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人間はバカではないけど、それほど賢くない

 その昔、ある国の王様が国民の中から最も優れた人物を見つけて栄誉を授けようと考えた。
 裕福な資産家、癒しの力を持つ人、知恵と法の知識を持つ人、商才に恵まれた人など多くの成功者が次々と王宮に連れてこられた。
 ところが、最も優れた人を選ぶのはとても難しいことだとわかった。
 そしてついに最後の候補者が王の前に立った。
 それは女性だった。髪は白く身なりも派手ではなかったが、その目は知識と理解、そして愛の光で輝いていた。
 「この者は誰だ、その功績は?」と、王は尋ねた。 
 すると家臣が答えた。
「これまでの候補者全員の話しをお聞きなされたと思います。じつは、この者は彼らの教師です」
 人々は拍手喝采し、王は玉座から下りて老女に栄誉を授けたという。

 これは教育の大切さを教える故事だ。

 教えることの出来ない子供というものはいない。いるのは子供たちにうまく教えられない学校と教師だ。平凡が教師は言ってきかせる。良い教師は説明する。優秀な教師はやってみせる。最高の教師は子供の心に火をつけるといわれている。

 多くの先生が最高の教師を目指しているはずなのに、現実の世の中はいじめ、家庭内暴力、耐震偽装、食品偽装、政治汚職などおよそ教育成果と縁遠い出来事が絶えない。日本の教育はどこで間違ったのかと考えさせられるニュースで溢れている。

 その背景には「大は小を兼ねる」の発想があるのではないかと私は思っている。大きいものはそれ自体の役割の他に、小さなものの代わりとしての役目も果たすが、小さなものは大きいものの代わりにはならないという意味だ。中国の漢の時代の学者だった董仲舒の道徳論文集『春秋繁露』が由来だとされる。

 戦後の日本の目覚ましい経済復興はまさにこの考え方の上に成り立ってきた。焼け野原になった祖国に残された政府も、国民も、ひたすら経済成長のために邁進した。すべてのことが経済成長優先で決められた。工業化推進のため、学校教育は均質が労働者を大量に育成することに重点が置かれた。生産性、効率、合理性を求め、伝統や哲学、文化・芸術など数字で計れないものは切り捨てられた。

 企業は製品を大量生産し、ひたすら規模の拡大に躍起になった。見上げるような巨大本社ビルや高い煙突を立てた大工場が成長のシンボルだった。とくに国民総生産(GNP)が大きくなればなるほど豊かになり、幸せになれると誰もが信じて疑わなかった時代だった。その象徴が東京タワーであり、1964年の東京五輪、東海道新幹線開通だった。ヒット曲は坂本九さんが歌った「上を向いて歩こう」である。

 日本人の姿も変った。質素倹約、質実剛健、つつましさが美徳だった日本人は、1980年代に母国が米国に次ぐ世界第2位の経済大国になって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と持ち上げられ、傲慢で贅沢になった。我が物顔の日本人ビジネスマンが米国やアジアの人々の神経を逆なでし、「アグリー・アメリカン」に変って「アグリー・ジャパニーズ(醜い日本人)」が登場した。

 しかし、華々しい経済発展の裏側で、水俣病などの公害問題、都市への人口集中、農業の荒廃、拝金主義の蔓延、格差の拡大など様々な問題が次々と噴出した。バブル崩壊で経済が輝きを失った後は、一億総活躍どころか一億自信喪失となって将来不安だけが残った。それが今も続いている。

 アベノミクスが笛吹けど踊らずでうまくいかなかったのは、高度経済成長期の大企業優先の経済成長イメージを引きずっていたからだ。岸田首相の偏った富を再分配するという触れ込みの「新しい資本主義」も言葉だけが空回りして心許ない。

 もちろん希望がないわけではない。日本はまだお金持ちの国で治安も衛生状態も極めていい。優れたインフラや人材も存在する。振り返れば世界で顔の見える日本人も数多く登場した。ソニー創業者の盛田昭夫さんをはじめ、音楽の小澤征爾さん、アニメの宮崎駿さん、文学の村上春樹さん、iPS細胞でノーベル生理学・医学賞受賞の山中伸弥教授などなど。

 私の好きな変わり種は、米国でホットドッグ早食い競争で圧倒的な強さをみせた長野県出身の小林尊さんだ。パンとウインナを別々に分けて食べる技で113本の世界記録打ち立てた。ホットドッグが本場の米国人は悔しがった。そこで地元の新聞はこう書いた。「米国人は胃袋を使ったが、日本人は頭を使った」 

 痛快ではないか。

 昨今盛んに求められている文化や多様性とは、別の言葉でいえば経済的ににわかに役に立たないことを楽しむゆとりのことだ。

 そのことに気づかれた福武書店(ベネッセ)創業者の福武哲彦さんは、「良く生きる」「自由に生きる」とは何かを考え、建築家の安藤忠雄さんの協力を得て、瀬戸内海のはげ山の小島だった直島を現代アートの島に変身させた。私も安藤さんと訪れたことがある。人口わずか3000人の島だ。だが、瀬戸内海国際芸術祭の季節には120万人以上の人が訪れ、その3分の1は海外からである。

 人間には、自然とアートが水や空気のように生きていくために必要なのだ。

 東大名誉教授で農学の大家だった小林尚三郎先生はその必要性を「ふりかえれば、未来」という言葉に込めておられた。現代人が見落としている人類の過去の英知を未来に投影し、「教育は画一から多様に戻れ」と。

 ところが問題は、グローバル化と情報通信革命が多様化よりも平準化に向かっていることだ。フェイスブック、ツイッターなどSNSの普及で、皮肉なことに世界の人々が同じ情報に触れ、同じ価値観、同じ考え方になりつつある。

 はたまた盲目的な科学技術信仰から、「人間の力では木の葉一枚つくれない」のに人類を殲滅させる核兵器を作りだし、AIロボットに戦争をやらせようとしている。必要もないし安全性も心配なリニア新幹線に9兆円以上注ぎ込んだりもする。

 目が見えない、耳が聞こえない、口がきけない、という三重苦を克服したヘレン・ケラー女史の「世間で最も素晴しく、最も美しいものは、目で見たり手で触れたりすることはできません。それは、心で感じなければならないのです」という言葉をいまこそ噛みしめる時ではないか。

 人間はバカではないけれど、それほど賢くもないのだから。

                                                             (写真はvogue.co.jp)


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