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瞬間、自責と無力感の向こう側に

 中学校から家に帰ると母が寝込んでいた。
 まだ仕事の時間のはずなのに、父も家にいた。

 交通事故に遭ったという。母が乗用車にのって信号待ちをしているところに、後ろから衝突。そんなの避けられるわけがない。
 「ただの頚椎捻挫だから。」と、病院から帰宅したばかりの母は云った。「2, 3週間で良くなるだろうって。」そう云いながら母は笑ってみせた。

 2週間のうちに母の体調は悪化していった。ひどい頭痛と耳鳴りが続き、歩くと目眩がして転びそうになるからと、一日のほとんどを布団で過ごしていた。

 流石に様子がおかしいと通院していた整形外科から総合病院の脳神経外科へ紹介となり、精査の結果は「脳脊髄液減少症」とのことだった。

 脳脊髄液減少症とは、一般に外傷などによって硬膜(脳神経系を保護する膜)が損傷し、持続的あるいは断続的に髄液が硬膜外に漏出することで脳脊髄圧が低下するために、頭痛や悪心、目眩、耳鳴りなどを引き起こす疾患とされる。
 母の硬膜の損傷度合いとしては「軽症」で、手術適応はなく、対症療法が標準とのことだった。

 母に対して何もできない自分が悔しかった。

 家事のひとつも出来ない状態でも軽症だ。
 父と妹と自分で家事を分担して、なるべく母に負担をかけないように看病を続けた。

 整形外科も脳神経外科も、この「軽症」な母に対して何も有効な「治療」は出来なかった。

 転機が訪れたのは3ヶ月程過ぎた頃だった思う。

 知人の勧めで漢方外来をやっている医院に通うようになり、さらにその伝で腕の良い鍼灸師に巡り会うことができた。

 先生は諦めなかった。

「だいぶ拗れちゃってるね、もっとはやく来てもらえていたらなぁ」と。時間はかかりますよ、と言って始めた治療を続ける中で、母の体調はみるみる回復していった。
 半年程の治療で、母はかなり回復し、耳鳴りが残ったり雨の日に頭痛がすることもあったが、日常生活にはすっかり復帰することができた。
 ただ感謝しかなかった。

 専門外だからと諦める医者にはなりたくない。

 幼い頃から体が弱く、医学の道に興味のあった私は、その思いを強くしていった。

 その地域で柄の悪いことで有名な不良中学から、医学部を目指すことは無謀に思えた。しかし諦めるという選択肢は私の頭になかった。

 私はひたすら勉強した。県内トップの進学校を経て、国立医学部に合格した。
 医師なった私は、自身の身体的問題から外科の道を選ぶことは出来なかったが、色々な苦しみに悩んでいる人に幅広く応えられるようになりたいという思いから、内科医として西洋医学と東洋医学を統合することを目指す道を進んでいる。
 なんでも治せる医者、というのは欲張り過ぎかもしれないが、それに近いものを目指したい。患者本人とその家族の抱える苦悩に、共感できる医師でありたいと思う。


 ベッドから動けずに寝込んでいる母の、哀しそうで申し訳なさそうな背中が忘れられない。少しだけ震えていたその背中は、きっと声を殺して泣いていた。

 母が動けないなら、自分が動こう。

 それは私のエンジンがかかった瞬間だった。


#エンジンがかかった瞬間

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渡邊惺仁
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