【ふたつの山姥切】原案ゲームの山姥切国広と山姥切長義について整理して、長義の修行と極を予想してみた【伯仲】
これは刀剣乱舞ONLINEの「伯仲」こと山姥切国広と山姥切長義について、現時点で私が考えていることをまとめた記事です。あくまで自分がスッキリするために書いたものであり、真実を解き明かすことや、誰かを説得する文章を書くことが目的ではないため、考察という言葉は使いません。
数年分の紆余曲折を経てたどりついた考えなので、過去のポストではまったく違うことを言っているかもしれません。また、キャラクター解釈と萌え/エモは「それはそれ、これはこれ」のスタンスであり、今後もここに書いたこととは矛盾するポストも普通にすると思います。ご了承の上でお読みください。
はじめに
どうやら実装順には意味があるらしい
刀剣乱舞ONLINEには「ストーリーがない」とよく言われますが、新刀剣男士や極を順に実装していくことで少しずつ世界観を明らかにしたり、状況の変化を示したりしていく、それがとうらぶの「ストーリー」なのだと思っています。
ゲームにおいては、初山姥切国広→山姥切国広の修行と極→初山姥切長義の順に実装されており、本まとめもこの順序に従って構成されています。長義が実装されたイベントである聚楽第は、当初の予定から「開発の都合上延期」されていますが、この「開発の都合」が具体的に何を指すのかは明らかにされていません。技術的な問題があったのかもしれませんし、「ストーリー」を考慮した上で変更されたのかもしれません。当初発表されていた予定がどうであれ、最終的に山姥切国広極→山姥切長義の順で実装することが決定された訳ですから、それがとうらぶにおける正史と考えます。
このように書くといい気がしない人もいるかもしれませんが、山姥切長義は山姥切国広ありきのキャラクターだと思っています。本丸によっては顕現順が山姥切長義→山姥切国広になる可能性もゼロではないと思いますが、極めて稀な例でしょう。ほとんどの本丸では山姥切国広→山姥切長義の順で顕現する、それがとうらぶにおける「ストーリー」であり、山姥切長義を知るにはまず山姥切国広を知ることが不可欠だと考えています。
日本版のゲーム内要素のみで考える
このまとめを書くにあたっては、メディアミックスや公式外の史料等は参照せず、ゲーム内のテキスト・台詞と公式サイトのキャラクター設定文、公式X(旧Twitter)に投稿された紹介文のみを材料にしています。英語版も一切参照していません。ただし、参考として注釈つきでメディアミックスの内容に触れている部分もあります。
では本題に入ります。
山姥切国広に関するいくつかの疑問
私にとって山姥切国広は長いあいだ「よく分からないキャラクター」でした。いつも不満そうだが、何が不満なのかよく分からない、そういう印象を持っていました。以下に挙げるのは、山姥切国広というキャラを深く掘り下げていなかった頃に私が抱いていた疑問です。キャラを推している人にとっては「今さらそこ???」と思うようなものもあると思います。疑問への私なりの解答は後述します。
疑問1 比較されることを嫌っているらしいのに、「刀工第一の傑作」という他の刀との「比較」からしか生まれ得ない評価を拠り所にするのは矛盾しているのでは?
疑問2 修行で確かめたのは「伝説」の話なのに、「写し」がどうとかを悩まなくなるのはなぜ?
疑問3 「写し」であることが悩みの根本なのに、写しを作った刀工や写しの依頼主にはあまり関心がなさそうなのはなぜか?
疑問4 「写しとは何か広まったか」という台詞があるが、肝心の「写しとは何か」を自ら語ろうとしないのはなぜ?
1. 山姥切国広【初】
私が山姥切国広を理解する手がかりになった台詞や設定文を順番に見ていきます。
1-1. 刀帳台詞:偽物≠贋作
まず注目するのは、写し「だが」偽物ではない、と写しと偽物を逆説で繋いでいる点です。写しとして作られたのであれば、本物を騙る目的で生み出された物(=贋作)ではないということになります。偽物=贋作と解釈するならば、写しであることはむしろ偽物ではないことの根拠になるはずです。
ここからわかるのは、山姥切国広の言う「偽物」は「贋作」に相当する概念ではないということと、「写し」と「偽物」を結びつける何らかの要因が存在するということです。
1-2. キャラクター設定文:コンプレックスなのは「オリジナルでないこと」
私自身が長いこと勘違いをしていたのですが、国広は「オリジナルでないこと」がコンプレックスなのであって、「写しであること」がコンプレックスなのではありません。「山姥切国広は写しなのがコンプレックスなのだ」と思い込んでいたら、永遠にこのキャラを理解できないままだったと思います。
さて、ここで気になるのは「実力は充分」という文言です。「実力」とは何を指すのでしょうか。刀剣男士はみなレベル1で顕現する上に、初期刀であればかつては負け確チュートリアルまであったわけなので、これは単純に「戦闘力」という意味には取れません。私はこれを「男士が顕現するための充分な物語を持つ」という意味だと考えています。これについては修行の話でまた触れます。
1-3. 本丸・戦闘時の台詞:山姥切国広の本科像
山姥切国広の台詞には本科とされる「霊剣『山姥切』」に関するものが多くあります。
「化け物斬りの刀そのものならならともかく、写しに霊力を期待してどうするんだ?」
→本科には霊力があると思っているようです。
「どうせ写しにはすぐに興味がなくなるんだろう。わかってる」
→本科だったら興味はなくならないと思っているようです。
「山姥退治なんて俺の仕事じゃない」
→山姥退治は本科の仕事だと思っているようです。
これらの台詞から分かるのは、「写し」という属性は「霊力の有無」などから本科と比較してネガティブな評価を与えられるものである、という認識を山姥切国広が持っているということです。しかしながら国広は、「自分には霊力がない」とはっきり言っているわけではなく、自分には山姥退治はできない、とも言いません。
という台詞にあるように、実は自分だって何でも斬れるのに、という思いがあるようです。
刀の評価の話をするなら、国広第一の傑作が「名だたる名剣名刀」に該当しないはずがありません。また、「国広第一の傑作」を拠り所にしている山姥切国広に、「国広」の名を貶める意図はないはずです。本来ならば「相手も名刀、自分も名刀」であるはずが、国広の認識はそうではない。それが具体的に何かはここでは言及されていませんが、「相手にはあって、自分にはない」ものがあると思っていることがうかがえます。他の台詞を踏まえると、それは山姥切国広が「写し」であることと関連しているようです。
