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「ロマンティック・コメディ」

大学生は、だいたい二種類に分けることができると思う。ひとつは、学生として、机に向かって勉強に励んでいるひと。あれは、非常にえらいものだね。図書館に行くとそういう人たちに出会うことができる。僕も勉強がしたくなるとよく図書室にこもったものだ。もうひとつは、カラオケ店や、夜の飲み屋街に行くと比較的容易に出会うことができる人たちのことだ。彼らは陽気で、純粋な高校生の精神のままじゃ知らなかった世の中のあれやこれやについて教えてくれる。


僕は、どうであったかというと、一回生の秋までは、人生の夏休みの真っただ中だったように思う。


まず、僕の大学には、放送部というのがあった。どこにでも放送部なんて言うのはあるのだろうけれど、ここでは、ラジオドラマの制作が主な活動内容だった。高校放送部の経験者なんかは、できると思っていたアナウンスや朗読の活動めっきりないもんだから、はじめのうちはやや不満げな表情をすることもあった。でも、不思議なもんだ。そういう違和感なんてものは、しばらくすると消えていく。新生活の初めに、違和感を覚えた新しい食器たちに僕らがだんだんとなじんでいくように。


で、放送部の話なんだけど、毎年恒例らしいのだが、僕たちはラジオドラマを練習で制作することになっていた。練習とはいえ、脚本、収録、編集まで一回生中心となって進めていく本格的なものだ。上級生のすることといえば、班の監督と、出演するキャストを務めることで、そんな上級生と一緒に、僕らは部室によく閉じ込められていた。部室は二か所あって、一つは、普段授業を受けるキャンパスにある。エレベーターのない四階建ての鉄筋コンクリート造でその最上階の一番端がそうだった。さあ上るぞ、と意気込んでもドアの前につくことには無実のTシャツが汗でしっとりと濡れてしまう。大学生ってそういうもんだろう。高校時代生き生きしていた体力はもうない。それでも、一回生だったからやっぱり目には輝きがあったから、四階まで上れたんだね。僕らが閉じ込められていたのは、そこではない、もう一つの、少し離れたキャンパスにある部室だった。控えめな収録ブースがついていた。六畳半くらいだろうか。それほど広くはない場所に、収録用の機材と麻雀の類のものが所狭しと並べられていた。まだ使い方も知らないようなものもたくさんあった。いつもそれらは雪崩を起こしそうな勢いで、整頓されているのだか、されていないのだかわからないような、でも一応それなりの秩序のある混沌という感じで僕らを迎え入れる。真ん中には、座卓があって、それは冬にはこたつになる。それがカオスな部室内で、唯一の季節を感じられるものだった。そのころは夏だったから、こたつはただの座卓だった。一つしかない窓を開けると、羽虫が迷い込んでくるので、閉め切っていていつも空気はよどんでいる。でも、そのちょっとゆがんだ空気が僕らの青春だったように思う。

春から夏にかけての大学一回生ほど、上級生をリスペクトするようなのはないように思うね。大学というある意味非日常的な空間の入り口に立たされた一回生という立場からすると、荒波に数年のまれてきた上級生というものは大変立派に見えるものだ。今の僕だったら、きっと二週間も放課後部室に閉じ込められるなんて御免だ。なにしろ忙しいんだ。その頃もまあまあ忙しかったんだけれど。


で、話を元に戻すと、一回生の中で、書きたい人が脚本を書くということになった。それで、いろいろあって僕とあと数人が書くことになったわけさ。ほかの人がシリアスな物語や、ギャグ作品を書き編集メンバーを募る中、僕は、ラブコメを書いた。本当はギャグにしようと思ったんだけど、悲しいことにそれほどのユーモアセンスは持ち合わせていなかった。


それから、特筆すべき事項として、それは、厳密には、もうひとり、入部してすぐに仲良くなった女の子、との合作だった。彼女と出会った時、昔から知っているような気がした。あるいは、昔一度どこかで出会ったような気がしたんだ。彼女は東北の出身で僕は近畿の出身だから、決してそんなわけはないんだけど。なんというか、僕的には運命的な出会いだった。すぐに意気投合して、合作することになったわけだ。


印象に残っているのは、編集をしていた時のことだな。編集週というのが、各班1週間ずつ与えられるのだが、僕の班は大体夜遅く、毎晩2時くらいまでかかった。真っ暗で静かな大学のなかで、あかりのともるのは、夜遅くまで励む研究室と僕らの部室だけであるという具合に。それで、部室の中にある二台のパソコンで収録した上級生の声を切って貼って、MEやSEを切って貼って、するのだ。何度も同じシーンを再生して、間を詰めて、うーん、やっぱり違うなあとか、もうちょっと間が欲しいなあとか、そんなことをうんうん言いながら時間が過ぎていく。たしか四人班だったと思う。監督係の上級生は、中央にある座卓になったこたつでレポートを書いていた。その時は夏で、期末考査前だったから留年しないように上級生は必死だった。一方で、何度も何度もゲシュタルト崩壊しながら、僕ら一回生は、期末考査のことなんか忘れてパソコンに集中していた。


