私を映画に連れてって
そういえば以前、「銀幕のソ連史」で、映画史の話をシリーズ化していくような事を言ったな?
あれは嘘だ。(ポイッ
 ̄ ̄ ̄} ))
/ ( ̄) アアアアアアアアアッ(廃棄される下書き)
| と(; ´Д`)つ
/
思いのほか書くのがしんどかった。
映画史については書けないが、その代わり、ソ連の映画ポスターの話をしよう。
映画がイデオロギー装置として優秀であることは明らかで、新興ソビエト政権も当然、大いに関心を示していた。レーニン自身、「あらゆる芸術の中で、我々にとって映画こそが最も重要である」と語ったとされる。1919年8月27日、ロシア・ソビエト社会主義共和国連邦人民委員会が政令「映画業の国有化」を発し、映画産業は教育人民委員会(教育省に相当)の管理下に入った。これをもって、「ソ連映画史」の始まりとされる。
革命前まで、映画はほとんどがモスクワとペトログラードで撮影されていたが、映画の宣伝力に注目した政府は、映画産業の無かったソ連の構成共和国にも映画スタジオを設立していく。モスクワやレニングラードからは機材とともに人材も派遣され、現地の映画人の養成を行った。
一方、モスクワやペトログラードなどの大都市では20世紀初めには既に映画館が乱立するようになっており、映画は娯楽として既に定着していた。
ソ連時代、最盛期には年間40億人という、世界でもトップクラスの観客数を動員していた映画は、国庫にも多大な収入をもたらしたという。外国映画も人気があり、特に採算性が高かった。そんなソ連映画界も80年代頃から観客数の減少が目立ち始めるが、原因はカラーTVの普及と、コムナルカ(共同住宅)の減少であるという。どうやらコムナルカは、「帰りたい家」には程遠かったらしい。なお、家庭用ビデオデッキはソ連再末期まで事実上の違法状態で、密かに集まって隠れてこっそり外国映画を鑑賞するものだった。
さて周知の通り、ソ連映画を世界に知らしめたのはセルゲイ・エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」(Броненосец Потемкин)である。1925年に制作・公開された本作はサイレント映画史上最高の傑作とされ、映画界に与えた影響は計り知れない。
「戦艦ポチョムキン」はまた、アレクサンドル・ロトチェンコが手掛けたポスターも、ロシア・アヴァンギャルドの傑作として名高い。ポスターは他にも、別の作家たちが手掛けたものが数点あり、いずれも強い印象を残す。
一番下のポスターは1927年のもの。有名なオデッサの階段のシーンが大胆にとり入れられている。
これらのポスターは、2016年にMoscowDesign Museumが開催したソ連映画ポスター展で撮影したものである。今回は、展示会で撮影したソ連の映画ポスターを紹介していこう。素人撮影なので、照明が映り込むなど、観辛い点はご容赦いただきたい。手ブレが無いだけでも筆者的にはスゴイことなのである。
ヤコフ・プロタザーノフ監督作品、「アエリータ」(「Аэлита」、1924年)。サイレント映画時代の金字塔的SF。
こちらもプロタザーノフのコメディ、「トルジョクから来た仕立屋」(「 Закройщик из Торжка」、1925年)。有田哲平さんに似ている。
「クレショフ効果」で知られるレフ・クレショフ作品、「殺人光線」(「Луч смерти」、1925年)。不安を煽るような効果的なデザインが見事。
プロタザーノフ監督作品、「41番目の男」(「Сорок первый」、1927年)。ここまで思い切ったデザインも珍しい。
これらの映画が製作された時期はまさにロシア・アヴァンギャルドの隆盛期であり、ネップの成功にも後押しされ、映画とともに映画ポスターも大胆で実験精神に富んだものが多い。しかし、1920年代末頃からネップの終焉と文化芸術の統制強化が本格化し、映画とともに映画ポスターも「形式主義批判」に晒されることになる。
また次回、続きます。
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