努力の話
自己表現のために始めたnoteだが、前回はほぼ曲紹介みたいなもので終わってしまった。ちゃんと自分の中にあるものに向き合いたいと思ったため、今回は自分のことを見つめ直してみようと思う。
私は努力が苦手だ。一つの目標に向かって全力投球、というのが昔から全くできない。好きなことだとしても脇目もふらずにやる、なんてことはせず、ちょいちょい他のことをはさみながらやる。元来飽き性であるとここまでの人生でわかっている(noteも4回投稿できていること自体かなり凄い)ので、基本物事に対して浅く、広く、のスタンスを取っている。何事も深入りせず、趣味の範疇にとどめてしまう。
人は自分にないものを持つ人に憧れる、と言う。私も例に漏れず、一つのことに本気で打ち込んでいる人に憧れている。私は10年以上ピアノを弾いているが、コンクールに出ても良い賞を取ったり、そうでなくてもおっ、となる演奏をしたりするのは相当の努力をしている人であって、自分は良い賞も取れず、凡庸で粗の多い演奏をしてしまう。モーツァルトなのにころころした音が出せない、ベートーヴェンなのに重低音をかせられない、ショパンなのに歌えない自分の演奏はどうしようもないなと思いながら、自分と同世代の人間が「理想的な」演奏をしているとそれができない自分が悔しいし、演奏者に嫉妬をするし、大した努力もしないくせにそういう感情を抱いてしまう自分が嫌になる。でも「私はプロになるわけでもないし、」と自分の中で折り合いをつけることは妙に上手いので、そうやって諦めて逃げてしまう。自分が情けない。
大学受験の時はそれなりに努力はした。当時の自分の実力ではぎりぎり届くかどうかわからないところに出願したため、なんとか現役で受かってやりたいと思った私は数ヶ月間頑張って勉強した。その努力が実ったのか、志望校の志望学部に現役で合格することができた。しかし「努力」とはいっても実情は学校や塾の先生方におんぶにだっこ、という感じで、自主的に勉強したわけではなく、それまでの自分と比べれば多少努力しているな、という程度であった。大学の友人に受験生時代のことを聞くと、彼らは過去問を何周も繰り返し、一つ一つの模試に真剣に向き合っていた。それに比べると自分はなんと努力していなかったことか。たった数ヶ月受験生っぽいことをしたくらいで努力したとは、なんともおこがましい。自分でも全力を出し切ったと思えていないのに天狗になっていた私の姿は友人たちの目にどのように映っていたのだろう。そして大学に入った今も自分の精神の幼さ、継続力のなさがどんどん露見している。研究者になりたい、とは思っていたもののそれに向かって努力するわけでもなく、そこそこの作業量で単位だけ回収する日々が続いている。
しかしこれが自分だ、受け入れて生きていくしかない、と最近は思っている。色々なことをちょっとずつかじっている自分は、よく言えば博学多才。諦めることが上手い自分は、よく言えば計算高い。精神が幼い自分は、よく言えばストレスを感じにくい。言い方を変えれば大分ましに思えてくるものなんだろう。そんな言葉で自分を騙しながら、私は今日も怠惰に一日を終える。