集合は、大体授業後の17時くらいだった。2時までとなるとさすがにおなかがすく。僕らは、銘銘に編集の合間をぬってご飯を食べに行く。ある夜、僕は、その女の子とコンビニに行くことになった。買ったものは何だっただろうか。うまく思い出せないけれど、パンとかそういうもの、とにかく炭水化物だったように思う。深夜に食べる炭水化物は背徳的だ。明日は運動しなければ。僕は健康志向のひとだから、そんなことを考えながら、でもそれが少しうれしかったのを覚えている。僕らは、キャンパスを出てすぐのコンビニで食料を調達し、構内で防犯用のあかりのともった倉庫、その閉められたシャッターの前に腰掛ける。彼女の緑色のワンピースがしっとりと光に照らし出される。その夜の湿度は高かった。他愛ない話をして、また黙って僕らは大変遅い夕飯をとる。


「これ知ってる?」
彼女が、突然スマホの画面を僕に見せた。スマホのあかりできっと僕の顔はぼうっと浮かび上がっただろう。夏の夜に浮かび上がる顔なんて不気味だ。でも、大学構内を歩いている人なんて僕ら以外にいなかった。それが、幽霊が夏の夜にぱっと現れたように見えて、誰かが真っ青になって、七不思議のひとつになってしまうなんてことはなかった。真っ白い画面のまぶしさのあまり眉をひそめた僕は、たいそう嫌な顔をしていたに違いない。暗闇にぱっと表示されているのはどうやら何か知らない言語の曲らしい。
「いや、しらないなあ」
彼女は笑いたいんだけれども、笑いきれない、というようないつもの表情を浮かべて、再生ボタンをそっと押す。何とも言えない表情だ。僕は、その様子が少しガクアジサイみたいだなとも思うし、朝顔みたいだな、とも思う。実際のところ僕もよくわかっていないけれど、控えめな、でも湿度のある笑みだ。彼女には、そういうところがあるのだ。二人で脚本を練るときも、僕は度々この表情に悩まされた。わからないのだ。彼女はこういう点で謎に包まれている。同じものを見たとしても僕と感じていること考えていることがきっと根本的なところで何か違っているのだとも思う。


流れてくるバラード調の異国の調べに合わせて、そのよくわからない言語で彼女は歌を口ずさむ。薄い唇から顎にかけての輪郭に思わずドキッとして僕は、目をそらしてとおい闇を見つめた。ぼうっと眺めた先は、街灯もなく、人気もないただの深夜の大学構内だ。でも、その先に、その異国があるのだということを僕ははっきりと認識した。乾いた大地で一人たたずむ大人の男。綿のシャツからのぞく腕は褐色で力強い。眉毛は濃く、彫の深い顔がじっとこちらを見つめ返している。厳しい自然の中で生きてきた顔だ。スマホのやわなスピーカーから流れ出る、哀愁漂う歌声と、彼女の小さい声が夏草のゆれるかすかな音と、虫の音の夜に螺旋を描いて吸い込まれていく。どこかしっとりとしたものが僕らを包み込む。抵抗せずに身をゆだねると、僕は、地球上の地球上ではないどこか、もっと卓越したどこかにいるような心地がしたあと、突然慌てたように深く息を吸った。いつのまにか曲は終わっていた。
「いい曲だね」
「でしょう」


完成したラブコメは、パッチワークみたく少しちぐはぐな感じになったけれど、そのぎこちなさがかえって部員には受けた。うれしかったけど当然、その学期の期末考査の結果は散々だったよ。あまりにも不振だったのでうんざりした僕は、いったん部からは退いた。そのあと、まあまあ退屈な日々が待っていたのは言うまでもないことだけれど、今はそこそこ立派な研究者で毎晩2時まで研究室さ。彼女とはそれ以降会っていない。いや、やっぱりなかなか会えないというものだ。そういうわけだけど、何が正解だったかなんてわからないもんだな。


で、何が言いたいかというと、とくに何もないんだけど。研究室のすかした窓から、虫が何匹か入ってきたかもしれない。ぼうっと蛍光灯の下で螺旋を描いて、舞い込んできた青い草のにおいが僕の心を優しく撫でていく。今夜も、どこかからペルシャ語のバラードが聞こえてこないだろうか。

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