会心の一撃と真剣必殺台詞です。どちらも絶対ぶっ殺してやるという場面で出てくる台詞であることと、会心の一撃は真剣必殺とセット(真剣必殺状態だと必ず会心の一撃になる)であることを考えると、「写しと侮ること」と「偽物という侮辱」は、山姥切国広の中では「同種のもの」であると思われます。
内番には比較されることを嫌う台詞が二つあります。
どちらも山姥切との比較ですが、馬当番は「雑用」なので仕事の内容に関して、畑当番は「泥」なので見た目に関して言っています。
雑用をしていれば本科と比較されない→本科には雑用ではない仕事がある
汚れていれば本科と比較されない→汚れていなければ見た目を比べられる
と国広は考えているようです。
また負傷時の本丸台詞に「これでいいさ。ぼろぼろになっていれば俺を比較する奴なんていなくなる」というものがあります。山姥切の名前は出していませんが、ここでの比較対象も山姥切のことを言っていると受け取って良さそうです。
国広の認識では、本科である山姥切は「見た人が比べたくなるくらいには自分と見た目が似ている」「自分とは期待される仕事が違う」存在であることがうかがえます。
これらの台詞は「(主のために)強くなったことを認めてほしい」「直してまた使ってほしい」という気持ちの裏返しだと思われます。
紹介文にある「性格は少しひねくれ気味。本当は自分を認めてほしいという一面も」の面がよく出ている台詞です。そのように捉えると、「何を期待しているのやら」「期待してどうするんだ?」も、本心では期待してほしいと思っているからこそ出てくる言葉だと思います。
1-4. 破壊台詞:国広のプライド
初国広を理解する上で外せないのが破壊台詞だと思います。
放置台詞で「どうせ写しにはすぐに興味がなくなる」などとぼやいていますが、今際の際に発するのは「消えたら忘れ去られるのか」というような台詞ではありません。むしろ正反対です。自分を「本歌のスペア・代替品」でしかないと思っていたら絶対に出てこない台詞だと思います。存在が消えた後も、残った名だけで比較されると考えているわけですから。それくらい、山姥切国広は初の時点から確固とした自己があり、刀としての自負があるのです。
また、自分と本科の関係を「一つの椅子を取り合うような関係(※これは長義実装以降ににわかに言われ始めた解釈だと認識していますが)」だとも思っていないことが分かります。
(参考)
ミュージカル「花影ゆれる砥水」における一期一振とカゲは「ひとつの名を取り合った」分かりやすい例だと思います。真打としての正当性を巡る争いに破れたカゲは「影はその名で語られず、消えるだけ」という言葉を残して消えていきます。山姥切国広の破壊台詞とは対照的です。
また、「写し」という共通属性を持つソハヤノツルキとの回想「写しの悲哀」にも「俺はコピーではない」という台詞があります。これはソヤハに「コピーでいいじゃねえか」とポジティブに否定されてしまいます。その後の会話で国広は何も言えなくなっていますが、頭の中には反論も含め言いたいことがたくさん渦巻いていた(が、結局何も出てこなかった)のではないかと思っています。
戦闘台詞等を踏まえると、ソハヤ自身は「写し」を「本歌には及ばない代替品」のように認識しているようです。これはどちらかというと山姥切国広が払拭したい評価ではないでしょうか。
ところで。
「消えた後も比較され続ける」は、消える前も継続的に比較されていることが前提の台詞です。しかし本丸には本科がいないので比較のしようがありません。
・国広が比較されたのはいつ?
・偽物と呼ばれたのはいつ?
・写しと侮られたのはいつ?
これら国広の「写し」に関する認識は、一体どこから発生しているのか? という疑問が生じます。
この疑問についても後ほど答えます。
1-5. 初山姥切国広まとめ
ここで初の山姥切国広についてまとめておきます。
自分のことは山姥切の写しだと認識している
本科には山姥切の名にふさわしい伝説と霊力があると思っている
自分は写しの刀であるせいで伝説がなく、霊力のこともよく分からない。そのせいで侮られると思っている
しかし自分も刀としての評価はまったく劣らないという自負がある
自分だって何でも斬れるはずだと思っている。が、そう言い切る自信がない
国広にとって「『偽物』という侮辱」と「写しと侮ること」はセットになっていると思われる
国広の考える「写しとは何か」については不明である
初の山姥切国広は、
①自分は写しの刀であるせいで伝説がなく、霊力もない。そのせいで侮られると思っている
②自分だって何でも斬れるはずだと思っている。が、そう言い切る自信がない
の2点について、現状に不満を抱き、変えたいと思っており、それが修行に繋がって行くことになります。修行で得たものについては次の章で触れますが、手紙一通目の「強くなりたい」は、「侮られないほどに強くなりたい」であり、「強さに裏打ちされた揺らがない自信がほしい」でもあるのだと思います。
山姥切国広に対してふわっと抱いていた印象「何が不満なのか分からない」に答えることができたところで、次の章へ進みます。
2.山姥切国広の修行
2-1. 山姥切国広が修行で見つけたふたつの結論
まず前提として、とうらぶにおける「修行」は、ざっくりとこういうものだと考えています。
刀剣男士は、「刀そのもの」ではなく「刀にまつわる物語」から発生している存在であり、記憶や感情すらもその影響を受けている。そのことを自覚し、自分を形作るものを知るのが修行である。
さて、修行で山姥切国広がたどりついた結論は大きく分けて二つです。
結論1「伝説はどちらも存在している」
男士を形作るものを確かめる修行の、その報告の手紙に「伝説が存在する」と明記されたからには、単純に、文字通りに「伝説が存在する」という意味には留まらないのではないでしょうか。私はこれを「刀剣男士を顕現し得るだけの物語が別個に存在する」ということだと解釈しています。山姥切国広のキャラ設定文にあった「実力は充分」も、このことを指していたと思われます。最初からそうだったことに、国広は修行で初めて気づいたわけです。
結論2「伝説は曖昧なものである」
相反する伝説が両方存在することもある。実際に切ったかどうかや、本刃に切った記憶があるかどうかと、伝説の有無は必ずしも一致していない、ということを知ったのだと思われます。
ここでひとつ確認しておきたいのは、国広は修行で「伝説の発生地点」を確かめたかもしれませんが、「斬った現場」を見たわけではないということです。
