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小説 向日葵と観覧車

初期作品です。自分自身の記録の為にここに掲載します。



なんだか夜更かしをした朝の様に、頭がぼうっとする。
「あれ? 私……どうして駅に?」
徐々に意識がはっきりとしてくると、本田夢亜は駅前に立ち尽くしていた。この大きな駅はよく知っている。いつも中学校に向かう為によく通る、見慣れた場所だった。
 自分の姿を見てみると、学校の制服を着ていた。少し前に夏服に変わったばかりの白シャツとスカート。クラスメート達はようやく半袖になれると喜んでいた気がする。

学校の制服は着ていると安心する。この世の中に沢山いる、女子高生という存在に溶け込めるから。
……今日は何曜日で、何時なのだろう?

携帯電話で時間を確認しようとした所、自分が鞄を持っていない事に気が付いた。
――何かおかしい。学校に行く時は必ずいつも持ち歩いてるはずだ。

最初は単純に鞄を忘れたのかと思った。しかし記憶までもが曖昧な事を考えるともう一つの予想があった。もしかして誘拐、乱暴されたのでは……?
 急いで体をあちこち触ってみたが、 どこにもおかしな所は無かった。そのことにはひとまずホッとしたが、やはり何も持たずに駅まで来るのは変だ。
急に不安がどっと押し寄せてきた。
 よく知っている町のはずなのに、迷子になった気分だった。

「……一人は慣れていたはずなのにな」
つい自虐的に一人言を言ってしまう。
おぼつかない足取りで施設に帰ろうと歩き出すと、目の前の横断歩道が目に入った。

 どうやら少し前に人身事故が起きたらしく、あたりには車のガラスの破片が散り、道の真ん中にあるポールが酷く歪んでいた。地面には血痕が色濃く残っており、その赤はますます現実味を失くしていく。
道の端に花束がぽつんと置いてあることに気付いた。

 その時、後ろから声が聞こえてきた。二人の中年のサラリーマンが血痕と花束を見ながら苦い顔で口を開いた。
「ここの事故、トラックが信号を無視して突っ込んできたらしい。 敷かれた女の子はまだ高校生だったそうだ」
「運転手が違法ドラッグでラリってたのが原因らしいな。可哀想になぁ、人生これからだってのに」

その花束を見たとき、夜が明けるように闇の中の記憶が照らし出された。
あの日、全てが嫌になり、門限ギリギリまで帰りたく無かった。
 歩道の信号は、確かに青色だったはずだ。
 だけど次の瞬間、夢亜の瞳にはトラックのライトが映り込んでいた。

「そっか……私、死んじゃったんだ」
  夢亜は呆然としては立ち尽くした。後ろから中年のサラリーマン進んできた。 ぶつかりそうになった時、そのまま何事も無かったように夢亜の体をすり抜けていく。やっぱり私は死んだんだ。今の私はきっと幽霊なのだろう。
「あぁ、私、本当に最低な人生だったな……」
 そうぽつりと呟いた。
 でもこれで、私の”最低”な人生が終わる。
これで良かったじゃないか。 そう思える事が、夢亜には出来た。

「確かにあなたは本当に不幸。神様がいるなら、きっと酷い人だよね」
夢亜の言葉に応えるように、後ろから声が聞こえた。
「あたしとおんなじだ」
どこか楽観的に聞こえる声だった。驚いて振り返ると金髪の少女が微笑んでいた。
白いワンピースを着た彼女には小さな白い翼が生えていた。
夢亜には彼女の存在がすぐに予想出来た。
もし自分が本当に死んでしまい、幽霊となったのなら、その次に現れる存在は死神か天使だろう。
 彼女はきっと、後者の方だ。
「はじめまして! あたしはニーナ。 貴方の担当の天使になったの。よろしくね!」
 そう話したニーナと名乗る少女はニコニコと微笑むのだった。

 ニーナに案内された場所は、都市の中心にある高層ビルの屋上だった。
ビルは駅からはそれなりに距離がある場所であったが、ここまで来るのは一瞬の出来事だった。
ここに来る前、ニーナは 「ちょっと待っててね」そう言うと目を閉じ、指を組み、祈る様な姿勢でうつむいた。。その瞬間ニーナの頭上に光の輪が現れ、輪が強い光を放ったかと思うと、いつの間にか、この場所に移動していたのだった。
「すごい……」夢亜が驚いていると、ニーナは少し得意気に笑う
「すごいでしょ?あたしはなんたって天使だからね!」 
 夢亜は空を見上げた。澄んだ青、白く大きな入道雲、太陽の光が眩しい。
 その景色は、夏を象徴していた。そんな景色を前にしても、暑さを感じない事に気づいた。それは自分が死者である事がまた一つ変わった瞬間だった。
もうあの鬱陶しい気温を感じられないのは、少しだけ寂しく思えた。ニーナの方へ視線を戻す。彼女は見た目こそ幼いが、青く澄んだ瞳、白い肌、美しい金色の髪、整った顔。そして背中には純白の翼。どこを見ても異彩を放つくらい美しく、夢亜はすんなりと天使だと信じる事が出来た。
彼女の存在が、自分が死んだ事より現実味が沸かなかった。

