第52回 【筋トレ日誌 その他日々是】43(2021/4/3)▲▲花の下にて春死なむ 死生観を考えて▲▲
今年は例年にない桜の早咲きで、
入学式は葉桜とともに、というエリアも多そうですね。
昨日も地元の桜+チューリップ+菜の花+残雪の北アルプス
(合わせて『春の四重奏』と呼ばれている)
を見にいきましたが、桜が少々早かったようです。
二重奏、といったところでしょうか。
桜を熱愛した西行法師は
『願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃』
と詠んでいますが、西行の感性に日本人は
通ずるものを感じるのではないでしょうか。
ちなみに西行が死んだのは、旧暦の2月16日、
今の3月の末頃だったと言いますから
西行の桜を愛でる執着心、美への心すら感じます。
そんな西行の生き方を考えた時に
日本人、そして自身の『死生観』みたいたものを
最近強く感じるのです。
(死に対する暗くて穢れのイメージではなく、
生きとし生けるもの、いつかは死ぬものであるという思い)
きっかけはいくつかあります。
まず一つ目、
ここ半年で親類・友人が相次いで亡くなったことがある。
親戚筋が立て続けに亡くなり、
こういうご時世ゆえお葬式になかなか立ち会うこともできずにいたこと。
そして先週、
小学時の同級生が亡くなった。
親戚筋は年齢も考えれば致し方のない点もありますが、
同じ歳の同級生が亡くなるのはなかなか辛いもの。
早過ぎはしないか、と思うし、
自分もそういうことが起きたとしても不思議ではない。
身の回りの方の訃報に接するたびに思うのは、
どうしてかくも人は死んでしまうと
慌ただしく別れの時間を過ごさなくてはいけないのか。
結婚や出産はある程度の時間の余裕の中で
その過程すらを共感することすら出来るのに対し、
死は通夜〜お葬式〜火葬〜骨あげまでがあっという間。
感傷に浸る暇もない。
死は穢れの対象だから、
早くことを進めてしまうのが妥当だと先人が考えたのかもしれない。
とはいえ、
人は死んでしまったら家族ではない限り
数週間もすると記憶が薄れるし、
著名な芸能人ですら死んでしまった時はマスコミが取り上げるも
しばらく時間が経てば他の記事に埋もれていく。
(その点、この1年間志村けんさんの話が尽きなかったのは
彼の人柄によるところも多いだろう)
なるべく記憶から薄れるようにして、
悲しみと区切りをつけられるように神様がそうしているのだろうか。
人が死ぬと、忘れ去られるのも早い無情感。
でも今は、
エンバーミング技術も発達したから
死者と寄り添いながら別れの時間を過ごすこともできるのかな。
そんな別れの姿もあっていいような気が最近している。
2つ目は、
以下の新書を読んだこと。
日本では現在火葬率99.9%、
ほとんど土葬は行われていないと言って等しい状況ですが
ごくごく極地的に土葬文化も残っているらしい。
(私はてっきり、
現在の日本では土葬はご法度なのだと勘違いしていました)
一般的な火葬というエンディングの他に、
土葬という選択肢もあるらしい。
自分は死を迎えた時に、
火葬がいいのか、土葬がいいのか、を
考えるに至るきっかけにもなりました。
(鳥葬とかは、痛々しいので遠慮したいが)
人が死んでから、死への理想を語る事はできないから
普段から『いかに死を迎えるか』は考えておく必要がありそうだ。
しかし、
哲学的な話にもなってしまうが
人が死んだらその魂・自分で自分を見る内観的な感覚は
どこにいってしまうのだろうか。
目を瞑り息が止まれば、魂も亡きものになるのだろうか。
それとも、よく漫画にありがちな、
天の高いところから白装束を着た自分が
下界を見下ろしているのだろうか。
人は死んだらどこにいってしまうのか。
これは答えの無いことばかりなので
考えても結論の出ないことかもしれないが、
桜〜西行法師〜死生観、
死についてぼんやりと考えた次第である。
追伸)
桜といえば、
私が好きな半崎美子さんの
『サクラ~卒業できなかった君へ~』もおすすめしたい曲です。
人との別れ、桜。
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