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アンラーニングやリスキリングよりもセカンドバース
39度の熱が出ました。先日の話です。なので、もう今は大丈夫です(GWもあって今月はおサボり月間となり、仕事の稼働日はたった15日でした)。
もろもろ陰性でしたが、数日間ほぼ寝たきり。もはや夜も深眠はできず1時間ごとに目を覚ます。解熱後は、右後頭部のズキズキ偏頭痛が抜けずに困りました。
何が起きていたんでしょうか。医師からは「なんらかのウイルスかもしれませんね」という見立てでしたが、それだけではどうもしっくりこない。
で、よくよく振り返ると、感覚的には全身のデトックスが一気に起きたのではないかなと。ナイアガラ花火が続々と着火していくように、リンパの流れに乗って、毒素が体中を臨界的にかけめぐり、やがて放出された。そんな感触なのです。
発熱中は一応コロナのときにもらった「●●ナール」なる解熱剤を飲んだけれど、ちっとも効かなかった。そういうときは、無駄な抵抗はやめて、排出を待つしかないんですね。
厄年というのは、ある意味では体質が変化する時期だとも考えられています。この全身のグレートリセットは、ちょうど私にとって後厄の終わりに起きたわけですが、この出来事を境に身体が次の周期に入ったのかもしれません。そしてそれは、2つ目の人生の始まりを象徴しているようにも感じます。
福沢諭吉は、自身の人生を省みて、「一身にして二生を経る」ようなものだったと言っています。福沢は1835年に生まれ、1901年に66歳で亡くなっていますが、そのちょうど半分の1868年、33歳の頃に明治維新を迎えました。それまでの江戸封建社会は、一夜にして開国明治の世になった。このグレートリセットをもって、まるで2つの人生を生きたようなものだったと回顧しているのです。
この話は、ミドルエイジクライシス世代のサラリーマンにとっても、重要な示唆を与えてくれます。10数年仕事に奔走してくると、「はて、自分は一体何がしたかったんだっけ?」「この仕事をしていていいんだっけ?」と自身のアイデンティティが「?」だらけになる時期が来る。多かれ少なかれ、誰もがこの種のモヤモヤを経験したことがあるでしょう。キャリア理論ではそれを中年期の危機、ミドルエイジクライシスとして人生の転換期に位置づけています(日本語の中年と英語のミドルエイジの語感は随分違う。中年って、なんだか脂っこい響きですよね…)。
そういう人たちを対象に現代では、「リスキリングを!」「アンラーニングを!」という官民協働の「人生100年時代応援キャンペーン」が絶賛開催中で、迷える大人たちは後半の人生への不安をどんどん募らせていきます。
リスキリングもアンラーニングも、古きを脱して新しいことを始めよう、という発想ですが、それ自体に共感できないわけではありません。ところが、一つ課題があるとすれば、それは「従来の人生」という前提から出発している点です。
同じ人生の延長と考えるから連続性がある。それはそれで、「首尾一貫した自己」という物語のためには素晴らしいのですが、未知の可能性を受け入れる柔軟性がどうしても減ってしまう。
だったらいっそのこと、私たちは「新しく生まれた」、「まったく違う2つ目の人生が始まった」と考えてはどうか。それが今日の「セカンドバース」という提案です。
40歳なのだけど、もう一度0歳から始める。なんと言葉も操れるし、自分で食事もできて、1人でどこへでも行けてしまう。あなたはそんなスーパー0歳児です。
でも、見るもの聞くものはすべて初めてで、驚きと感動に満ちている。無理してスキルを磨き直さなくても、学び直しに勤しまなくても、世界のほうから勝手にあなたに刺激を運び続けてきてくれるのです。
小さな子どもに「おじさん何歳?」と訊かれたら、「1歳だよ」と答えることにしています。「おねえちゃんはもう5歳でしょ。ずいぶん大きいんだね」。そう言うと、子どもも嬉しそうにしてくれるので、一石二鳥です。
あなたは今日からどんなセカンドバースを始めますか?