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日本最低気温の日

 1月25日は「日本最低気温を記録」した日です。明治35年(1902年)1月25日、北海道の上川測候所(現在の旭川地方気象台)で氷点下41.0度の日本最低気温が記録されました。これは富士山頂の記録(氷点下38.0度、昭和56年2月27日)よりも低い温度です。日本の山岳史上最悪の遭難事件が起こったのも、明治35年のこの日のことです。青森県の八甲田山で冬期行軍訓練を行っていた210名の青森歩兵第5連隊が猛吹雪と厳しい寒さの中で次々と凍死し、生き残ったのはわずか11名でした。この悲劇は後に新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」で取り上げられ、映画にもなりました。この日は、北海道だけでなく日本中が大寒波に襲われていました。八甲田山のある青森県内でも例年よりも8℃から10℃も低い気温だったようで、八甲田山に至っては零下20℃近くまで気温が下がっていたのではないかと言われています。日露戦争を控えていた日本陸軍は、寒冷地での行軍訓練・調査をするために青森の陸軍歩兵第5連隊と弘前の第31連隊が別々のルートから八甲田山に入山しました。しかし、無事に全員生還した第31連隊と違い、第5連隊は雪山の中で遭難し210名中199名(うち6名は救出後死亡)が凍死してしまうという悲惨な結果になってしまったのです。
 なぜ第5連隊がこのような結果になってしまったのかというと、この日が日本観測史上最大級の大寒波に見舞われたことと、隊員のほとんどが雪山に入った経験がなく、装備も計画もとても貧弱なものだったことが大きな原因だったと後に検証されています。また、八甲田山の麓の村人たちも1月24日前後は毎年山が荒れるので山に入ってはいけないと忠告したにも関わらず、案内も付けず入山したことや、責任者の神成大尉も雪山の知識が全くなかったために正しい判断ができず、山口少佐という別の指揮官が、道が分かると言った隊員に案内するよう勝手に命じた上に道に迷うという事態に陥り、隊員たちは余計に混乱したのも原因とされています。結果、隊員たちはバタバタと凍死していき、最後には途中で解散し各自で下山するように指示が出され、それまで何とか耐えていた隊員たちの中には発狂して裸になる人や川に飛び込む人などもいたそうです。どうにか生き残った11人の隊員たちも凍傷が激しく、手足を切断したり指がなくなったりと五体満足の人はいませんでした。この悲惨な事件は、その後の雪中行軍に対する装備や知識の必要性を見直すきっかけとなりました。その後、1965年から自衛隊第5普通科連隊は毎年2月に八甲田山で慰霊演習を行うようになったそうです。
 八甲田山の雪中行軍遭難事件のときは零下20℃ほどだったと推測されていますが、吹雪も激しかったので体感気温は零下50℃になっていたとも言われています。もし、八甲田山の雪中行軍がこの日でなければ、こんな悲劇は起きなかったでしょうか。日本最低気温の日の由来となった北海道旭川市の零下41.0℃という記録ですが、これは気象庁で観測したものです。この記録は公式記録では現在まで塗り替えられていないのですが、実は、非公式の記録ではもっと低い気温を観測した場所があったのです。1978年2月17日に北海道幌加内町母子里にある北海道大学の演習林で零下41.2℃という国内最低気温を記録しました。また、同じ日に同じ幌加内町母子里で零下44.8℃を観測したとも言われています。その他にも1931年1月27日に北海道天塩国上川郡風連町(現在の名寄市)で観測された零下45.0℃などが非公式の記録として残っています。
 各地の気温はこのところ上昇傾向にあるので、この最低気温の記録が更新される可能性は少なくなっているかもしれません。しかし、気候温暖化は極端に振れるとも言われており、いつか、どこかで極低温になる可能性もあると思います。ちなみに、世界の最低気温の記録は1983年7月21日に南極大陸のロシア・ヴォストーク基地で観測された零下89.2℃でしたが、その後、記録が更新され、2010年8月10日に南極大陸の東部のドームA付近で零下93.2℃を観測し、これが世界の最低気温となっています。冬の平均気温が零下20.0℃となり、1978年2月に零下38.0℃を観測した日本一寒い町として有名な北海道陸別町で、毎年寒さと戦うお祭りが開催されています。その名も「しばれフェスティバル」といって、メインイベントは「人間耐寒テスト」で、バルーンマンションと呼ばれるかまくらで一晩過ごすというものです。人間耐寒テストは定員300名、参加費6,000円で事前予約が必要とのことです。翌朝7時まで無事耐え抜いた人に認定証がもらえるようです。また、参加した人には朝食と温泉のサービスもあります。ちなみに7月23日は「日本最高気温の日」となっています。

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