「……どうしてここに連れてきたの?」
「ここお気に入りの場所なんだ。眺めがすごくいいの」
ニーナは手すりから体を少し乗り出し、歌いながら地上を眺めている。その歌は、夢亜の知らない言葉だった。だけど多分、人間の言葉だ。そう直感で思った。
ずいぶんとのん気な物だと思った。
夢亜も同じ様に地上を見下ろしてみたが、テレビの砂嵐の様に車や人がごちゃごちゃしていて、とても良い景色とは思えなかった。
 やがてニーナは歌い終わると、こちらを向き、穏やかな口調で話しだした。
「さてと、じゃあそろそろ本題に入ろっか。 あなた、本田夢亜は7月18日午後6時20分に横断歩道を渡ろうとしていた所、信号を無視して走ってきたトラックに撥ねられた。すぐに病院に運ばれ、治療受けたけど、残念ながらあなたは亡くなった」「ええ、事故に会う直前までは覚えている」
あの日は学校帰りだった。真っ直ぐ施設に帰るのがなんとなく嫌で、門限ギリギリまで
駅のまわりをぶらついていた。門限を破ると後が大変だし、仕方ないから帰ろうと思っていた所、あのトラックが突っ込んで来たのだ。
「つまり、今のあなたは魂。そんなあなたを天国に連れて行くのがあたし達天使の役目」
「天国に行くと私はどうなるの?」
「あなたの魂は浄化されて現世の記憶を完全に忘れ、そして新しく生まれ変わる、次に記憶があるときはあなたはもう、本田夢亜じゃない、全くの別人」
「そう。それなら天国でもどこでも、早く連れてって欲しいものね」
正直生まれ変わりたいとは全く思わないが、”本田夢亜”が消えるなら何でもいい。
ニーナはキョトンとした顔で訪ねる。
「あなたは驚かないんだね、大体の人間はあたし達が存在すること、自分がもう死んでいる事に多少は驚くんだけどな」
「まあ、今までも死んでるみたいだったし、死にたいとも思ってたから、丁度良かったわ。違いは事故か自殺ってだけね」
 強がりではない。天使が本当に存在するとは思ってはいなかったが。
夢亜は元々死にたかった。

 今は驚くどころか、安心して落ち着いている。
 もうあの残酷な世界を生きなくてもいいと思ったのだ。
 こう言ってしまうと、ニーナは怒るだろうか? しかし彼女は夢亜を責めず、 「あたしはあなた達の生活が羨ましいけどな」と静かに笑うのだった。

これには夢亜も拍子抜けした、さっきからこの天使はずっとふわふわとした調子だ。
これでは天使というよりは、日向ぼっこをしている猫と会話している様だった。
「貴方が天使で私が死んだのはもう分かったから、早く天国に連れていってよ」
 あまりにのんびりとしているので、口調に苛立ちが出てしまう。
「うん、あなたはあたしが責任もって連れて行く。でもその前に――」
ニーナはまっすぐに夢亜を見つめた。
彼女の青い瞳を見つめていると、なんだか心を見透かされているようで落ち着かない。
「夢亜、あなたはやり残した事はある?」
「やり残した事?」
ニーナは嬉しそうな顔で話し出す。
「うん! 例えば大切な人に別れの挨拶だったり、何か自分が生きた証を残したり、好きな人に愛の告白だったり、そんな、どうしても天国に行く前にやりたい事をあたしが手伝うの! 条件がつくけど、少し間、現世に生き返る事も出来るんだよ」
「私は生き返りたくなんてない」夢亜は淡々とした口調で言い放った。
冗談じゃない。これ以上こんな世界にはいたくない。
「会いたい人なんて、一人もいないし、やり残したことも無いわ」
 ニーナの表情が曇る。
「本当に?」
「ええ、本当よ。強制じゃないんでしょ?」
「確かにそうだけど……」
「それならいいじゃない」
「うーん、あたしはそれは嫌だなぁ」
 ニーナは少しの間考え込み、
「じゃあこうしない?、今日から三日間だけ幽霊としてこの世界に滞在しようよ。 なにかやり残した事が見つかるかもしれない」
「幽霊?」
「うん、それならあなたの姿は私以外に見えないし。ただ、この世界の事を眺めてるだけでもいい。あなたは三日後、必ず天国に連れて行くから、少しだけあたしのわがままに付き合って欲しいの」
ニーナは青い瞳で真っ直ぐ夢亜の目を見る。
 ここだけは譲らない。そんな言葉が聞こえてきそうだった。夢亜はため息を吐く。
「……わかった、三日だけだからね」
そう言うとニーナはも無邪気に笑い、「良かったぁ。 ありがとう! 夢亜」 と抱きつかれた。天使は幽霊に触れられるらしく、久しぶりに暖かい体温を感じた。
「ちょ、ちょっと!」 夢亜は戸惑い、引き離す。