男士の中には「伝説にあるとおりの現場」を見たかのような手紙を書いてくる刀もいます。
手紙には「案外、どちらも斬ったりなんかしていないのかもな。ははは」と書かれています。私はこれを「斬った現場を見たけど、誤魔化している」とは解釈していません。「本当は確かめたかったけどできなかった」のか「はじめから確かめる必要がなかった」のかは分かりません。重要なのは、「斬った現場」を確かめずとも国広の悩みは解消したという点です。
2-2. コンプレックスの解体作業
山姥切国広の修行が実装された時から長らく私を悩ませていた疑問「『伝説』について解決したら、『写し』について悩まなくなるのはなぜ?」について考えていきます。
修行に行く前、山姥切国広の中では「写しであること」「偽物と侮辱されること」「伝説がないこと」という本来は別個に存在する問題がすべて癒着して、一塊のコンプレックスを形成していました。修行によって、それが切り分けられたのだと思います。順番に見ていきます。
①自分が写しであること
手紙からは「写しとして生まれた意味を知りたい」や「本当に写しかどうか確かめたい」というような動機は一切見受けられないので、これ自体に疑問はないようです。
②写しであるが故に伝説がないこと
修行によって、実は写しが斬ったという伝説も存在することを知りました。より詳しく言えば、「写しが山姥切の伝説を獲得したから、本科がそう呼ばれるようになった」ということもあり得ると修行で初めて知りました。
③写しであるが故に偽物という侮辱を受けること
具体的には書かれていませんが、手紙の内容からは「偽物」という評価が「実際に切ったかどうか」や「本歌か写しか」とは一致しない場面があることを見てきたのではないかと推測します。想像ですが、本科のほうが「偽物」呼ばわりされている場面もあったのではないでしょうか。
こうして山姥切国広は「写しであること」と「伝説がないこと」「偽物という侮辱を受けること」をそれぞれ切り分けることができたわけです。
2-3. 刀剣男士山姥切国広を構成するものは何か
手紙には「斬ったのは本歌であって写しではないと記憶している」、と書かれています。国広がそう記憶しているのは、刀剣男士山姥切国広が「斬ったのは本歌であって写しではない」という物語から生まれたからだと思います。より正確に言えば、「斬ったのは本歌であって写しではない」という話と、「その話に付随する、人々の思い」です。
「斬ったのは本歌であって写しではない」という話には、「あっち(本科)は本物だけどこっち(写し)は偽物か」という見た人の感想が絶対についてまわります。この場合、「本科と写し」と「本物と偽物」が対応しています。一方で、「斬ったのは写しであって本科ではない」という話になると、「こっち(写し)は本物だけどあっち(本科)は偽物か」になり、「本科と写し」と「本物と偽物」が逆転します。どちらにも伝説があるのだから、もし写しが切ったほうの物語から生まれていたら「写しだから伝説がなくて偽物と侮られる」なんて悩んではいなかったわけですね。
前述した「国広の『写し』に関する認識は、一体どこから発生しているのか?」という疑問の答えはこれだと思います。
山姥切国広は修行によって、「自分の記憶や悩みすら曖昧な物語の産物だった」ということに気づいたのだと思います。「悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しく」もなります。伝説があろうがなかろうが自分を使い続けた審神者の刀であることのほうが、自分にとってはるかに重要である、という結論になるのも納得できるのではないでしょうか。
2-4. 「伝説はどちらにもある」も山姥切国広の構成要素なのかもしれない
ここからは妄想の度合いが高くなります。
国広の手紙は、2通目までで写しの伝説を知った後、さらに本科の伝説を調査しにいったように受け取れますが、そうではなく、3通目の内容までが山姥切国広の構成物語の調査だったとは考えられないでしょうか。
先ほど、山姥切国広を構成するのは「斬ったのは本科であって写しではない」という話と、「その話に付随する、人々の思い」であると書きました。それに加えて「本歌の伝説と写しの伝説、どちらも存在している」という物語それ自体もまた、山姥切国広の構成要素なのかもしれない、という妄想です。
三段のピラミッドの図をイメージすると、
下段「伝説はどちらも存在する」という「伝説」のレイヤー
中段「山姥を切った伝説の刀の写しだから山姥切=切ったのは本歌であって写しではないらしい」という「語り」のレイヤー
上段「語りに付随した、人々の思い」=「あっちは本物だけどこっちは偽物か」という「感想」のレイヤー
これらが重なっているのが刀剣男士山姥切国広であり、「語り」と「感想」の部分しか知らず、それが自分だと思っていたのが初の山姥切国広です。
「伝説はどちらにもある」の部分は山姥切長義と同じものを共有しているのでは?
更にその下のレイヤー、最も大きな土台として「刀そのもの」があるのでは?
とさらに妄想が続きます。これがもし正解だったときに何が嬉しいかというと、「山姥切国広と山姥切長義は別個の伝説から生まれた存在であるが、共有部分もあるので、そのことをお互いに認識すればそれについて話ができるようになるのでは?」ということです。お話ししてくれ。
3. 山姥切国広【極】
3-1. 刀帳台詞:極めた国広にとっての大事なこと
大事なことは「それくらい」と限定して強調する言葉を使っています。では初の刀帳と比較して何が「大事なこと」から外れたかというと、「山姥切の写し」と「偽物なんかじゃない」です。
「山姥切の写し」と「偽物」は国広的には「侮りセット」だった要素です。また、修行の部分でも触れましたが、国広は自分が「写し」であることに一切疑念はなく、写しが打たれた意味や思いにもあまり関心はないようにみえます。
なので初→極のこの変化については、「写し」が「伝説がないこと」や「侮り」から切り離された今、極国広とっては写しであることは特に言及する必要がないほど自明のことである、と解釈できるのではないでしょうか。
3-2. 本丸・出陣台詞:コンプレックスの克服
初時代の国広の悩みであった「自分だって何でも斬れるはずだと思っている。が、そう言い切る自信がない」を見事に克服していることが分かります。
3-3. 山姥切国広に関する疑問への解答
最初に提示した疑問への私なりの解答を提示します。
疑問1 比較されることを嫌っているらしいのに、「刀工第一の傑作」という他の刀との「比較」からしか生まれ得ない評価を拠り所にするのは矛盾しているのでは?
