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私たち(We)という感覚。「明日天気になれ」という願いを持つ80歳の患者さんに憧れて

自分にとっての”私たち”とは一体誰なのか。

一体何なのか。を考える時間が多くなった。

„私たち“とは東京の人達だけなのか

„私たち“とは日本の人達だけなのか

„私たち“とは大人だけなのか

„私たち“とは人間だけなのか

自然は“私たち“ではないのか

有色人種は“私たち“ではないのか


とある大統領が

「“私たち“はアジア人を受け入れる」

いやまずあなたの“私たち“に“私たち“は入っていないのかい。とトンチンカンなリーダーにはなりたくないと思うし、常に批判できる立ち位置でいたい。

自分の”私たち”という感覚を定義しなおす事の重要性に気付き、では僕は何をしたいのか何ができるのか何をすべきか


僕の生活自体を”変える”部分があるなと感じる


まずは“私たち“について考える


七夕のような程よく“私たち“の幸せを願えて程よく人任せな世界っていいなと思いながら80歳のおばあちゃんの短冊を覗き彼女の世界にお邪魔する。


「明日天気になれ」

彼女は“欲張り“の行き着く先をもう既に知っていて

„晴れ“という願いが私たちにどれだけの恩恵をもたらすか知っている。

そして彦星と織姫にも会ってもらいたいとそこまでも願っている

こんな老成した味わい深い人になりたいなとつくづく。

やはり高齢者ではなく“高嶺者“はたまた“高麗者“がお似合いだなぁと思ったり

でもその言葉を当てはめる事自体がおこがましい!と叱られそうなので反省したり

僕の頭の中の言葉達が嬉し涙でできた梅雨の水溜まりであそび始める。


未来の自分よ。いい加減に生きなさい。


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