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第42話 決心すれば夢の方から近づいてきてくれるよ【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説

伊万里からぼくは有田まで歩いた。たぶん10km以上はあるだろう。バックパックとギターのハードケースを持ちながら歩くのはけっこうしんどい。

でも、ヒッチハイクがしやすい道まではやはり歩く必要がある。だから毎日10kmくらいは平均して歩いていたと思う。

「やっぱり有田焼というし、陶芸やりたいよね。」

ただその思いだけ持って歩いた。

陶芸がやれる場所ということは、そこに人がいて、何かしらお世話になれるだろうという期待も正直あるから、がんばって歩く力も湧いてくる。

有田の平日の昼間はひっそりしていて人影はない。ぼくは坂を上っていくと、体験ができる一件のお店を見つけた。

そこは「ろくろ座」という工房だった。

 「すいません。」

 工房に入ると2人の女性がこちらを向いた。1人はぼくと同じ年くらい。もう一人は少し上という感じか。

 「こんにちは。」
「あのお、体験で焼き物を作りたいんですけどできますか?」
「できますよ?なんかすごい格好してますね。」
「あ、旅をしてるんです。ヒッチハイクで。」
「え、すごいね。」
「すごーい!なになに?歌いながら?」
「はい。」
「どこから来たんですか?」
「東京からです。」
「東京からってどれくらいで来れるの?」
「えーと。直接こっちにむかってきたわけじゃなくて、まず太平洋側を北海道に向かい、北海道から日本海側をおりてきてここまで来ました。」
「えー!何日くらいかかって?」
「うーんと、今2か月くらいですね。」
「どういうところ泊まるんですか?」
「野宿なんですよ。」
「すごいね。本当にいるんだ。そういう人。」 

どうやら歓迎されたようだった。2人はいろいろ作業している最中のようだったが、快く受け入れてくれた。

同じ年っぽい人の方はやはり同じ年で紺野さん。もう一人は福岡さん。紺野さんは来年の3月に、地元福島に帰るという。そして福岡さんは京都が実家だそうだ。

 紺野さんは同じ年だからちょっと意識しちゃうよねえ。でもぼくは全然そういう対象ではないようだった。

 ものづくりの人ってそういう興味は置いておいて、生き方に注目するようなところあるし、そのさっぱり感がよかったり、逆にもどかしく感じる時もある。 

福岡さんとはその後も連絡が取れて、何回か手紙のやりとりをさせてもらったっけ。

 ぼくは荷物を降ろし、さっそくやらせてもらった。

「ろくろやったことある?」
「あります。好きなんですよね。」
「なんかセンスありそうだね。」
「いや、でも電動はやったことないんですよね。」
「じゃあ教えてあげるから一緒にやってみよう。」
「ありがとうございます。」

 旅のことなどいろいろしゃべりながら、福島さんは丁寧に教えてくれた。

「うん。やっぱりいい勘してるね。」
「そうですか?!ありがとうございます!」

 小学生のころから焼き物が好きだ。小学生の時も先生にほめられてうれしかったし、自信がついた。

 学校自体が芸術関係に力を入れているというのもあったから、ものづくりの芽をつぶされずに育ててもらったんだと思う。
小学生時代に身に着いた自信というのはその後の人生にとても大きな影響を及ぼす。

 ぼくは音楽をはじめ、焼き物だけでなく何でも作ることが好きだ。大学を卒業するとき、工芸関係の学校に入り直そうと思っていたほどだ。

 ぼくは進路に迷い、高校時代の図工の先生に相談に行った。そして、

 「おまえは腹を据えてない。おれのところに来たらおれの話になる。違う業界の人のところに行けばその業界の話になる。決めるのはお前だ。」

 と言われて金づちで頭を叩かれたようになった。

 ぼくは自分が得意なことをしたくて工芸の道を考えてもいたけど、

「いや、そういう考えじゃおれは決められない。おれが人生から奪われたくないものは何だ?」

と自分に問い詰めてみた。

 工芸の道は消えた。それは楽しいけど無くても生きていけると思ったからだ。

 残ったのは、歌だけだった。

 「歌は今のおれから奪われたくない。これだけはやめろと言われたら死んだ方がましだ。」

 そう思った。怖かった。ありえなかった。その答えに行きつくなんて、全く思いもよらなかった。

 ぼくはそれまで自分の心に蓋をしていたのだ。歌なんかで道を作ろうなんてできるわけがないと。

 でも、自分の本当にやりたいことを奪われるくらいなら死んだ方がましだと思った。

 ただ、その時はまだ自分の作品さえなかった。ギターはそれなりに弾けたし、友達と一緒にミスチルを歌ったりしていたけど、自分の作品で、人に聴かせるために作ったものはなかった。