「あ、ごめんね。 つい感動しちゃって」
「別にいいけど……だけどニーナ、強制じゃないのなら、どうしてそこまでするの?」
そう聞くと彼女はふわりとした笑みで
「あたしが担当する魂は、笑顔で天国に行って欲しいんだ。 悲しいまま行くのは、本当に残酷な事だから」と言った。その時の表情は、とても大人びていることに驚いた。
 
彼女なりの哲学なのだろうか?
まるで彼女は、子供と大人が入り交じった様だった。
 夢亜は少しだけ柔らかい口調で「貴方っておせっかい焼きなのね」 と言うと、ニーナはクスリと笑いこう返した。
「うん、あたしは天使だから」

 夢亜の人生が大きく変わったのは10歳の時だった。それまでは少し大人しい、ありふれた子供だったと思う。
  夢亜にはかつて母親がいた。夢亜を出産した時は15歳という若さだった。
  父親は当時の彼氏で、五つ上の20歳だった。妊娠が発覚した時、責任を負いたくない彼は中絶するように言った。母の両親も堕ろさなければ、絶縁すると脅した。

  それでも母は産む事を諦めなかった。結局、夢亜の父となるはずだった男はふらりといなくなり、実家から飛び出す事になった。この時の母はとても強い人だったのだと思う。
  母は昼に育児を、夜には夢亜を託児所に預けてキャバクラ店で働いた。 娘には、可能な限り愛情を注いだ。
  周りは母を悪く言う連中も少なくはなかったが、夢亜は母が大好きだった。しかし、この生活は長く続かなかった。
 母に、夜の毒が回り始めたのだ。若く美人で、夜の蝶としての才能があった母は人気もどんどん上がり、男達を虜にした。
  華やかなドレスに身をまとい、毎日浴びるように酒を飲み、男達から貢いでもらったシャネルのバッグを手に持つと、自分がおとぎ話に出てくるお姫様になった気分だった。 それと同時に母親というものが、ひどくつまらない物だと思うようになっていった。
 夜ではこんなに輝けるのに、昼の私はなんて平凡なのだろうと。
 母は次第に夢亜に興味を無くしていった。彼女にとって夢亜はもう、ただの足枷でしかない。
 そしてある日、ついに母は一線を越えた。
  ある日、母は夢亜を児童養護施設に連れて来た。
「夢亜、用事が出来たからここで遊んでいなさい。後で迎えに来るわ」
 その言葉に夢亜は素直にうなずき、待ち続けた。
 しかし一日経っても、一週間経ってもついには母が迎えに来ることはなかった。
 見かねた職員から事情を話され、夢亜は自分が捨てられた事を知った。そのとき夢亜の中で何かが壊れた。誰にも心を開けなくなったのだ。施設の職員もそこで暮らす子供達も学校の教師もクラスメートも。
 みんな嘘をついているのでは無いのか?
  私をまた捨てるのでは無いのか?
 誰も信じられない。誰も信じたくない。
 こうして夢亜は今まで一人で生きてきた。
  毎日本を読み漁り、自分だけの世界に深く潜りこんだ。施設で暮らし始めてからも夢亜の不幸は続いた。
  中学一年の時、女子グループに母親に捨てられた事を理由にいじめにあったのだ。噂は小学校の同級生から瞬く間に広がった。
 ある放課後、帰り支度をする夢亜を後に、二人組の女子が夢亜に聞こえる声で話し始めた。
「あーあ。本田ってかわいそー、母親に捨てられたらしいじゃん」
「親が水商売だったらしいし、父親が誰だか分からないからじゃね?」 きゃははと笑う声が耳を貫く。
「今頃新しい男つくってるよ、絶対」
「うるさい!」
 自分でもびっくりするくらいの声で叫んだ。
 自分を捨てた母も許せなかったし、その事についても、赤の他人に絶対に言われたくなかった。
 夢亜は驚いている二人組のところまでツカツカと歩き、女子一人の頬を思いっきり引っぱたく。
「いった……」 一人が頬を押さえうずくまる。
「てめえ! なにすんだよ!」
 もう一人が夢亜の頬をはたく。
 痛みを感じると共に、理性までが吹き飛んだ。
 その後は髪をひっぱったり、殴ったりの乱闘になり、事態を聞きつけ、慌ててやって来た教員が夢亜を取り押さえるまでの記憶がない。
 この件以来いじめはなくなったが、同時にクラスは夢亜を”腫物”として扱い、誰一人夢亜に近づこうとはしなかった。
 そして最近、ふと思った。
 私は誰からも愛されない。この世界で、とても生きていける気がしない。毎日が地獄だ。
 ――それなら生きなくてもいいじゃないか。
  そう思うと心が少し軽くなった気がした。
 夢亜は高校を卒業したら死のうと決めた。 死ぬ事に対して恐怖は無かった。だから今回、事故で死ねたのは、ある意味運が良かった。
  きっと自殺は勇気がいるのだろうから。

