花とひとびと
恋人になんでもいいから花の名前をひとつ教えておきなさい、花は毎年咲くから、もし別れたとしても彼はその花を見るたびあなたを思い出しますよ。
そんな趣旨の言葉をどこかで聞いたことがある。なんとも切なげで、しかし美しい言葉だと思ったので心にそっと留めておいた。
けれどある花を見て誰かを思い出すというのは、何も恋人同士に限ったことではないなあ、と思う。そのことを以前、私が知っている中で最も親しい後輩の女の子に言ったら、彼女はたんぽぽを見ると私を思い出すと言っていた。
彼女は以前、私が道端にたんぽぽが咲いているのを見つけ、はしゃいで写真を撮っていたので、それ以来たんぽぽを見かけると私のことを思い出すのだそう。つい最近も、たんぽぽの写真とともに「あなたの花」という短いメッセージが送られてきていて、ふっと心が華やいだ。
私は特別たんぽぽを好きなわけではない。けれどそんな風に、誰かが私の意図しないところで、特定の花と私を結びつけて記憶しているというのはなんとも嬉しい。私が自分でその花を決められないのもいいなと思う。相手に委ねられているのだということが何より魅力的だ。
そして私も特定の花を見ると思い出す誰かがいるかな、と思って考えてはみるのだけど、なかなか難しい。自分で外を歩き回り、この目でその花たちを見なくては、遠い記憶の波の彼方から顔を出さない思い出も多くあるだろう。おまけに、たとえ同じ人物であってもいくつかの花とその人が結びついていることだってあると思う。
けれど私がぱっと思い浮かべたのは母だ。
母はそこらに咲いている野の花に詳しいので、小さいころから一緒に散歩をしていて、「これなあに?」と聞いたら必ず教えてくれたものだ。分からない花があれば素直に「分からんなぁ」と返してくれた。
私がその会話から実際に覚えた花の名前はごくわずかだけど、その会話のやりとり自体が好きだったのだな、と今は分かる。問いかけに対して答えてくれるそのやりとりを、幼いころから楽しんでいたのだと思う。
けれどその中でひとつだけしっかり覚えていて、それを見ると母を思い出す花がある。
大学1年生の前期、私は実家にいた。コロナウイルスの影響ですべての授業がオンラインになったので、実家で授業を受けていたのだ。そんな平日の合間、時間が空いたときには母の買い物について行く機会がよくあった。
初夏、車で30分ほどかけてお店へ行き、帰りに家まであと少しという川沿いの道を走っていたときだ。母が運転をし、私は助手席に乗って2人でおしゃべりをしていると、母がふと言ったのだ。
「わ~、ねむの木がいっぱい。お母ちゃん、ねむの花が好きなんよねえ、ピンクでふわふわしててかわいいでしょう」
田舎道には草も花も木もそこらじゅうにたくさんあるのだけど、母が指したのは木だった。ふわふわとピンク色の花で染まった木があったのだ。それを「ねむの木」ということをそのとき初めて知った。
「本当だ、かわいいねえ。あっ、ねえあれも?」
「そうそう!あれも」
「さっきもあったよ!あっ、これもじゃない?」
「いっぱいあるな!」
開け放った窓から入ってくる爽やかな風から初夏の匂いを感じとり、私は母と2人でわあわあ騒ぎながらねむの木を見つけて家路を辿った。ねむの木はとてもたくさんあって、川沿いにも遠くの山の方にも、その花の色のおかげですぐに見つけることができた。
あの帰り道が本当に楽しかったのだと思う。
去年の初夏、大学構内に植えられている木についている花を見て、私は思わず「あっ」と声が出た。ねむの花だったからだ。そして楽しそうにねむの木を探していた母の横顔を鮮やかに思い出した。
誰も気に留めないねむの木をひとりで見上げながら、ああこれから私、ねむの花が咲くたびに、母のことを思い出すのだと思った。この花を見るたびに、あのなんでもない日の母との、なんでもないドライブを思い出すのだ。きっとこれから先も、いつか母がいなくなってしまった後でも、ねむの花がこの世界にある限り、私が生きている限りは。明るい初夏の時期に、私はそんなことを思った。
そしてそれはひどく優しいことだと思う。思わずぽろりと涙がこぼれてしまいそうなほどに。
そういうのを誰しも携えて生きているのではないだろうか。私がねむの花を見て母を思うように、誰か私を大切に思ってくれている人の中で、何かの花と私がぎゅっと結びついてくれていたらいいな、と思う。
それは私自身は決して知らなくていいし、知らない方がいいのかもしれない。その時期がくれば必ずつぼみを開かせる花と、その花とゆかりあるひとびとを重ね、その人を思うこと。人生がそういうささやかなことの繰り返しであって欲しいと願う。そうすれば私の人生は花だらけになるだろう。
そしていつか生を手放すとき、私の記憶が花とひとびとの笑顔で満ちていればいいと思う。