東大までの人という概念の曖昧さの指摘とそれになり易いとされる傾向に関する議論に対する批判

東大までの人という語の定義の曖昧さと流動性

東大までの人/東大からの人という概念が存在する。前者は東大の学生時代、或いは合格発表時が人生のピークであったもののことを指し、後者は卒業後に成果を出す者のことを指すとされている。俗語であり明確な定義は無いものの、学歴社会の頂点と扱われている東大生の凋落例は娯楽性があるのか、池田渓『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』飛鳥新社や船津紳平『東大リベンジャーズ』講談社等、インタビュー集からフィクションまで刊行されている。

これはブログにおいても同様で、東大卒の人生を考える会やイブリース等、東大までの人を自称する者が自分の有様を書いたものが人気を博している。

しかしながら、世間からの注目に反し、東大まで/からの人という概念は定義が曖昧であり、現状ではしっかりとした議論に使える代物ではない。これの定義を試みたものの一つとして東大卒の人生を考える会が作ったものがある(下の引用)が、幾つかの具体的事例で東大から/までの人の判定に失敗する。というのも、東大から/までの人という区別は本質的には本人の心の持ちようでしかなく、客観、外形的な基準のみで判定しようとすると、流動的に遷移するからである。

いきなりではあるが、筆者は「東大までの人」である。
東大を卒業しているが、以下のどの条件も満たす人生を歩むことが出来ていない。
・尊敬される職業に就いている(医者、官僚、弁護士、大学教授等)
・圧倒的に稼げる(総合商社、医者、起業家等)
・職業の専門性が高いだけでなく、職業選択の選択肢が広い(会計士、医者、エンジニア等)
・単純に仕事が面白い、やりがいを感じている

https://note.com/jreit_tokyo/n/n0ecab4db8867

この定義から内心の事情(単純に仕事が面白い、やりがいを感じている)を除いたものを採用した場合に、東大からの人→東大までの人、東大までの人→東大からの人の遷移がどちらも起き得ることを示そう。

前者の遷移として、例えば大学教授を目指していたものの、大学院の博士課程の途中、或いはポスドクの途中で挫折した場合はどうか。東大まで/からの間に遷移が存在しないと仮定すると、東大からの人である大学教授を目指している段階は、東大からの人と定義される筈である。しかしながら、挫折した後はどうか。東大からの人の条件を何れも満たしていないので、東大までの人だろう。或いは、官僚や総合商社社員になったが激務や人間関係で心身を悪くしたというのも、東大までの人への変化と見做すことが出来る。

但し、これだけだと「当初は全員東大からの人だが、様々なアクシデントにより脱落する」だけの単純なプロセスに思えるかもしれない。しかし実際には、東大までの人→東大からの人の遷移も存在している為、そうではないのである。分かり易いのが起業家だろう。上の定義では圧倒的に稼げるという理由で東大からの人とされているが、圧倒的に稼げる状態に至るまでは何年も掛かり、その間は成功の保証は無くフリーター以下の生活をしている。少なくとも、東大まで/からだとか、そういう社会的対面に拘る人には取れない進路であることは間違いない。例えばゲームフリーク創業者、即ちポケモン創造者という日本どころか世界を代表とする成功者である田尻智は、東大に編入することが出来るからこそ東京高専に進学したのに東大には進学せず、何年も定職に就かずに「モラトリアム田尻」と呼ばれていた。その時だけを見れば東大までの人どころか東大ですらの人であり、人生失敗としか言いようがないのであるが、最終的には殆どの東大卒を超える結果を収めている。

東京高専は授業内容のレベルが高く、成績次第では東京大学への編入が可能でした。田尻が東京高専を志望校にしたのも、この東大への編入システムがあったからでした。

畠山けんじ、久保雅一、『ポケモンストーリー』、日経BP社、2000、p27

――そういえば「ログイン」の記事にも”モラトリアム田尻”って書かれてましたね(笑)。

宮昌太朗、田尻智、『田尻智 ポケモンを創った男』、メディアファクトリー、2009、p73

起業の世界が如何に「東大からの人」という、常にキラキラするというような発想とかけ離れた世界なのかは、以下の記事を参照して欲しい。

東大までの人になり易い傾向に関する議論への批判

東大卒の人生を考える会は東大までの人の定義を行ったのと同じ記事において、東大までの人になり易い傾向のリストアップも行っている。

1.東大合格が人生の至上命題になってしまっている(いた)
2.発達障害傾向がある(特にASD)
3.公立中学で内申点が芳しくなかった
4.高校まで受験勉強以外の勉強をしていない
5.60点至上主義者
6.体力がない
7.王道系のサークル・ゼミ・学部出身ではない
8.学者タイプ
9.就職活動を頑張らない
10.コミュニケーション能力が低い

