2021年以降もスポーツ界が盛り上がる未来へ。元総合格闘家・大山峻護さん講演会&トークセッション〜スポーツの活かし方〜
2020年1月12日、埼玉県久喜市中央公民館にて、元総合格闘家・大山峻護さんをゲストに招いた講演会&トークセッションが開催された。主催したのは、久喜市を中心に、地域社会の中でスポーツコミュニティを活かそうと活動する「DOCS」。今回のイベントは、台風19号の影響で中止となった第2回のイベントをスライドする形で、第3回目のイベントとして開催された。
大山さんは、PRIDEやK-1HERO’Sなどのメジャー団体で活躍し、ピーター・アーツやミルコ・クロコップといった世界の強豪たちと拳を交えてきた元プロの総合格闘家。2014年を最後に引退し、現在はフィットネスと格闘技を融合したトレーニングプログラム『ファイトネス』を数多くの企業に提供。運動を通じて健康の維持だけではなく、心と身体を満たし、それぞれの人生に充実感をもたらしている。
そんな大山さんが登壇する第一部の講演会では、自身の格闘技人生を振り返りながら、度重なる大怪我に苦しみ、幾多の挫折を味わいながらもリングに立ち続けた原動力について講演。未来を脳内で具体的に描き、夢を現実に導く「想いを形にする方法」を伝授した。
続く第二部のトークセッションでは、スポーツ精神科医の岡本浩之さん、スポーツライターの瀬川泰祐さんを交え、「スポーツの活かし方」をテーマにトークを展開。スポーツが社会に対してどう生かされているのか、について話し合い、「スポーツ×社会」の未来の方向性を示した。今回は、2部にわたって行われた当イベントの模様をお伝えする。
大山峻護さんの講演は幼少時代の憧れの話からスタート!
PRIDEやK-1HERO’Sなどの第一線で戦い続け、その真っ向から立ち向かうファイトスタイルで多くのファンに感動を与えてきた大山さん。
だが、第一部の講演会に登壇して開口一番に飛び出したのは、「僕は子供の頃から劣等感の塊で、自分に自信がなく、うまくいかないことの方が多かった」という思いかげない言葉だった。
大山さんは幼少期、ウルトラマンに憧れ、強さを手に入れるべく柔道を始めた。頭の中で「ウルトラマンのようなヒーローになって、怪獣を倒す」ことを頭に思い描き、日々練習に明け暮れた。
誰よりも汗を流していたにも関わらず、体が小さく、周りと比べて才能に恵まれなかった大山さんは、柔道教室に行くたびに投げられ、いつも泣きながら帰っていたという。それでも「ウルトラマンのようになりたい」という強い想いが彼を突き動かし、柔道教室に足を運び続けた。
受け身のうまさで柔道の名門・講堂学舎へ
そして中学2年生のとき、新たな“ヒーロー”に出会う。
「バルセロナ五輪の柔道71キロ級金メダリスト・古賀稔彦さんに出会って、『こんな人になりたい』と思ったんです。古賀さんのように大舞台で大きな選手を投げて、会場からスポットライトを浴びる。そんな自分の姿を想像するだけで、めちゃくちゃワクワクしましたね」
いても立ってもいられなくなった大山さんは、古賀氏や吉田秀彦氏らを輩出した東京の柔道塾『講道学舎』の門を叩く。全国大会出場の経験のない“無名の男”が、「柔道で生きていく」と覚悟を決めた若き精鋭が集まる名門に足を踏み入れた。
「両親を説得して、なんとか入門テストを受けさせてもらえました。テストでは塾生相手に全敗という結果に終わったんですけど、塾の理事長から『お前は受身がうまいから』という理由で合格にさせていただいて(笑)。晴れて講道学舎での柔道生活がスタートしたんです。しかし、フタを開けてみれば誰にも勝てず、毎日けちょんけちょんに投げられていました。挙げ句の果てには『お前、センスない』『柔道辞めた方がいいよ』と言われ放題。後輩にもバカにされていましたね」
地元での再起、そして檜舞台へ
その後、高校時代に講道学舎を離れ、地元栃木県の作新学院へ転校。高校卒業後は、国際武道大学に進学した。当時、同大の柔道部には約300人の部員が在籍しており、その中で頭一つ抜け出すために、肉を食べない玄米菜食での体質改善にチャレンジするなど試行錯誤を繰り返したという。
