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〈正解のない問い・6〉 「外国籍にルーツを持つ人々と日本語しか話せない日本人が、社会教育(学校教育以外ぐらいのザックリ感)の場でともに学ぶプログラムのネタを教えてください」


『正解のない問い』

ワタクシ 米山哲司のfacebookで、「正解のない問いをください」、「問いはご自身が気になっている問いでも、どうでもいいようなお気軽な問いでも結構です」と呼びかけたところ、数日間で個性あふれる問いを50以上もいただきました。嬉しい限りです!(いただいた問いは こちらの投稿のコメント欄をご覧ください) いただいた順に私がぼんやりと思ったことを返信として投稿しますね。着飾らずに書きますので、ゆるやかな気持ちでお読みいただければ、と。 では早速…

〈問〉
「外国籍にルーツを持つ人々と日本語しか話せない日本人が、社会教育(学校教育以外ぐらいのザックリ感)の場でともに学ぶプログラムのネタを教えてください。」

〈返信〉
実はいただいた問いが長文で、
上段と下段に分かれていました。
文面の上段には、
 =====
外国籍にルーツを持つ人々と日本語しか話せない日本人が、社会教育(学 校教育以外ぐらいのザックリ感)の場でともに学ぶプログラムのネタを教えてください。
 =====
とありました。

それに続いて下段には、
 =====
例:大学生(留学生を含む)が、外国籍にルーツを持つ小中学生と共に、地域における多文化共生を一緒に考えるイベント。特定の中学校単位を舞台にイベントの企画段階から子どもたちが主体的にさんかする。(日本語が堪能な日本人小通学生の参加は別のプログラムで行い今回はなし。・・・)
※ あくまでも例ですが・・・現役大学生と特定の学区の小中学生が協働するプログラム。◆◆なら介護福祉と絡めます。
このように、次第や背景は問いませんが、外国籍にルーツを持つ人々と日本語しか話せない日本の組み合わせで社会教育プログラムを考えてみてください。
 =====
と「例」が書かれていました。「正解のない問い」なのに。

ちなみに◆◆の部分はご本人の名前が書かれていましたが、了解を得ていないので伏せることにしました。上記は原文のままの転記です。「さんかする」は「参加する」、「小通学生」は「小中学生」で読み進めることにしました。

私が皆さんに求めた〝正解のない問い〟とは「生きるって何なのでしょう」のような〝正解のなさ〟をイメージしていたのですが、今回のような「アイデア出しに付き合って」という内容も面白いなぁと思っているところです。これ実際に計画なさっている内容なのかもしれませんね。

とはいえ、文末にある「ネタを教えてください」、「考えてみてください」に、そのまま対応しようとすると、学校の先生から課題が出たって感じがして私が窮屈なので、あえて真正面から取り組むのではなく、ムニャムニャと考えを巡らす時間にしようかと。悪しからず(笑) 
まぁ下段を読ませてもらいますと、ほぼご自身の中で答えが出ていらっしゃるご様子ですし。この問いがキャリアコンサルタントの立場で受けた相談ならば、求められるままに米山の考えを伝えるのではなく、「それ、やってみるといいかもしれませんね」という返信のほうに、未来があるような気がしますし。

という、言い訳めいた物言いはこれくらいにして(笑)、まずは文章をほどいていきましょうか。
登場人物は「外国籍にルーツを持つ人々」と「日本人(使える言語は日本語のみ)」ですね。目指すことは「共に学ぶプログラムづくり(学校以外)」です。ここでの〝学校以外〟とは「自分の意志で学ぶ場」を指しているように感じました。学校の授業は義務教育ならば「行くこと」になっており、それ以外の場である高校・大学・カルチャースクールなどでは、わがままを言ったり、すねたり、グレたりしようものなら「そんなんだったら、辞めりゃあ いいじゃない」と一蹴されてジエンド。つまり、この〝共に学ぶプログラム〟に意思を持って来ている(来てほしい)という設定なのでしょう。

これ手ごわいですよ。

文面を読むと若者を想定されていますよね。偏見まみれですが、自分の意志で集まるところなんて「楽しいこと」「好きなこと」「快楽」「面白いこと」「得のあること」「流行っていること」くらいでは? 皆さんが若い頃はどうでしたか? 

