で、日本児童は締め出されてしまう」。※2
さすがに日本政府も焦り、渡米実業団を結成し、栄一に団長を依頼する。この依頼を快諾した栄一は、最後の渡米をすることになる。この渡米で彼は、60余りの都市を訪問し、大統領とも会談をしている。
アメリカ出国の演説の中で、「日本がアメリカによって文明社会の仲間入りをして半世紀、両国民の交情は年々強くなり、日本に災害があったとき、アメリカは大いに援助をしてくれました。ですから日本国民は、アメリカに好感情を抱いています。私は何の官職も帯びない、ある意味、日本国民が貴国民に対して派遣した平和の使節です。両国の友誼をさらに強固にするのが日本国民の希望であり、そのためにやって来ました。そして、その気持ちはアメリカ人も同じであることを各地をめぐるうちに確信しました」※3と述べている。栄一の中で、日米関係が改善されたことを喜んでいる様子が伺える。

そんな栄一の思いとは裏腹に日本は第一次世界大戦後、アジアへの侵攻をより強めていき、両国の緊張感は高まってしまう。両国の関係を維持するため栄一は、「経済界を中心とした民間で定期的に腹蔵なく意見交換できる場をつくろうとする。1916年完全な引退を契機に日米関係委員会を設立する」。※1この場では数多くの議論や対話が行われた。まさに、日米親善の礎を築いたとい言ってもよいだろう。
栄一の行動があったためか、1923年関東大震災が起きた時には、米国から多大なる寄付が送られることとなる。このように、栄一が両国の親善に大きく貢献した。

ただ、残念なことに、米国内で日本人に仕事が奪われるという懸念から、排日感情は高まっていく。そしてついに、1924年は日移民法が制定される。この法案が成立したことで、日米関係委員会の活動もストップしてしまう。
ただし、米国内でも同法案に反対する声を上げる人は多くいた。その一人として、宣教師として日本に滞在していたシドニー・ギューリックがいる。彼は、国交が断絶することを危惧していた。そこで、日本の人形文化に着目した。人形であれば子どもたちが喜ぶし、緩やかな形で国交が続くものと考えた。1927年に栄一は彼から親善の証である親善人形を日米で贈り合うことを提案される。栄一はこの提案の重要性を理解し、両国で親善人形を送り合うため日本国際児童親善会を立ち上げる。記録では、米国からは述べ12,000体の人形が送られており、この団体が日米親善に貢献したことが伺える。
しかし、栄一の希望が叶うことなく、彼の没後、日本とアメリカは第二次世界大戦へと突入してしまう。

栄一は1931年にその生涯を閉じた。彼を葬送するため、約1万人が参列したとも言われている。この数からも、彼がこの国に多大なる貢献をしてきたことが見えてくる。
彼の思想や行動の素晴らしさは、これまで述べてきたとおりである。彼の理想とする国家には届かなかったかも知れないが、近代国家の基盤を作ったことは間違いない。

今の先進国には道徳経済合一が本当に必要だと思う。今こそ、数字の拡大ばかりを追い求める金融資本主義から別れを告げ、道徳に基づく経済に立ち帰るべきではないだろうか。私は金融資本主義がロシアを追い込んだことで、ウクライナ侵攻という蛮行を起こすきっかけになったのではないかと推察する。
このような状況の中で、我々がどの様に行動すべきなのだろうか。良くも悪くも、今の日本は非常に恵まれている。それ故に大志を描きにくい。栄一は最期の時まで、平和を強く願っていた。私はその意思を引き継ぎたい。もう一度自分の大志に向き合い、使命を果たしていきたいと思っている。
現代は栄一が生きた時代より、ICTのツールが発達している。私達はPC、スマホがあれば行動することできる。私は平和維持のために何ができるのか、考え、さまざまな人と対話し、行動していきたいと思う。
最後に、大志は人それぞれで良いと思う。そのようなことを考え続けることが大事なのだ。本稿が、一人ひとりが大志を持ち、道徳を忘れず、行動するきっかけになればこの上ない喜びである。
「平和のため、一緒に行動していこう」。このメッセージを最後とし、本連載を終える。

今後は渋沢栄一の生涯を追うのではなく、別の形で彼の魅力を伝えていきたいと思っている。また機会があれば、ぜひご覧いただきたい。

引用文献:
※1渋沢栄一記念財団『渋沢栄一を知る辞典』東京堂出版
※2河合 敦「NECフィールディングEye:第10回 民間外交で活躍した渋沢栄一」
※3渋沢栄一記念財団『デジタル版渋沢栄一伝記資料』


参考図書:
城山三郎 『雄気堂々 上下』新潮文庫
渋沢栄一 『雨夜譚』岩波書店
木村昌人『渋沢栄一 民間経済外交の創始者』中公新書
島田昌和『渋沢栄一の企業者活動の研究』日本経済評論社
島田昌和『社会起業家の先駆者』岩波新書
渋沢秀雄 『父渋沢栄一』実業之日本社


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