それでも結果が出ず、もがき苦しんでいた大山さん。そんな中で迎えた大学4年時、当時は誰も身につけていなかった、“ある必殺技”を習得する。
「相手の腕に飛びついて腕を決める大技、“飛びつき腕ひしぎ十字固め”を習得しまして。結果を出すにはこれしかない、と思った僕は、この技一本で勝負していくことを決めました。そうしたら、全国大会の決勝まで勝ち進むことができたんです」
だが、決勝戦の相手は、くしくも講道学舎時代の同期で、のちに2000年シドニー五輪柔道男子81kg級で金メダルを獲得する、瀧本誠だった。
「彼は講道学舎の中でもぶっちぎりのエリートで、ジェラシーの対象でした。瀧本が神様だったら、僕は虫けらのような存在で(笑)。それくらいの実力差がありましたね。普通に戦ったら10秒と持たないと思います。でも、“効果”のポイント1つで負けはしましたが、決勝では時間いっぱいまで戦うことができました。というのも、相手の道着を掴んだ瞬間に中学時代の記憶がブワーッと蘇ってきて、瀧本が繰り出す技が全てわかり、対応することができたんです。不思議な体験ではありましたが、これが僕の初めての成功体験でしたね」
「誰かのために」の原点
大学卒業後は、実業団の柔道選手として京葉ガスに所属することを決めた大山さん。2年目の1998年には、全日本実業柔道個人選手権大会・男子81kg級で優勝を果たし、初の全国制覇の栄冠を手にした。
国際武道大時代の全国2位という結果が自信となり、優勝に繋がったのは間違いない。だがそれ以上に、この勝利の裏側には、大山さんの祖父の存在が大きく影響していた。
「実は、全日本の大会前に大好きなお祖父ちゃんが倒れてしまって…。だから僕は『絶対に優勝するから、元気でいてね』と約束したんです。すると、お祖父ちゃんは『そうか』と笑ってくれました。大会の1ヶ月前に亡くなってしまいましたが、天国で見ているお祖父ちゃんが喜んでくれると信じて、全日本は死にものぐるいで戦いました。そして全5試合、全て判定勝ちをして優勝することができたんです。その時に思ったのが、自分の想いが形になった時には、喜んでくれる人がいる、ということ。自分さえよければいい、じゃなくて、喜んでくれる人のために、という気持ちが大きな力を与えてくれる。それを教えれてくれたお祖父ちゃんには、本当に感謝しています」
それ以降、大山さんのファイトスタイルは大きく変化を遂げていく。自分のためではなく「誰かのために」戦う、優しく、強い格闘家・大山峻護へと。
東京ドームの最上階からみた格闘技史に残る一戦をきっかけにプロの世界へ
そして2000年、自身のとっての第3のヒーローと出会う。日本総合格闘技界のレジェンド・桜庭和志だ。
同年5月に開催された『PRIDE GP 2000』で、桜庭は当時の格闘技界で最強と謳われていた“グレイシー一族”のホイス・グレイシーと対戦。試合は1時間を超す長丁場となったが、桜庭が90分に及ぶ死闘を制して勝利。この世紀の一戦を目にした大山さんは、大きな衝撃を受けた。
「もう、体が震えるほど感動しました。その瞬間に思いましたね、『桜庭さんみたいになりたい』と。それと同時に、あの舞台に立って、周りのみんなが喜んできる姿も頭の中で描きました。それで柔道家から、プロの総合格闘家への転身を決断したんです」
その後、同年9月に行われた全日本アマチュア修斗選手権大会で優勝するなど実績を重ね、2001年2月にはアメリカの総合格闘技大会『King of the Cage』でプロデビュー。「大山くんの右のパンチはすごい」というコーチの助言をヒントに勝利へのビジョンを思い描き、実際に右フックで17秒KO勝ち。思いを形にして、デビュー戦を初勝利で飾った。
格上の挑み続け、そして負け続けた
しかし、プロ入り後のキャリアは度重なる怪我との戦いだった。デビューイヤーの2001年、総合格闘家としての3戦目を終えた後には右目の網膜剥離を発症。長期欠場を余儀なくされた。
復帰戦となった2002年6月の『PRIDE.21』では、ヘンゾ・グレイシーと対戦し、見事に判定勝ちを収めるも、ファンやマスコミから「つまらない試合」「あんな勝ち方で喜んでいる大山は許せない」と大バッシング。この誹謗中傷が原因となり、うつ気味にもなったという。