残念に感じていることがあります。まちづくりやボランティアに熱心な方々のことを「意識高い系」と言う人がいます。それを言うのは〝意識低い系〟(笑)
さらには、まちづくりやボランティアの機会をつくってくれる人のことを「やりがい搾取」とひどい言い方をする人もいます。これ大変 悲しむべきことです。公益的な人が増えないのは 本人の問題ではなく 風土や環境の問題なのでしょう。大変 残念…

私の志である『善いことが評価されるお手伝いをしたい』は そういう世の中だから生まれた想いでもありました。まちづくり、ボランティア、SDGsCSRなどの公益的な活動や組織・人物のことが、正しく承認される社会であってほしい。そうでなければ 美しい明日なんてやってこないと思ったからです。

公益的な立場のお方は、おおむね公益的です。
〝公益的な立場〟とは、行政、社会福祉協議会、非営利組織などのことです。〝おおむね〟と書いたのは、公益的な立場にも関わらず、そうでもない人もいますからね。この感じ 人口減少社会でさらに加速しそうです。公益的ではない公益的な立場の人が増えるのですよ、ゾッとしませんか? 公務員らしくない公務員が増えるのです。警察官らしくない警察官とか、教師らしくない教師とか。これは公益的な方々だけに限らず、どのセクターでも同じでしょうから、NPOらしくないNPOも増えるのでしょう。
2:6:2の法則で考えるなら、人口が満たされていてこそ、資質が保たれるからです。
そこで、公益的な立場ではないお方の 公益的な意識や行動が増えないだろうか、となるわけです。営利セクターの方々が社会のことを考えるように、ということです。

これまた手ごわい。

CSR、SDGs、ボランティア活動を揶揄する人はこう言います。「それをやって何の得があるのだ?」と… 大人たちがそんなことを言っているうちは、子どもたちも「意識高い系かよ」と言うはず。そんなふうに育てちゃったのですよ、風土や環境を…

私は「それをやって何の得があるのだ?」を何百回と聞いてきました。聞いた回数はNPOの勲章だと思っています。そのように言われる場面が訪れるようなアクションを起こしてきた回数でもあるからです。
こんなセリフを聞かされ続けると、ガッカリするというより面白くなってきましてね。「おぉ~ また出たか」とか、「あなたには助言できる先輩や側近がいなかったのですね」とか。そこの社風を感じるのが面白くなってくるのです。でもそんな相手を悪者と思っているわけではないのですよ。単なる違いです。「私益 民族」と「公益 民族」。そう、単なる〝人種の違い〟。
(おっと、今回の問いに 近づいてきたじゃ ございませんか!)

人種が違うのです。「外国人に対し、日本人になれ」とは言えません。「日本人が外国人のようになれ」と言われたくもありません。それぞれに良さがあるからです。こちら側に引きずり込もうとすると相手が大切にしているものを手放すことを強要させかねません。
「そんな銭にもならないことをやっていないで、もっと〝費用対効果〟で考えたらどうだ?」と言われても、「なるほど~、ではそっちに行きますわ」とはならないのですよ。
そもそも〝費用対効果〟を持ち出した瞬間に心が離れていきがちです。なぜだか解りますか? 相手の考えている〝効果〟が「私益」だからです。儲かるとか、名誉が得られるとか、出世とか、地位とか。

あっ、
それ 私も欲しいですよ。
でもね、
あなたが欲しいと思っているほど
私は欲しいと思っていませんが。
(はい、憶測です・笑) 

その〝効果〟というものへの視野が狭いうちは、営利組織と非営利組織は仲良くなれるはずがありません。私は異なるセクター同士のパートナーシップは〝地域力のバロメーター〟だと思っています。それの測り方のひとつに「商工会議所や商工会」と「社会福祉協議会や市民活動センター」がつながっているかどうかは参考になりますね。営利を目指す中間支援者と、非営利を目指す中間支援者がつながっているのは大変重要なこと。
では 何でつながるのでしょう? そのつなぐもの探しが大事。シンプルに「同じまちに住む者同士」のテーマはつながりやすいですね。営利と非営利を「郷土愛」の共通項でつなぐということです。

ちなみに郷土愛とシビックプライドは同じようなものと感じるでしょうが ちょっと違いますのでお気を付けくださいね。ザックリ伝えますと「このまちが好き」が郷土愛です。「このまちが好きだから、役に立ちたい」がシビックプライドです。
いませんかね? 「このまちは好きだが、役に立つまでは私にはちょっと…」という人。その方々が〝2:6:2〟の6のように感じます。