 それなのに「歌をやる」と決心したのだから、とんでもない無謀な青二才だった。

 ぼくは勇気をふりしぼり、親と対決し、歌を作り始めた。

 決心した日、ぼくは泣きながら歌を作った。そしてこんな風に感じた。

 「神様が大宇宙でぼくを待っていてくれてる。」

 不思議だが、「勇気を出せば君を宇宙が味方してくれるよ」という声が聞こえた気がしたのだ。

 手を広げて飛び込むぼくを待っていてくれているように感じたのだ。

 そして今思えば、実際そうだったと思う。

 決心は、決心こそが、覚悟が人を前へ進め、不思議といろいろなところで手がさしのべられるのだ。

 当時のメモにこんな一言が書いてある。

 「捨て身のスピリットじゃなきゃ成し遂げられないことがある」

 そしてぼくはアジアを歌いながら放浪し、今日本二周の旅に出た。

さて、ぼくは有田の土でお皿を作らせてもらった。それとたばこを真ん中にさして消せる灰皿を作り、東京にいる彼女にプレゼントしようと思った。

 我ながらなかなかの作品だった。そうやってすぐにうぬぼれるところがぼくのウィークポイントである。

 だからこそもの作りの道を選ばなかったとも言えるのだ。得意なことをしたら、きっとすぐに慢心してしまうのだから。

 歌はそんな余裕などどこにもなかった。まずいい歌が書けるということなど誰も保証できない。そして人前で歌うということ自体がぼくは苦痛でしかたなかったのだし。

 あえて大変な道を選んだとも言える。じゃあなぜ歌を選んだのか?

 それは、歌がぼくの人生を救ってくれたからだ。

 だから当時のぼくの歌は苦しみの歌だったと思う。ストイック過ぎたと思う。無理に無理をしてステージに立っていた。ただ救いに応えるために。

 福岡さんたちはぼくの作品が焼きあがった後、東京に送るための手配をしてくれた。到着は数か月後になる。

お店を片付けるため、しばらく時間があったので、ぼくは近所を散歩することにした。

 のんびりとした集落。人通りは全くない。

 ぼくは広島あたりから散歩中に家の屋根をよく観るようになっていた。島根で出会った栗田さんが瓦について話してくれたことが影響していた。

 そしてそのあと入った広島の親父の実家は築200年だったから、その屋根の瓦にある家紋も気になった。

 日本家屋の屋根を見ると、家紋が入っていることもあるし、そこに恵比須様がいることもある。

 そういう発見が楽しかった。それとともに庭先にある植木にも目が行ったりして、これまでの人生でまったくアンテナをはっていなかったことに興味が湧いたりしたのも、この旅ならではの醍醐味だった。

 途中、焼き物に使うために削られた小さな山もあった。そういう光景を見ると複雑な気持ちになる。

 ぼくはわりと自然が好きな方だ。だから自然の形そのものの山が削られるという光景はけっこう胸が痛むのだ。

 でも、有田はこの焼き物で成り立っているし、伝統だし、そもそもこうしたことははるか昔から行われていたことでもあるだろう。

 まだ有田は利益追求、大量生産に舵を振り切った感じではなく、つつましい生活を維持するための土を山から頂戴させていただいているという謙虚な営みなのだと思った。

 ぼくは散歩から帰ると工房も店じまいが出来ていた。

 ぼくは何曲か歌を披露し、次の目的地長崎へ福岡さんに送ってもらえることになった。

 「ろくろ座」は今でも有田にある。当然、福岡さんも紺野さんももういないが。

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