 幽霊としての一日は、もうすぐ終わろうとしていた。
 ニーナとの待ち合わせ場所に着く頃は日が暮れ始めていた。幽霊となったこの体は、行った事がある場所、会いたい人を思い、目を閉じてそこに行きたいと念じるだけでその場所に瞬間移動できる。屋上でニーナに教わった事だ。夢亜はまるで魔法使いになったみたいと思った。
「夢亜!」
 ニーナは夢亜を見つけると無邪気に手を振る。その仕草は子供っぽい。
 ――あんな風に笑えたら。
 あの笑顔は、心に深い傷を負った夢亜には到底真似出来ない事だった。
 ――羨ましい。
 そう思う自分が意外だった。
「やり残した事は決まった?」
「……決まらないわ。ただ、やっぱり私が死んだ事を悲しんでくれる人はいないみたいね」
 夢亜は自虐的に笑う。少しだけ期待はあった。
 誰か悲しんでくれればそれだけで良かった。
 でも現実は違った。
 夢亜の知り合いは誰一人悲しまなかった。お気の毒に……そんな声はあったが、それはただの他人事だ。でもしょうがないか。自分は捨てられた子供だから。
 誰にも深く関わらなかったし、関わろうとしなかった。親に捨てられ、悲しむ人が一人もいないなんて、私はよほど嫌われ者らしい。
 夢亜自身だってこんな自分が嫌いだった。

 ニーナは少し困った風に笑い、
「そっか……でもっ! あと二日もあるし大丈夫だよ」といつもの明るい調子で言った。
 その瞬間、夢亜は自分の心が黒く濁っていくのを感じた。時々自分の気持ちを抑えられなくなる。

