だらだら散らかりすぎた文/青紗蘭
私は、今生では、ただの人である。
さて、今回はやたらと精神だけ逞しく育った。(現時点で(笑))
だが、器たる体は、頑張りすぎてしまう性格のようで、【休め!】と止めてもなかなか…突っ走りがちである。持病も本人も振り回されている。
先日、有り難いことに39歳(Thank you!)になれたのだが、ここまでを振り返れば良く生き残れたなという道であった。
あっ!
不幸自慢とか、大変だから甘やかしてみたいなことは、一切無いのでご安心ください(笑)
話に戻る。ひとつ治れば、ふたつみつ新たな病がみつかる。認知度が高く、治療法が確立されているものは、痛みがあろうと主治医と治すのみである。
しかし、時折、名すら教えてくれぬ、つれない病?もあったりする。「おしえてたもう~!」と言ったところで、フラれるばかり。症状が、様々でやっかいなものもある。
主治医は、変わった人であるが根気よくつきあってくれる温かい人だ。私の何だかよくわからんものにも10年ほどお付き合い戴いている。
私は自身を不幸だと思ったことは一度も無い。
うふふきゃっきゃな大学生活を途中で諦めることになったときも、通信制の大学に編入でき、新たな友人に出逢えた。そして、私は知の誘いのまま取材をしまくっていた。
幼少の祖父からの虐待も、事件事故に巻き込まれても、大切な人がこの世を去っても、子供が産めない体になっても。
私は、何度でも立ちあがってきた。
いや、正確には立ち上がらせてもらっただね。先逝く人は、姿を消しても優しく強い。
何度【生きろ!】と内側から言って貰ったか…。こころに響くその声たちは、奮い立たせる。
私が、不幸にならないのは。
私が、不幸だと考えないからだ。
何の出来事にも得るものがある。
痛みや苦しみを味わったなら、あらゆる命について考え、やさしくいきる術を知るきっかけになる。
信じられない最低なあってはならない不可避な出来事にであったなら、どこまでも深く広く受け止め、その中で真理を辿り巡る旅に出られる。
愛する人とお別れは、何よりも辛く引き裂かれる。灰色の世界で生きるようであった。しかし、戴いた愛は永遠に私の中で生きて生かしているのだと気が付くことができた。
祖父からの虐待は、筆舌に尽くせぬ。あってはならぬことだった。
しかし、また祖父も苦しんでいたのだ。扉の開いた孤独の檻で。扉は開いていたのに…孤独に自らしがみつき、人を信じられなくなっていった。誰からも愛されぬと思い込むとは、なんと哀しいことか…。
私は、いかなる相手であっても冷静になって考える必要性を深く学んだ。
自分語りを随分した。
ようは、この世は考えよう。
自分の操縦桿を人に渡さずしっかり握り
コントロールする。
自分の人生が上手くいかないことを嘆いても、他者のせいにしても、社会のせいにしても、世界のせいにしても、神のせいにしても、誰も面倒なんてみれないさ。
何故って?
そりゃーみんな人間に限らず生きてるからさ。必死に。必至に。
自分だけに災いが降りかかるなんてまず無い。自分だけが幸せになることも。
不幸なんて、細かく引き受けときゃいい。
幸せはでっかく味わっちゃえ。
生きるために、立ちあがるために、引き継がれた教えや語りかけを学べ。
ちゃんと、幸せに気づけるさ。
どんな生き方をしてきても。
どんな境遇にあってもね。
誰かの姿に囚われて生きなくていいよ。
あなたの人生は、あなたが決めるんだ。
私は…そんなに強くない。。なら、仲間を作れば良い。一人で抱えず、相談しながら助け合えばいいさ。
何があってもさ、生きるっていいもんだよ。
生きて、生き抜いた先、新たな自分に出会う。
時間なんて何もしないなら、あってもなくてもさしてかわらない。
体というのは、一生のうちにまともに動いてくれる時間は意外と短い。
だから、やりたいことは、迷わずやりなよ(笑)