解答 初山姥切国広が嫌う「比較」とはあくまで「本歌との比較」のことであり、「比較」自体を嫌っているわけではない。
本科と比較される時に何が比べられるという伝説の有無です。「ある」と「ない」で比べられるのだから、初の山姥切国広にとっては本科との比較=下に見られること、だったわけです。
国広が嫌なのはそうやって理不尽に貶められることであって、評価のための比較はむしろ歓迎、望むところだ、くらいの気持ちなのではないでしょうか。
そういえば国広の審神者周年台詞は、二周年以降はすべて「正当な評価ができるようになったか?」という方向性の台詞と取れます。ここは二年目くらいで気づけよってことなのかもしれません。私は七年くらいかかりましたが。
疑問2 修行で確かめたのは「伝説」の話なのに、「写し」がどうとかを悩まなくなるのはなぜ?
解答:国広はもともと「写し」であることそれ自体を悩んでいるわけではなかった。修行に行く前は「写しであること」「伝説がないこと」「偽物と侮辱されること」が一体化してひとつのコンプレックスを形成していたが、修行によってそれが切り分けられ、かつ、「伝説」についての悩みが解消したから。
(反省)
疑問2については、自分が現実の刀に引っぱられすぎていたことが理解を困難にしていたと反省しています。「写しとして打たれた」と「伝説が付与された」が、別個に、別の時点で発生する出来事であることは、「山姥切の写し」として生まれた(と認識している)初の山姥切国広にとっては思いもよらないことである、という点を落としていました。
また、刀にそういう伝説があることは間違いないが、その伝説が実際に起こったことだとは考えにくい、ということが「刀剣では普通によくあること」という意識があったため、「名」と「実」が一致していないことが悩みの本質である、というところになかなかたどり着けませんでした。
疑問3 「写し」であることが悩みの根本なのに、写しを作った刀工や写しの依頼主にはあまり関心がなさそうなのはなぜか?
解答:そもそも「写し」であることが悩みの根本、の部分が正確ではなかった
写しであることは、国広にとっては本来ならばわざわざ言及するまでもないほど自明のことなのだと思われます。そして、「疑いなく○○と自認している」ことと、「○○とは何か説明できる」ことはまた別の問題です。自分のことは疑いなく写しだと思っているが、写しとは何かについて語れない、という可能性はあると思っています。
疑問4 「写しとは何か広まったか」という台詞があるが、肝心の「写しとは何か」を自ら語ろうとしないのはなぜ?
→残念ながら未解決です。
山姥切国広は修行の手紙でも「写しとは」に触れていません。疑問4の解決には至りませんでしたが、これは「写し」であることが悩みの根本ではないことを支持します。
(余談)
国広の悩みは「写しであること」それ自体ではなく、写しであるが故に発生した(と山姥切国広自身は思っている)「伝説がないこと」や「偽物と言われること」なのですが、派生作品等では後者のことを以て「俺が写しだから」と発言することがあるために事態がややこしくなっているように思います。個人の感想です。
山姥切国広のことが分かったような気がしたところで山姥切長義に進みます。
4.山姥切長義実装
私の山姥切長義への疑問はシンプルにこれです。
「どうなれば満足なのか分からない」
山姥切国広への当初の疑問が「何が不満なのか分からない」だったので、似たもの同士だなと思います。
流石にこれではあんまりなのでもう少し分解します。
疑問1 号にこだわっているようにみえるが、由来や霊力の話をしないのは不自然に思える。
号持ち男士がみな自分の号の説明をするわけではありませんが、もし山姥切長義の目的が号の正当性を主張することなのであれば、由緒を提示するのが道理です。しかし長義はそれをしません。また、霊力の話をしないことは、「山姥切国広の思う『山姥切』像と齟齬がある」という話でもあります。
疑問2 『山姥切』と認識してほしいのに、審神者に向かって主張しないのはなぜか?
疑問3 キャラ設定に「伯仲の出来」という刀の評価に関する文言があるが、長義自身は刀の話をしないのはなぜか?
疑問4 元の主の話をしない。また、写しに何かしら思うところがありそうだが、写しを打った刀工の話もしないのはなぜか?
こんなところでしょうか。
4-1.刀帳台詞:繰り返される「長義」
注目すべきはこの短い文章の中に「長義」という名詞が3回も登場することです。情報としては、名前である「山姥切長義」、「刀工長義作の刀」に加えて、あとは「本歌」を言えば充分なように思えるところを、さらに「長義が打った本歌」と駄目押しします。ここでの最重要情報は、実は「長義」の部分なのではないかと考えています。
補足すると、山姥切国広の刀帳やキャラ設定に「長義」の名称は出てきませんし、山姥切国広自身も修行の手紙まで「長義」という名前を一切口にしていませんでした。
4-2.キャラクター設定文:長船・伯仲・高慢
ここも気になるポイントを挙げておきます。
①「本歌」も「山姥切」も出てこない
刀帳とは対照的です。両方に出てくる要素は「長船」と「長義」です。
②刀の話が主
最初の3文が刀の説明で、後の2文がキャラクターの話です。ちなみに国広の設定文は最初の1文が刀の説明で後の3文がキャラクターの話でした。
③ふるまいの由来は?
