マッシュボブの彼
梅雨、マッシュボブの男の子と話す機会が巡ってきている。
彼は茶髪のマッシュボブに細い丸縁の眼鏡がトレードマークのおしゃれな男の子だ。服装もパーカーとか、少し大きめのTシャツとか、だぼっとした洋服をよく着ている。夏には七分丈の裾が広がったパンツや、素足にサンダルなどを履いたりしていて、それは彼の雰囲気にぴったり合っている。
私の所属している学部学科は文学や言語を学ぶひとびとの集まりなので、男の子も女の子も落ち着いていてやさしい性格の人が多い印象なのだけど、彼はなんとなく周囲にはっちゃけた印象を与える。明るくてユーモアがあり、誰が相手でも気兼ねなく喋る男の子。
そのせいでなかなか声をかけることができなかったのかもしれない。私は去年カッターシャツの彼に興味があったし、マッシュボブの彼はどことなく掴みどころのない感じがして、仲良くなるのをためらっていたのだった。だから挨拶程度ならしたことがあったけれど、ちゃんと言葉を交わしたことはまだなかった。
先週の月曜日、研究室に行ったときのこと。部屋に入るとマッシュボブの彼が座って読書をしていた。私が彼の斜め向かいの席に腰掛けると、彼は私をちらっと見て瞬きをし、再び視線をそっとページに落とした。私はそれを確認し、鞄からノートパソコンを取り出して自分の作業に入った。
私は翌日に永井荷風の『濹東綺譚』という小説での発表を控えていて、その日は研究室でレジュメの最終調整をしていた。
彼が読んでいる小説はその授業で扱っているものだったので、私はマッシュボブの彼が気になり、ときどき目を休めるついでに彼の読書の進み具合を確認した。
彼も小説を読みながら私の作業を気にかけているようだった。おそらく彼も私より2週間ほど後でその授業の発表が回ってくるからだろう(ただし彼の担当は谷崎潤一郎)。
だから手元の小説からふっと目をあげた彼と、パソコンの画面から顔を上げた私の視線がぴたりと合うのは当然だったかもしれない。
ただどちらも全く目を逸らそうとしなかったのは、互いのしていることに興味があるという意思表示だったように思う。2秒、3秒と時間が経ったけれど、私たちは何を言う訳でもなく互いの瞳を見つめ続けた。
彼はそのあと小説を手に持ったまま席を立ち、私の横にそっとやってきた。そしてぐいっと身を乗り出して私のパソコンの画面を覗きこんだのだった。
「明日の発表のやつ?」
わずかな沈黙ののち、彼がそう尋ねた。研究室には他にも人がいたので、その人たちの邪魔にならないよう配慮した彼の声はとてもひそやかだった。
急にやってきた彼に私は少し驚きつつ、「そう。明日のやつよ」と返事をした。彼はパソコンをじっと覗きこんだまま、再び口を開いた。
「ほええ、あっ、もうできてるん?」
「あとちょっと!もう明日だからね…」
「そうやんな!できてないとまずいか…」
ひそひそ小さな声で話しながら彼は私の瞳を覗きこみ、細いアーモンド形の目をきゅっと細めてふふふ…と静かに笑った。それがとても人懐こくてかわいらしい笑顔だったので、私もつられて一緒にくすくす笑ってしまった。
そして分かった。彼は人との距離を詰めるのがとてもうまい。
心の距離を詰めるには、まず物理的な距離を詰めるのがいちばんだと思う。彼はその物理的な距離を一瞬で詰めてきた。目がぴたりと合ったその後すぐ、何も躊躇せず私の領域内に入り込んできたからだ。けれどそれは全く不快な距離の詰め方ではなかった。それにとても驚いた。
でも何より私が1番驚いたのは、彼が私の目をためらいなくまっすぐに見つめてきたことだった。
私は誰かとまなざしが交錯する瞬間がとても好きだ。目をまっすぐに見つめることは苦手ではないから、話をきく時はもちろん相手を見つめるし、逆にじっと見つめ返されると、ああ、この人も他者と目を合わせることがこわくない人なのだな、と思う。
