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同窓会のこと

先日、中学の同窓会開催の連絡が来た。それは当時生徒会長だった男の子から、LINEのグループトークルームへの投稿という形で私に届いた。どうやら来年の1月頭にある成人式に合わせて、同窓会を開くらしいのだ。

同窓会って、こんなに早くから開くものなんだな…と思いながら、中学の卒業生で構成されたグループLINEを眺め、参加するかしないかを問う投票を開いて、すでに投票している懐かしい同級生たちの名前を指でなぞってみたとき、はっと気づいてしまった。

もしかして私はあの憧れの、家のポストに「同窓会のお知らせ」と書いた葉書を見つけ、参加と欠席のいずれかに丸印をつけてから、宛先である自分の名前の「様」のところにぴっぴと横線を引いて送り返す、ドラマチックな一連の作業を経験することがないのかもしれない…と。

「葉書っていつの時代の話よ…!私の時もメールだったわよ…!」と思われる、私より年が上の方々がおられるのかもしれない。けれど私にとってその憧れが手に入らないということは、とても残念な気がするのだ。

世界はいつからこんなに便利になってしまったのだろう?ついこの前noteで書いた、音楽プレイヤーではなく、iPhoneで音楽を聴く人という話も然り、どうも最近、この発達した便利な社会についてあれこれ思ってしまう機会が増えた気がする。

当然のように、同窓会のお知らせも、葉書もしくは手紙のような形で受け取り、出欠を取ることになると思っていたのに。同窓会という響きがとても魅力的な反面、その期待を裏切られた気分だ。

それに、LINEの投票機能なんて使ってしまったら、誰が同窓会に行くのか、みんな見ることができてしまう。投票済みの参加者の名前を見て、「あの子が行くから行こうかな」となるのはまだいい。逆に、「この人いるなら行くのやめよっ」とかなってしまう人がいたとしたら(個人の自由ではあるけれど)なんかちょっと嫌だなあ、と思う。それは、誰が来て誰が来ないのかを風の便りで耳にするのとはわけが違う。そういうの、仕方ないかもしれないけど、私はなんとなく少しいやだ。

葉書がメールになり、私たちは本当に自分の手では何も書かなくなっていくなあと思う。携帯端末での言葉のやりとりはあくまで電子上のやりとりであって、私が手や鉛筆を使って文字を書いたわけではない。そういう「実際に触ることができる物」でのやりとりが減っていく、過渡期の時代にあるのだろう。

電子化がとっても便利なのも知っているし、実際たくさんお世話になっているから、そのことを完全に否定するつもりもない。けれど私もいつか、わざわざ便箋や封筒を買ってまで手紙を書くことなんてなくなってしまうのだろうか。未来の子どもたちは、年賀状もメールで済ませるようになったり、学校では紙のノートにメモをとらなくなったりするのだろうか。それを思うと少し切ない気持ちになる。

指先だけであらゆることが可能になるのと同時に、私たちは自分の手や足を動かさずとも、実に多くのことをできるようになっていく。

でも私は自分の手で文字を書くことはとても大事なことだと信じている。自分の生まれ持った身体を動かして何かをするということに価値があると信じている。これは古い価値観だろうか。私は時代から遅れているのだろうか。

そんなことも考えながら、同窓会に行こうと思う。



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