山姥切国広は「オリジナルでないことがコンプレックス」というヒントがありましたが、山姥切長義の場合、「高慢」「自信」の元になっているものが何であるかは分かりません。
写し=コンプレックス ⇔ 本歌=自信がある
という解釈が出来るようになっているようにも思えますが、「写し=コンプレックス」が正確ではなかったように、「本歌=自信」も本質ではないように思います。
(参考)
映画刀剣乱舞黎明の山姥切長義の紹介文は、「自分に自信があり」の部分が「本歌としての自信に満ちており」という表現になっています。これは「本歌だから自信がある」というニュアンスを否定する方向の調整だと思っています。
「本歌としての自信」とは「本歌として振る舞うにあたっての自信」のことだと私は解釈しています。例えば「部隊長としての自信がある」という文は「部隊長を務めるのにふさわしいという自信がある」の意味に取るのが自然で、「自分が部隊長だから自分に自信がある」という解釈にはならないのと同様に考えています。
4-3.本丸・戦闘台詞等:後から来る本歌
男士には初期実装と追加実装がいます。男士本人が実装順をどのように認識しているかは分かりませんが、山姥切長義に関しては監査官個体でなくとも「後から来た」という意識があると思っています。周年台詞にも「俺が来たからには」というものがあります。
これは国広の「相手が何だろうが知ったことか、斬ればいいんだろ」とそっくりです。長義は「霊力」には言及しませんが、何でも斬れる自負があるという点は国広と同じであるようです。
4-4. 「偽物くん」と「似ている似ていない以前の問題」とは
現実世界でも派生作品内でも何かと物議を醸す「偽物くん」呼びですが、山姥切長義は「相手の自己認識を渾名にする」のではないかと考えています。ゲーム内だと例が「猫殺しくん」と「偽物くん」の二つしかありませんが解説します。
対南泉一文字「猫殺しくん」
初の南泉一文字は自分と猫が関連付けられることを理不尽だと思っています。猫のほうが勝手に飛び込んできたのであって、自分が斬ったんじゃない。でも結果的に猫が斬れて死んでしまったせいでこうなっている、という認識です。だから猫くんでも猫切りくんとも違う「猫殺しくん」を呼び名にしているのだと思います。
対山姥切国広「偽物くん」
とうらぶにおいては、「偽物」という単語を先に口にしているのは長義ではなく国広です。国広はこの言葉を、写し故に伝説がないことへの侮りと認識しています。この国広の自己認識「写し故に伝説がなくそのせいで偽物と侮られるほう山姥切」を以て「偽物くん」なのではないかと思います。
(参考)
ミュージカルでは長義は長谷部のことを「へし切くん」と呼びます。長谷部は反発していますが、実は長谷部は自分が「へし切」であることを否定していません。むしろ自分のことを一切の疑いなく「へし切」だと認識しているけど「へし切」とは呼ばれたくないと文句を言う面倒くさいヤツです。なので長義が長谷部を「へし切くん」と呼ぶのは予想通りでした。
「似ている似ていない以前の問題」については、似ている似ていないも何もはじめから似せて造られたんだよ、という意味かと考えたこともありましたが、それだと「以前」の部分がしっくりきません。そこで「以前」に重点を置いて考えたのが以下の解釈です。
現状、ふたつのものが正しく認識されていない状態であり、似ている似ていないを議論できる段階ではない。
そして、「ふたつのもの」とは何かを考えてさらに膨らませたのが以下です。
山姥切国広と山姥切長義が両方とも山姥切の名を冠して顕現している。それすなわち物語は「どちらにもある」ということである。両者を並べて似ている似ていない、あるいは「写しが先か本歌が先か」等を検討するのは、そのことが正しく認識されてからだ。
4-5.山姥切長義が「言わないこと」
ここで長義が言いそうで(?)言わないことをまとめておきます。
霊力に関すること
山姥切の名の由来(山姥を退治したから山姥切、といった号の説明)
自分だけが山姥切であるという発言、あるいは自分を山姥切と呼んでほしいという要求
国広は山姥切ではない、国広を山姥切と呼ぶな等の「国広=山姥切」を否定する発言
絶妙なやりとりの回想55『猫斬りと山姥切』
山姥切の名の由来に言及しない長義ですが、「自分が山姥を斬った」と言っているようにみえるテキストがあります。回想55です。回想相手である南泉一文字のほうも長義の逸話を肯定しているようにみえます。しかし、よく読むとそうではないように思えてきます。
回想では、まず長義が南泉に「猫殺しくん」と呼びかけます。そう呼ぶのには長義なりの理由がある(4-4参照)としても、相手にとっては嫌な呼び名なので、南泉は「お前には会いたくなかった」と返します。先制攻撃をしたのは長義とはいえ、顔見知りに言うにしてはなかなかキツい言葉です。対する長義の返事は「へえ、それはやっぱり斬ったものの格の差かな? わかるよ、猫と山姥ではね」です。これは、南泉自身が「猫が斬れてしまったせいで呪われた」と認識していることを踏まえた、「会いたくなかった」への意趣返しだと思います。「自分が斬ったものは猫で、山姥を斬った刀を前にするとコンプレックスを感じてしまうから会いたくなかったのかな?」という揶揄です。ポイントは、「俺は山姥を斬ったぞ」と言っているのではなく、「君はそんなふうに思っているのかな?」と、あくまで相手の認識を尋ねる形をとっている点です。南泉も応酬します。「化け物斬ったお前は心が化け物になった」。これも長義が化け物を斬ったことを肯定しているのではなく、長義の揶揄を「斬ったものマウント」と受け止め、それを逆手に取った意趣返しをしたのだと思います。
このように考えると、回想55は「お互いの逸話を肯定し合っている」のではなく「相手の言うことに乗っかって嫌味の応酬をしている」が正しいのではないでしょうか。軽妙でとても面白い会話だと思います。
ところで南泉一文字は修行で「猫の呪いも自分だった」と確認して返ってきます。長義が呼びかけたのが極めた南泉だったら、「猫殺しくん」にどう反応したのでしょう。「言い方……(呆れ)」という感じでしょうか。
相手の意思を確認する「~かな」
「~かな」の語尾をよく使用する長義ですが、この「~かな」について考えていることを少し書いておきます。
長義の「~かな」には、「自分のことについて独り言的に言うパターン」と「相手の意思や考えを確認しているパターン」があると思っています。前述した回想55の「斬ったものの格の差かな」は後者のパターンですね。
いくつか例を挙げておきます
①独り言パターン
・皆の見せ場を取ってしまったかな
・そろそろ本領発揮かな
・もう何も出ない、かな
②意思確認パターン