私の親友は、小学校高学年から高校にかけて私の好きな人をほとんど見抜いていたけど、それは私の好意が第一に目に表れるからだった。
「相手のことめっちゃ見てるからばればれだよ」
彼女が笑いながら私にそう言ったことは何度もある。私はそれくらい分かりやすい素直な女の子だったし、裏を返せば目にはそれほど気持ちが表れるのだ。それに大抵の場合、視線というのは一瞬交わっただけでも何らかの意味を持つ。
片思い中の好きなひとの方をちらちら見ていたら、相手もたまたま自分を見てぴったり目が合い、その瞬間ぱっと視線を逸らす。その視線のやりとりは、ほんのわずかな時間だったとしてもやっぱり特別な価値があるのじゃないかと思う。
けれどそこまで親しくなっていない相手と数秒も目を合わせるなんていうのはなかなかできっこない。だからそんなに長い間目が合ってしまうというのは、それは私だけではなく相手にもこちらを見つめる意思があるということだと私は思う。
そんなわけで彼は私の方をまっすぐに見つめてきた。相手が男の子でも、女の子でも、他者の目をまっすぐに見つめることができる男の子なのだ。
私はマッシュボブの彼と話しながら、彼のきれいな水晶体に映っている自分の姿を見た。おそらく彼も、私の目に映っている自分自身を見ただろう。まるで瞳を鏡に見立てているかのように、私たちは目と目でコミュニケーションを取っていた。あまり話したことがないのにたやすくそれができる相手と、私は今までほとんど出会ったことがなかった。
それがおよそ1週間前の出来事だ。
そしてまた今日も私は研究室を訪れた。マッシュボブの彼はまたもや読書しており(今回は村上春樹の『羊をめぐる冒険』だった)、眼鏡の彼もふらりとやって来たので、同期3人で次の授業までしばらくおしゃべりをした。
週末に海に入ったので髪の色が落ちてしまったこと(マッシュボブの彼)、授業の発表が憂鬱で仕方ないということ(私以外の2人)、今日22時提出締め切りの小テストがまだ終わっていないこと(眼鏡の彼以外の2人)、村上春樹の小説をまだ読み切れていないこと(私以外の2人)、家で1人でもお酒を飲むということや(マッシュボブの彼)、カッターシャツの彼のエピソードなどを話した。おしゃべりに夢中で時計を見ていなかったけど、かれこれ1時間くらいは話していたように思う。
マッシュボブの彼は話している最中、どんな話題になっても屈託なく笑ってはしょちゅう冗談を言った。私が村上春樹の『羊をめぐる冒険』はもう読んだと言うと「敵だ」と言い、奨学金をもらっている話をしたときにも「敵だ」と言った。大学生ではなくて高校生みたいだと思った。
そして私と彼は先週ようやく会話らしい会話をしたばかりなのに、もうそう思わせないほどには軽口をたたき合える、楽で気兼ねない関係性を手にしていた。
しまいには私のことを「初対面のときからなんとなく変な人だと思ってた」などと言い始めるので、「初対面っていつ?」と尋ねると、「分からない」と言って笑っていた。その適当さ、正直さも彼の魅力なのかもしれない。
でもそれは彼がどんな相手であってもまっすぐその水晶体を捉えてしまうような、そんな男の子だからだと思う。
彼はきっと目で相手に魔法をかけるのだ。彼の瞳に見つめられるとその魔法にかかってしまう。それは恋とか大それたものではなくて、まだ話したことのない相手と仲良くなるため、もっと気軽におしゃべりをするための魔法だ。私もその魔法を彼のようにうまく使えるようになりたい。
そしてマッシュボブの彼みたいに、もっといろんなひとにその魔法をかけてみたいと思う。
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