https://note.com/jreit_tokyo/n/n0ecab4db8867

このリストにはある程度の妥当性はあるように思われるが、東大までの人という概念の曖昧さに加え、リスト内の一部の項目間に反相関性がありこれを網羅するのは(東大卒の人生を考える会は例外として)稀だと思われること、また一部の項目は逆に東大からの人になるのにも貢献し得る等の不完全な点を持っている。

項目間の反相関性と言えば、4と8は同時には持ち辛い性質だろう。自分の興味関心を追求しがちな学者タイプなら頭を使う対象が学校の勉強と一致することは少ないと想定するのが自然だ。学校の勉強をせず様々なジャンルの本を読み、特に専門なり特技なりを持たない学者タイプは、学校の勉強しかやらないということにはなり難い。学校の勉強に力を入れないから高校では普通の優等生から軽く見られたり、そもそも東大進学すら怪しかったりする。1の性質故に東大合格が至上目的で、学校の勉強が興味関心の対象となったとか、そういう限られた状況でのみ両立するだろう。

マイナスではなくプラスとしても働き得る性質としては、学生時代においては3と8が該当するであろう。内申点が芳しくない、或いは科目の得意不得意がはっきりしている人は、当然ながら進振り先を真剣に考える。例えば数学は好きだが物理も化学も生物も嫌いな数学特化型の理系学生なら、理学部数学科か経済学部か、或いは工学部計数工学科あたりを選ぶであろう。東大に入った後にやりたいことが薄かったとしても、やりたくないことがはっきりしているなら、それでも何とかはなるのだ。そういうタイプなら後期課程進学後は問題無いし、1のような東大に入りさえすれば良いという風にもならない。或いは前期教養の間に特定の学科の教員が担当するオムニバス講義を受講したり、偶然書籍部で見つけた本から新しい興味を開くかもしれない、これは特に8の学者タイプならそうであろう。そして自分に本当に適した学部を選択するという意味では、7の王道学部に拘らない姿勢も重要だろう。そして学部選択如何では、サークルも運動会のような王道系が最適とは限らなくなる(パソコン系とかでプログラミングスキルを上げたりしても良い)。

卒業後にプラスにもなり得る性質としては9と10を挙げたい。実はこれは起業には向いていることがあるのだ。起業は激しい困難の連続なので1人では耐えられないので、2~3人の共同創業者で行うのが、特にスタートアップにおいては普通である。知らない人、社外の人とのコミュニケーションが苦手であれば別のメンバーに任せてしまい、自分は理論の研究や技術開発のみに集中してしまえば良い。就職活動にやる気を出さなかったということは、面倒なので転職活動もやらないということを意味する。起業は成功までに10年近く掛かったり、或いは失敗だと確かめるだけのことに5年とか掛かったりするのが当然の世界である。給料が減ったり止まったりしたからと言って転職するような人では成功する時まで忍耐出来ない。コミュニケーション能力が低く転職活動もしないというのは、対外的に発表出来る成果が少しも無い状況が長く続くことに対する高い耐久性でもあり、主役の創業者をただ支え続けるという文脈における美徳である。ゲームフリークの例で言えば、杉森や増田のように最後まで信じていくメンバーである。加えて、起業においては市場に求められていないものを開発しても意味が無いのでユーザー調査が重要なのであるが、これは自分自身がユーザー本人であるのが一番良いとされている。確かに必要とされている製品を開発する上で、8の学者タイプというのも当然プラスだ。

このように、既存の議論では東大までの人になり易いとされている性質でさえ、少し視野を広げれば評価は反転する。

まとめ

東大までの人と東大からの人の区別ははっきりとしていないし、ある種の東大からの人になる為には、意図的に一時的に東大までの人になる必要さえある。それ故か、東大までの人になり易いとされる性質すら、上手く使えば東大からの人となるのに役立ち得る。


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