・どうかしたかな
・いいのかな
・俺についてきてほしいのかな
・鬼を斬ればいいのかな
「これで長丁場でも安心かな」「甘い物でひと息かな」なども食べ物への感想というよりも、審神者の采配についてコメントしていると解釈すれば、後者に含まれるのではないでしょうか。
長義が審神者に強く進言する時は「かな」を使いません
私が意思確認パターンの「かな」だと思っている台詞があります。有名なあの台詞です。
これは旅に出た男士へではなく、送り出した審神者への「あなたはそう思っているんだね」というコメントだと思っています。
「自分はどの面下げて修行を願い出るのか」などと巷で言われている長義ですが、見送り台詞と同じ台詞を言ってほしいと私は思っています。早く修行に行かせたくてたまらない審神者に向かって、この台詞を言ってほしいです。
4-6. 山姥切国広の修行の到達点=山姥切長義のスタート地点では? という思いつき
ここで国広が修行で得たふたつの知見をおさらいします。
①伝説はどちらにもある
②伝説は曖昧なものである
これがそれぞれ、
①似ている似ていない以前の問題
②どこかの偽物くん
と対応しているのではないか? という思いつきがこのまとめの発端になっています。
①同じ名前だけど伝説はどちらもある⇔似ている似ていない以前の問題
②伝説は曖昧で、記憶と伝説は必ずしも一致しない⇔「斬ってないくせに山姥切」自認の「偽物くん」
山姥切長義は、「写しで/斬ってないほうの山姥切で/霊力はない」と認識している山姥切国広を単純に反転させた「本歌で/斬っているほうの山姥切で/霊力がある」と認識しているキャラではありません。なぜなら長義には自身の霊力を誇示するような台詞もなければ、山姥切の名の由来を語ることもないからです。霊力を持っている自覚があるなら、山姥を切ったことを誇りに思っているなら、「もてあた」を掲げる長義がそれに言及しないはずがないと思います。
山姥切国広は修行で、写しかどうかと伝説が存在するかどうかは別で、伝説の有無と自分に記憶があるかどうかも別だった、という曖昧で複雑な事情を知り、「山姥を斬った記憶はないし霊力があるかは分からないけど、山姥切国広。それでいいんだ」と結論づけたわけですよね。そういうのも「あり」だったんだ、と国広が修行で気づいた、そういう存在として最初から顕現しているのが山姥切長義なのではないでしょうか。
これが、本まとめの発端の思いつきである「山姥切国広の修行の到達点=山姥切長義のスタート地点では?」の意味するところです。
5. 山姥切長義は結局何を言いたいのか
山姥切国広が修行で知ったことを、山姥切長義は顕現時点ですでに知っているようです。しかし、そのことを国広【極】が知っていることを、山姥切長義は知らないと思われます。
ではここからは山姥切長義と山姥切国広のやりとりについて見ていきます。
5-1. 回想56と57:ふたつの『ふたつの山姥切』
二重括弧の『山姥切』
山姥切国広の刀帳では「霊剣『山姥切』」と山姥切に二重括弧がついています。『ふたつの山姥切』回想で長義が口にするのも二重括弧の『山姥切』です。しかし長義自身が刀帳で名乗るときの山姥切に『』はつきません。対国広会話時の『山姥切』は山姥切長義が名乗る山姥切とは区別されるべき概念だと思われます。
俺を差し置いて『山姥切』の名で顔を売っている
この『山姥切』は二重括弧つきなので、山姥切長義とも山姥切国広とも別概念の『山姥切』です。初の山姥切国広は長義の名を出さず、山姥切の写しだと自己紹介しているので、ここで長義が言っていることは、言い方はさておき、そのとおりだと思います。
揺らがない「俺がいる以上、『山姥切』と認識されるべきは俺」
回想56と回想57と比べると、回想57では国広【極】の反応が想定外だったようで、長義は明らかにペースを乱されています。56では上から目線で言葉も丁寧ですが、57は動揺しており言葉選びにも余裕がないように感じます。にもかかわらず、「俺がいる以上、『山姥切』と認識されるべきは俺」の部分は一字一句同じです。これが「山姥切は俺だ」くらいのシンプルな文であれば気にならないのですが、「俺がいる以上」という条件付き、かつ、「認識されるべきは俺」という少し捻った言い回しなのですよね。私はこれを、まるで台本があるみたいだと感じています。長義にとっては何が何でも言い切らないといけない台詞であるようです。
しかし長義は「『山姥切』と認識されるべきは俺」を審神者や他の男士には言いません。「認識」の主語に当たるのは山姥切国広のようです。
5-2. 明らかに負けてるっぽい極国広との手合せ
長義と国広【極】との手合せは、終了後の会話から察するに、このまま続ければ山姥切国広が勝っていたであろう勝負を、国広が途中で切り上げたようです。そんな国広にかける長義の言葉は「慇懃な負け惜しみ」といったところでしょうか。
長義が感情を抑えられなくなっているのは、負けているっぽい手合せよりも、会話をしただけの回想57のほうです。ですので、長義にとっての重要度は、
「『山姥切』と認識されるべきは俺」を相手にわからせること>相手に勝つこと
なのだと思われます。
5-3. 山姥切長義がこだわっているのは一体何なのか
回想56,57ともに、山姥切長義は一見すると「山姥切の名前(号)」にこだわっているようにみえます。国広の目にもそう映っていると思われます。なので回想57で国広【極】は「名は俺たちの物語のひとつでしかない」と発言しています。
しかしここで思い出してほしいのは、山姥切国広というキャラクターは一見「写しであること」が悩みの根本のようで実は違った、という点です。初時代の国広の中では「写しであること」と「伝説がないこと」や「偽物という評価」という本来は別個のものが一体化していました。山姥切長義の言動も同じように考えることができるのではないでしょうか。
初の国広の認識は「山姥切の写しとして打たれたから山姥切国広(写しとして打たれた瞬間に山姥切の名前を本科から得た)」であり、「本歌写しの関係」と「名前」が一体となっています。本来は「本歌写しの関係」は写しが打たれた瞬間に発生し、「名前」はそれよりも後のいずれかの時点で発生しているはずです。
(もし「本歌写しの関係」と「名前」が同時に発生したとすれば、号の由来は本科→写しの流れでしかあり得ません。写しが打たれる前に写しの伝説は生まれようがないからです。そうではないことは、山姥切国広自身が修行で確かめました)
山姥切長義はその「『本歌写しの関係』と『名前』が一体となった初国広の認識」を踏まえてコミュニケーションを図った可能性はないでしょうか。つまり、
「名前」を使って「本歌写しの関係」を示そうとした。