そんな最中、敗北したヘンゾの弟であるハイアン・グレイシーが「許せない」と怒り狂い、同年の9月に対戦が決定。大山さんが「向き合った瞬間に恐怖を覚えた」というほど怒りに満ちた表情と迫力に圧倒され、一本負けを喫した。さらに右腕肘関節脱臼骨折で再び戦線離脱。2003年3月の復帰戦直後にも左目の網膜剥離を発症し、またしても長期欠場となった。
2004年には1年4か月ぶりにリングに復帰したが、対戦したクロアチアの最強格闘家ミルコ・クロコップの左アッパーでKO負け。大山さんは「犯罪者のような気持ちになりながら、名古屋から東京に帰った」と精神的にも追い込まれ、この試合を最後にPRIDEを離れることを決断した。
描き続けることで実現した一戦
心身ともに相当なダメージを受けていた大山さんは、2005年に数多くのアスリートや経営者のメンタルトレーナーを務めている山家正尚さんを専属のコーチとしてつけた。そして、山家さんは大山さんの様子を見て以下の質問を投げかける。
「思いが形になって、一番ワクワクすることはなんですか?」
この問いに対して、大山さんは「ピーターアーツと戦って勝つ」と回答。「わかりました。それを形にしましょう」。その瞬間、消えかけていた闘志に再び火がつき、“伝説のK-1戦士”との一戦に向けた練習の日々がスタートした。
とはいえ、試合が実現する保証はどこにもない。ピーターアーツほどのスーパースターであれば、ある程度名を馳せている選手か、その当時に白星を積み重ねている選手でなければマッチメイクされるのは難しいだろう。それでも大山さんは、大晦日に行われる『K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!』に照準を絞り、半年前からトレーニングを積んだ。
時が経ち、大会1ヶ月前にはピーターアーツの大晦日参戦が発表された。対戦相手は決まっていなかったため、「もしかしたら自分が…」と希望を抱き、沖縄合宿を実施。最後の追い込みをかけた。
心身ともに相当なダメージを受けていた大山さんは、2005年に数多くのアスリートや経営者のメンタルトレーナーを務めている山家正尚さんを専属のコーチとしてつけた。そして、山家さんは大山さんの様子を見て以下の質問を投げかける。
「思いが形になって、一番ワクワクすることはなんですか?」
この問いに対して、大山さんは「ピーターアーツと戦って勝つ」と回答。「わかりました。それを形にしましょう」。その瞬間、消えかけていた闘志に再び火がつき、“伝説のK-1戦士”との一戦に向けた練習の日々がスタートした。
とはいえ、試合が実現する保証はどこにもない。ピーターアーツほどのスーパースターであれば、ある程度名を馳せている選手か、その当時に白星を積み重ねている選手でなければマッチメイクされるのは難しいだろう。それでも大山さんは、大晦日に行われる『K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!』に照準を絞り、半年前からトレーニングを積んだ。
時が経ち、大会1ヶ月前にはピーターアーツの大晦日参戦が発表された。対戦相手は決まっていなかったため、「もしかしたら自分が…」と希望を抱き、沖縄合宿を実施。最後の追い込みをかけた。
そしてある時、大山さんの携帯電話が鳴った。相手はなんと、大晦日の試合のマッチメイカーからだった。
「驚きました。どうやら、ピーターアーツと戦う予定だった選手が、なんらかの理由で欠場することになったようで。それで準備ができている選手を探しているところに、僕が合宿をしているという情報が入り、連絡をくれたそうなんです。『大山くん準備できてるか?』と。僕はもう嬉しくて『半年前からできてます!』と即答しましたよ(笑)」
半年間イメージし続けた想いが、形になった。現実的に考えれば、ほぼ決まるはずのないマッチメイクであったことは間違いない。だが、周りからどれだけ「ありえない」「無理だ」と否定されようとも、大山さんは大晦日の舞台で戦う自分を想像し、そこに向かってひたすら一直線に突き進んだ。