話を戻します。
営利と非営利、それぞれの立場や役割を棚上げせず、高次のテーマを用いる、これが〝視野の広さ〟になるのでしょう。「新しい価値の創造」とも言います。弁証法の〝正・反・合〟の〝合〟とも言えるでしょう。
ただ〝郷土愛〟だけでは抽象度が高く、自分事になりにくいものです。それが身近に感じられるために「偉人・地元スポーツチーム・B級グルメ・ゆるキャラ・祭り・歴史的施設(寺、城)」から接すると自分事になりやすいですね。それらに向かわせるモチベーションの源泉が冒頭に書いた「楽しいこと・好きなこと・快楽・面白いこと・得のあること・流行っていること」ということです。
難しそうなこと、意識高そうなをことを、面白がらせたり、流行らせたりすることも有効ですね。それをストーリーと言います。
また「言葉や文化の壁を越える」というフレーズを聞いたことがありますよね。何を思い出しますか? スポーツ、音楽、アートなどがそうなのでしょう。体感できるもの、感覚的なものは万国共通。その場面では目の色や肌の色は関係なくなるのでしょう。

「人は弱い。そして強い」
ゆえに
「入口は私益。いずれ公益へ」
くらいが
ちょうどいいのかと。
「感覚が先。理屈はあと」
ということです。

整えます。
問いは、
=====
外国籍にルーツを持つ人々と日本語しか話せない日本人が、社会教育(学校教育以外ぐらいのザックリ感)の場でともに学ぶプログラムのネタを教えてください。
=====
でした。
〝ともに学ぶプログラム〟の内容は、難しいことを入口にするのではなく、私益に近いジャンルを設定してはどうでしょう? 例として記載のあった「地域における多文化共生を一緒に考えるイベント」や「介護福祉」で当事者は集うかどうかから考えてもいいのかもしれません。また〝ともに学ぶ〟の「〝学び〟をどう設定するか」は、〝費用対効果〟の「〝効果〟をどう設定するか」に似ているようにも感じました。「学びたいもの」と「学ばせたいもの」の違い、という壁もあるのかもしれません。

「外国籍にルーツを持つ人々」と「日本人(使える言語は日本語のみ)」を、弁証法の「正」と「反」に位置付けられているならば、「合」という事業を探すこともよさそうです。その「合」の内容に〝最終地点〟を示してしまっては集いにくいように感じます。意識高い系と言われそうだからです。そこにスモールステップ、スモールサクセスがあるといいですね。
言葉遊びになりますが「合」を切り分け、登山の1合目、2合目のように捉え、10種の合でステップアップさせていってはどうでしょう。「とりあえず気軽に集まれる内容」が1合目です。たとえばスポーツ、音楽、アート。それがステップアップしていけば、10合目にたどり着く。みんながたどりついた頃には世界中から分断がなくなっていることでしょう。
「戦争? 昔はあったらしいね」なんてセリフが出たり。

改めて考えると「外国籍のルーツ」と「日本人」の間に壁ってあるのだろうか、とさえ思います。実際あるのでしょうが。その壁は〝壁がある〟思った人の前にだけ現れるものかもしれません。もしくは大人や風土がつくったものかもしれません。
そもそも同じ人種であっても心が離れていることはあり、小さい分断は数限りなくあります。主張を相手に押し付けるわけでなく、説得するわけでもなく、従うわけでもなく、「ゆるやかに解り合っていく」という成長。その成長を費用対効果(コスパ)だとか、時間帯効果(タイパ)だとか言わないでほしいのです。
なぜならば我々は人間だからです。

まず〝集う〟こと。
集うのは〝身体〟ではなく〝心〟。
心を揃える。
SDGsISO
〝心揃え〟と捉えると
また違った印象と納得感があって
私は好きなんですけどね。

ん~ 言ってみたいですね。
「戦争? 昔はあったらしいね」って。
ゆえに
私の志は
『善いことが評価されるお手伝いをしたい』なのです。
~以上~

・・・
〝正解のない問い〟ですので、残念ながらどこにもたどり着きません。思いを巡らす中に、「ひらめく予感」や、「モノを言いたくなる自分」にたどり着ければ、それを〝変化〟と捉えたいなぁ、と。結局、モヤモヤ製造所みたいになっているかもしれませんが(笑)

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このような問いがまだまだ続きます。大丈夫なのだろうか?(笑) 
第7問目は『人生って、なんだと思いますか?』です。
迷走する予感がバリバリです。伝説かっ、ていうくらいバリバリです

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