こだわっているようにみえる「名前」は手段であり、目的は「本歌写しの関係」にあるのではないでしょうか。
そういうことなら、「俺はお前の本歌」あるいは「お前は俺の写し」とはっきり言えばいいのでは? というのは当然出てくる疑問です。これについては、プレイヤーが「このキャラクターであれば当然知っているだろう」あるいは「当然できるはずだ」と思うようなことでも、実はキャラクターは知らなかった、できなかった、ということがあると思っています。
「長義」という名前が山姥切国広の修行の手紙まで出てこないことは前述しましたが、実は「本科」も同様で、修行に行く前の山姥切国広は「本科」という単語を口にしたことがありません。さらにいえば、山姥切国広が使うのは「本科」、山姥切長義は「本歌」で、表記が使い分けられています。
意味するものは同じはずの「本科/本歌」ですが、敢えて使い分けられている以上、山姥切国広と山姥切長義の認識に何かしらの「ズレ」がある可能性はありそうです。山姥切長義が「俺はお前の本歌」とストレートに言えない、あるいはそういう言い方では相手に伝わらない理由があるのではないかと推測します。
(参考)
映画刀剣乱舞黎明では、呪いで記憶をなくした山姥切国広に向かって、政府の山姥切長義が「俺こそが本歌、山姥切」と名乗ります。同じ本丸の三日月宗近には「誰だか知らんが俺には関係ない」という態度を見せる山姥切国広ですが、初対面の長義の名乗りには「顔を隠す」という反応を見せます。本来仕えるべき審神者や同じ本丸の男士のことすら分からなくなっても、「本歌と写し」の何かしらの繋がりは生きていると分かるシーンですが、ここでも長義は「俺はお前の本歌」あるいは「お前は俺の写し」のような言い方はしていません。
5-4. 初山姥切長義まとめ
山姥切長義についてもまとめておきます。
刀帳で一番強調したいのは「長義」ではないかと思われる
『山姥切』は山姥切長義の山姥切とは別の何かである
山姥切国広に対して「俺がいる以上『山姥切』認識されるべきは俺」を絶対に言わなければならないと思っている
山姥切長義の目的は、名前を手段として「本歌写しの関係」を提示することではないか
というわけで山姥切長義に関する疑問への現時点での解答も書いておきます。
疑問1 号にこだわっているようにみえるが、由来や霊力の話をしないのは不自然に思える。
解答:こだわっているのは号ではない。由来や霊力の話をしないのは、長義自身は自分は斬ってもないし、霊力があるとも思っていないからだと思われる。
疑問2 『山姥切』と認識してほしいのに、審神者に向かって主張しないのはなぜか?
解答:『山姥切』と認識されるべきは俺、の認識の主語は山姥切国広だから
疑問3 キャラ設定に「伯仲の出来」という刀の評価に関する文言があるが、長義自身は刀の話をしないのはなぜか?
→未解決
疑問4
・元の主の話をしない。また、写しに何かしら思うところありそうだが、写しを打った刀工の話もしないのはなぜか?
→未解決
6. 残る疑問
6-1. 未解決問題1 「写しとは何か」の解答欄は空白のまま
とうらぶ世界における「写し」=現実世界での写し、とは限らないのがとうらぶです。今のところ「写しとは」がゲーム内で明確に語られたことはありません。
「写し」の刀については、「美術的価値を減ずるものではない」という話があったり、「写しが本歌に並ぶはずがない」という話があったり色々ですが、現実世界の「写し」のことをいくら考えても、とうらぶ世界の「写し」のことは永遠に分からないのではないかと思っています。そもそも山姥切国広は、伝説がないことやそれに起因する侮りについて悩んではいますが、「刀の出来に関する評価」が「写し」であるせいで下げられる、という話は初めからしていません。
山姥切国広には「写しとは何か広まったか」という台詞がありますが、肝心の「写しとは何か」を自ら語ることはしません。何がどうやって広まることを期待しているのか分かりません。これは山姥切長義が「どこかの偽物くん」「似ている似ていない以前の問題」などと何か言いたいことを匂わせながら、はっきりと意図を説明しないことや、山姥切の名の由来を何も語らないことと相似になっているようにも思います。
山姥切国広は手紙で本科のことを「山姥を切った伝説を持つ刀、山姥切」と書いているので、山姥切の名の由来をある程度最初から知っていたと思われます(逆に言えば長義は号についてその程度の説明すらしていません)。だとすれば、本歌のほうは「写しとは」の情報を何かしら持っている可能性はあるのではないか? それが長義の手紙で触れられるのではないかと期待しています。
6-2. 未解決問題2 「偽物」評への疑問
※ここはお気持ち成分が強めの纏まりを欠く文章なので適当に読み飛ばしてください。
修行のところで色々考えはしましたが、そもそも「写しで伝説がオリジナルでないとなぜ『偽物』という侮りの対象になるのか」の問いへの解答に、実は自分で納得していません。
修行の項(2-3)では、「偽物」評があるという結果から過程を考えましたが、そもそもその結果、つまり「偽物」評からキャラを考えさせること自体にも不満があります(これはキャラを作った人への不満ですね)。
本歌で伝説がない名刀はいくらでもあるはずです。逸話がないことを気にする男士はいますが、逸話が乏しいことをダシに他の男士を侮る男士はいないはずです。侮った人間がいた、という話であれば、到底実話とは思えない荒唐無稽な逸話や、種々の架空の生き物を切った逸話にも「嘘だよね?」「なんだ偽物じゃん」という侮りを向ける人間は絶対にいます。
そもそも「本物じゃないよね」「嘘だよね」という視線を向けられるのは、逸話持ちの刀の宿命とすら思います。敢えて例は挙げませんが、「どう考えても現実に起こったことではない」逸話を持つ刀も珍しくありません。あるいは、「オリジナルの逸話」とされるものにも、元になった類似の話があるものもあるでしょう。
その中で、なぜ「写し」に関してだけがピックアップされ、「偽物」と殊更に取り沙汰されているのか? というところに、いまいち納得がいっていません。
刀剣乱舞世界には、男士が顕現できるかどうかの「逸話の正当性」の独自の基準のようなものがあり、「写し」はその正当性に関わる要素なのではないか、というような想像もしています。これに関しては、とうらぶ世界の「写し」についてのより詳しい情報が開示されない限り、納得できる気がしません。
6-3. 未解決問題3 霊剣『山姥切』とは結局何物なのか
山姥切国広は霊剣『山姥切』の写しです。しかしいざ実装された山姥切長義は自分のことを霊剣とは言わないし、霊力のれの字も口にしません。国広の手紙にも霊剣という言葉は出てきませんでした。霊剣『山姥切』、いったい何者なんでしょう?