「何も決まっていなくても、僕は不安に思うことなく、ずっとワクワクしながら準備していましたよ。試合開始早々、回し蹴りをしてから得意の寝技に引き込むことはもちろん、勝ってハグをするスタッフの順番まで想像していましたから(笑)。実際は、ピーターアーツがいないところに回し蹴りをしてしまって焦りましたが(笑)、それ以降はイメージ通りになってよかったですね」
大きな壁を乗り越えるために必要な「ある力」
こう話すように、あの伝説のファイターを相手に開始30秒でKO勝ちした大山さん。それまで数々の怪我や挫折を味わいながらも、それを乗り越え、多くの人に勇気と感動を与えるヒーローのような存在となった。
その要因について、大山さんは「“勘違いする力”があったからこそ」だと、力強く話す。
「僕は昔から格闘技センスがある方ではなかったですし、喘息持ちで体も弱く、気持ちも強くはなかった。それでもここまで戦い続けてこれたのは、勘違いする力がすごかったからです。要するに、“未来を脳内で具体的に想い描く能力”のことですね。実際に叶える力がないとしても、『絶対にできる』と信じながらやり続ける。加えて、それを叶えたことによって誰かが喜ぶことも想像すると、大きなモチベーションとなり、力が溢れてくる。この“勘違い力”が、僕の一番の強みなんです」
実際にやり遂げてはいなくても、頭の中でイメージすることで、それが成功体験となって記憶に刻まれる。よって自信にも繋がり、不安で動かなかった足が自然と前に歩みを進めていく。これを繰り返し行ってきたからこそ、大山さんはどんな大きな壁だろうと乗り越え続けてこれたのだ。
「ワクワク」を大切にしよう!
大山さんは現在、格闘技とフィットネスを融合したトレーニングプログラム『ファイトネス』を100社以上の企業に提供。健康な体づくり、健全なメンタリティを育むサポートを行っている。格闘技で企業研修を行うという類例を見ない事業内容に否定的な意見は多かったが、自らが描く夢を信じ、歩みを止めることはなかった。現役を退いた今でも、“勘違いをする力”は衰えていない。
「僕のフィットネスで、多くの企業の方々が笑顔になっている。それをずっと頭の中で描き続けているんです」
このプログラムの発展により、今後の格闘家たちにとって、セカンドキャリアの選択肢の一つにもなる。それも見据えながら、大山さんは新たな未来に向かって突き進んでいく。
最後に、講演会に来場した観客に向けてメッセージを送った。
「僕が伝えたいのは、“ワクワクしながら喜びを力に変えよう!”ということ。頭の中で、夢や想いが形になることで、どれだけの人たちが喜んでくれているのか。そこまでイメージして、描いてみてください。一人ひとりの笑顔を想像するだけで、ワクワクしてきませんか? その規模が大きくなればなるほど、目には見えない大きな力が生まれてくる。僕はそう信じています。自分さえよければいい、という思いでは予想以上の力を発揮することはできません。何のためにやるのか。それは絶対に、喜んでくれる人のためです。その人たちのために何かを成し遂げる、それが夢を叶えるということだと、僕は思っています」
第二部は、スポーツ界で活躍する3名のトークセッションテーマは「スポーツの活かし方」
続く第二部からは、大山さんに加えてスポーツ精神科医の岡本浩之さん、ファシリテーションとしてスポーツライターの瀬川泰祐さんも登壇し、3人でトークが展開されていく。テーマは社会における「スポーツの活かし方」についてだ。
本来、スポーツを通して経験してきた苦しさや楽しさ、そして夢中になって努力を積み重ねてきた数々の経験は、引退後の人生や社会においても活かすことができる。しかし、結果的にこれまで活かしきれていない、というのが日本社会の現実だ。その中で、大山さんと岡本さんは、自身の事業にスポーツを組み込んでいる。
大山さんは前述の通り、総合格闘家としての経験をもとに格闘技とフィットネスを事業に。
一方の岡本さんは、学生時代から度重なるうつ病に苦しみながらも、マラソンを取り入れながら徐々に克服していった体験を活かして、自身が院長を務める精神科クリニックにランニングやヨガを導入。体を動かすことで、患者の精神面での回復を促している。
実際に事業にスポーツを導入することについて、岡本さんは「体を動かすことで、患者さんたちの表情がすごくよくなるんです」と話し、続けて「2018年11月からランニングとヨガの教室を取り入れたのですが、やはり最初は患者さんたちも戸惑っていました。ですが、私も一緒に参加することで、安心して体験していただけるようになりました。それによって、自分の身体、そして心の変化を実感し、仕事に復帰する方も出てきたんです」と精神疾患の治療や予防には運動が効果的であることを説明した。
ファイトネスの事業を展開する大山さんは「現代の会社員は、ストレスの蓄積よりも、同僚とのコミュニケーション不足によって離職するケースが多い。そこを補い、高めていくにはスポーツがうってつけだと思うんです。今はSNSやLINEのやり取りでコミュニケーションが成立していますが、やはり直接会って、五感で感じ合い、言葉を交わしていく。それを一番できるのが、スポーツなんです。だからファイトネスは、社員同士のコミュニケーションを活性化していく上でも大きな役割を担っているんです」と社会におけるスポーツ導入の重要性について語った。
瀬川さんは、スポーツを「する・見る・支える」といった競技の多様な形の中で、2020年は「支える」ことが特に重要なテーマになると予想。それについて岡本さんは「自分は頑張ることができている、ということを評価してくれる人の存在はすごく大きい。スポーツは結果が全ての世界かもしれませんが、その過程では努力している部分がたくさんあります。だけど努力している本人は、そこに気づけないことが多い。ですからスポーツにしても仕事にしても、診断においても結果だけじゃなく、その過程を評価してあげられる存在になっていきたい」と自身の精神科医としての方向性を語った。
続いて大山さんは「僕は現役時代からずっと周りに支えられてきました。だから支える人の重要性というのはすごく感じていて。というのも、サポートの仕方一つで選手は大きく変わってきます。例えば、選手に対して『こんな試合してんじゃねえよ』という発言は、応援ではなく罵声となり、支えるどころか選手の心が折れる危険性がある。指導者や親御さんもそうですが、自身の一つの行動・発言は、本当に選手や子供を支えていることに繋がっているのか。そこを見極めることが非常に大事になってくる」と支える側のあり方を指摘した。
さらに今回のイベントで総合司会を務め、新宿・池袋・新橋の各駅でサラリーマンを応援するチアリーダーとしての活動『全日本女子チア部☆』の2代目部長でもあるフリーアナウンサーの朝妻久実さんは、“人を支える”ことについて強い想いを口にする。
「私自身、これまでの人生で数多くの挫折を味わってきました。その中で出会ったのが、勝手にチアダンスでエールを送る“朝チア”。はじめは『なんじゃこりゃ!?』と驚きましたが、活動をしていくに連れて、サラリーマンの方々から『ありがとね』と声をかけていただく機会が増えていきました。そのとき、『応援って、知らない同士の中にも、こんなにも心と心のコミュニケーションが生まれるんだな』と感じて。応援のパワーの大きさを実感したんです。エールを送る側も、逆に元気がもらえたりして。だからオリンピックイヤーの今年は、さらに多くの人を巻き込んで、応援を通じてたくさんの人の力になりたいと思います」
予定されていた2時間はあっという間に過ぎ、最後は当イベントの総括で締めくくりとなる。
主催者である瀬川さんはここまでの3人の話を踏まえ、「2020年は、日本の大半の人口の方々が何かしらの形でスポーツに関わることになる。そこで大事になるのが、それぞれがスポーツを通じて得たことを、来年以降、どのように社会に対して還元していけるか」と説明し、「2021年からはスポーツに対する国からの支援金は早々に減っていくと言われています。そういう意味でも、東京五輪・パラリンピック以降はスポーツの真価が問われることになる。その時に、大山さん、岡本さん、朝妻さんのような活動は、スポーツ界を盛り上げていく上で大きなカギを握ることになると思うんです。僕自身もスポーツライターとして、スポーツの価値というものを発信してくので、僕らの今後の活動にぜひ注目していただきたいです」と展望を話すと、会場からは大きな拍手が送られた。
取材・文:佐藤主祥 / 写真:佐藤主祥・NATSUMI
※この記事は、「DOCS」のホームページに掲載されたものです。