(参考)
刀剣乱舞無双では、山姥切国広のキャラクター紹介は「霊剣『山姥切』を模して造られたとされる打刀」であり、とうらぶ公式サイトのキャラ設定文と同じです。しかし、小説版刀剣乱舞無双では、地の文で「"山姥切国広"は"山姥切長義"の写しとして鍛刀された」と記述されています。また長義は"霊刀・山姥切長義"という表記であり、「霊剣『山姥切』」とは異なる名称が使用されていました。何の意味もなく別の名称を出すとは考えにくいので、やはり霊剣『山姥切』は山姥切長義とは異なる存在のように思えます。
しかし同時に、無双の男士はかなり特殊な個体なのではないかとも思っています。無双本丸の男士が修行に行くことは、今後もおそらくありません。完全に想像ですが、「修行・極が存在しない」という条件下(現状、該当する派生作品は他に存在しない)でのみ許されている描写が無双にはあるような気がしています。無双の「本歌写しの関係性」は、はじめから原案ゲームとは決定的に異なっている可能性も否定できないと思います。
(余談)
ミュージカル「花影ゆれる砥水」では、カゲが一期一振に成り代わっていることについて、山姥切長義が「俺は偽物がさも本物のような顔をしてのうのうとすごしているのは大層気味が悪くてね。吐き気がする」と嫌悪感を露わにして言うシーンがあります。他の男士との会話の中で山姥切国広に言及された時とは、明らかに反応が異なります。長義にとっての「本物のような顔をする『偽物』」とは、一体何を指しているのでしょう?
6-4. 未解決問題4 宙に浮く「伯仲の出来」
山姥切長義は刀の話をしないので、刀帳にある「伯仲の出来」の部分が宙に浮いているように感じています。長義のキャラ設定は刀の説明の割合のほうが多く、「伯仲の出来」も刀の出来の話です。いくらとうらぶ世界とはいえ、これが「逸話の力が伯仲している」という意味ではさすがにないだろうと思います。
ここにも国広との対比が見えてきます。国広のキャラ設定は伝説の話が主体ですが、国広が拠り所にする「傑作」は刀の出来の話です。逆に長義は「伯仲の出来」という情報を持ってきていますが、刀の出来の話をしません。なんだか「ちぐはぐ」です。
また、回想141で後家兼光が山姥切長義の「刀」を褒めていますが、長義は刀工の話にずらして返事をしています。
今の時点では「刀」そのものの話をしない/できない理由があるのかもしれません。
7. 山姥切長義の修行と極の予想
というわけでやっと最後の章、山姥切長義の修行と極の予想です。
7-1. 修行予想
①修行は刀の話がメインになる
「写し」が悩みの根本のようにみえた山姥切国広が伝説を確かめに行き、「写し」について悩まなくなる。山姥切長義の修行はこれと対になるものになるのではないかと思います。
つまり、修行のメインは長義がこだわっているように見える号「山姥切」や伝説の話ではなく、刀の話になるでしょう。5-3で「名前」は手段で「本歌写しの関係」が目的なのではないかと書きましたが、長義自身もその「本歌写し」についてすべてを知っているわけではないと思います。写しを打った刀工や、依頼した元の主に会うかもしれません。その中で本歌写しの関係性を確認/再確認したり、実は知らなかった事実を知ったりするのかもしれません。それにより、現時点で「号へのこだわり」にみえるものは解消すると予想します。
②「高慢」の由来の分析
こちらは山姥切国広の修行が「オリジナルでないことがコンプレックス」の分解作業であったことに対応するのでは、という予想です。キャラ設定「高慢」「自分に自信があり」の部分の掘り下げが来ると思います。
私はこの「高慢」は長義自身の資質というよりは、「ふるまい」だと思っています。長義には「そのようにふるまわなければならない」という意識があるようにみえます。それがどこからくるのか、つまり「どんな物語が元になっているのか」が明らかになると予想します。
7-2. 極になって話すこと
①極になると「名前」ではなく「物」の話ができる
長義の刀とその写しの国広、ふたつの刀があったからふたつの山姥切が生まれた。つまり本来は物が主、名前が従であるはずです。山姥切国広【極】が回想57で言いたかった、もっと大事なこと、もこれではないかと思います。
今は「名前」を手段にしなければならなかったが、極同士になれば普通に「物」の話ができるようになるのではないでしょうか。
②銘と刀工と元の主と
突然ですが、「ない」ところには「ある」のが刀剣乱舞だと私は思っています。刀剣男士○○には××の要素はないらしい、と思っていても後になってひょっこり××の要素が出てくる可能性は充分にあります。それが半年後かもしれないし、10年後かもしれない。それが刀剣乱舞です。長義が極になれば、今はほとんど触れない「元の主」や「銘」や「写しを打った刀工」の話にゲームでも触れるのではないでしょうか。
(余談)
私は初期からの長谷部推しです。回想実装前の長谷部はあまりにも信長の話しかしなかったため、黒田家のことは「どうでもいいと思っている」「主として認めてない」「元の持ち主としてカウントしてない」などと、それはもう散々な言われようでした。そういうわけなので回想が実装された時は激震でしたし、それなりに荒れました。回想内容を嘆く人がいたことも、そこに便乗し「どこまでファンを裏切るのか!」などとゲームを叩くアンチがいたことも、今では良い思い出です。
8. おわりに
私は長らく山姥切国広のことがよく分かっていませんでした。修行の内容と極から逆算し、ようやく理解することができたような気がしています。なので山姥切長義のことを今どれだけ考えたとしても、結局は修行と極が出るまでは分からないのだと思っています。
そして長義の修行と極は、実装されたものがどんな内容であろうと荒れると思います。長谷部の時のような経験があるので、どうひっくり返るか分からないぞとも思っていますし、荒れるのも楽しみの一つ、くらいの心持ちで待っています。どんなものが来ようとも、こんな感じで楽しくこねくり回してやるつもりです。
というところでこのまとめを終わりたいと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
作成日:2024年11月24日
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