「ねえ……なんでそんな前向きに言えるの? 私はあなたみたいに前向きになれないし、それにもう死んでいるのだから、何したって無駄じゃない! もう放っておいてよ!」
「無駄じゃないよ」叫ぶ夢亜とは反対に凜とした口調でニーナは言い放った。
「確かに能天気だってよく言われるかな。天使は死を扱う、死は凄惨で忌み嫌うものだから笑わないって天使もいる。でもね――」
 ニーナは真剣な表情でに真っすぐこちらを見つめている。――いつもふわふわとした調子だったのに。その深い海の様な青い瞳を見つめていると、吸い込まれそうな気持ちになる。怒りすら忘れて、目を逸らす事すら、夢亜には出来なかった。「あたしは死を悲しいものだと思いたくないんだ、死ぬって事はそれまで頑張って生き抜いたってことだと思う。たとえ今までの人生が辛く苦しい物でも、最後は笑顔でいてほしいんだ。」
「夢亜、あなたは今とても悲しい顔をしている。だから夢亜を笑顔にすることがアタシの使命なの」
 その言葉を聞いた時、夢亜は何を言えばいいか分からなかった。「ごめん、ちょっと真面目すぎちゃったね」
 ニーナは「あはは」と少ごまかすように笑った。
「同じ天使の私でもお人よしだと思うわ」
 後ろから聞き慣れない女性の声が聞こえた。
 振り返るとボブカットの赤い服を着た日本人風な美女がいた。
 彼女にはニーナより一回り大きな白い翼が生えていた。
 ニーナは彼女を見ると、パっと目を輝かせて
「あ、ダリア! どうしたの?」ダリアと呼ばれた美女はあきれた顔をして答える。
「仕事が終わったから、見に来たのよ。そこのお嬢ちゃんがいるって事はまだ仕事終わってないようね……またいつものお人好しで現世に滞在させてるの?アンタも困った性格ね」
 まさか同じ天使にも言われるとは。どうやら夢亜がここにいるのは本当におせっかいだったようだ。もし担当がニーナじゃなかっ夢亜はとっくにここにいなかったかもしれない。
「あはは……だってあたし天使だし、天使は人間に優しくするのたらは当然でしょ?」
「それにしてもあんたはお人好しすぎ。そんなんじゃ仕事が遅いってまた上に怒られるよ」
「それは嫌だなぁ」
 そう言うニーナはちっとも嫌そうな顔じゃなかった。ダリアはこちらを向くと困った風な笑みを浮かべる。
「こんばんはお嬢ちゃん、私はダリア。見ての通りこの子と同じ天使よ。ニーナが迷惑かけてないかしら?」
「すごくおせっかいです」
 そう言った瞬間、ニーナの顔が少しだけ曇った。少し、可哀想だと思った夢亜は「……でも感謝しています」 と付け足した。ニーナはパッと笑顔になる。確かにニーナはおせっかいで、さっきは怒鳴ってしまったけれど、夢亜を笑顔にさせようと頑張ってくれている。そんな人物は、彼女が初めてだった。
「そう、なら良かった」
 ダリアは安心した様子で「フフフ」と笑った。
 その笑顔を見て、夢亜は内心驚いていた。
 綺麗すぎる。ダリアもニーナと同じく異端とも呼べる美しさだ。しかし同じ天使のニーナとは違い、高い身長、抜群なスタイル、ニーナが西洋の美少女だとするとダリアは妖艶な黒髪の美女といった所だ。――同じ女という事が信じられない。「お嬢ちゃん、名前なんて言うの?」
「……本田夢亜です」
「変わった名前ね。そうだ、お酒を持ってきたから貴方も飲みましょう!」
 そう言うダリアの手にはワインボトルが握られていた。
 夢亜は少し慌てる様に首を振る。
「私、未成年ですよ。それにニーナは仕事中じゃないんですか?」
「死んじゃってるならもう歳なんて関係ないでしょ? それに、ニーナは完全にボランティアみたいなものよ。本当、この子は人が良いというかなんというか」
「あはは……上の天使には黙っててね」
 夢亜はどうしても気になり、訪ねる。
「ところでニーナ、あなたお酒飲めるの?」
「うん、大好き! 天使になって、50年は経ってるから大丈夫だよ」
「信じられない……」
 啞然とする。
「貴方って真面目なのねぇ。女だけで飲むのはすごく楽しいのよ。せっかくの人生、一度くらいはお酒を飲むのも悪くないわわ」
「そうだよ! もったいないよ! 夢亜」
 天使たちはどうしても夢亜を飲ませたいらしい。「分かりましたよ、もう」
 自棄気味に言う。
 ニーナとダリアは顔を合わせにんまりと笑う。
 こうして、二人の天使と幽霊の宴が始まる事になった。真夜中の屋上で笑い声が響く。こんなに騒いでいると、警備員がやってきそうだが、ニーナに聞くと、天使は人間には見えないらしい。もちろん幽霊の夢亜も。
 ニーナとダリアは古くからの付き合いらしく、とても仲が良さそうだった。夢亜はそんな二人が羨ましく思った。「どう? お嬢ちゃん、初めてお酒を飲んだ感想は?」
 ワイングラスをを片手に上機嫌のダリアが言った。
「悪くない気分れす」
  呂律が回らない。視界がぐるぐるする。
  でもいい気分だ。自分がまっさらになる様な。
  同時にズルいなとも思った。大人は嫌な事があってもお酒で忘れられる、でも子供はそれが出来ない。子供はどうすれば嫌な事を忘れられるのだろう。ふわふわした頭の中でそんな事を考えていた。「良かった。しかしもったいないわね、お嬢ちゃんは顔もかわいいしまだ15歳だったんでしょ?私が貴方なら世の男を虜にするのに」
「お世辞は辞めてください。私、可愛いなんて一度も言われたことない」ダリアはニヤリと笑う。「じゃあさ、やり残した事を男と寝る事にすればいいんじゃない?」
「なっ!?」
 顔が沸騰した様に熱くなる。何かの雑誌で見たような大人の言葉をさらりと言えるダリアに、夢亜は驚きを隠せなかった。
「もー、夢亜をからかっちゃ駄目だよ」
 隣でカクテル缶を手に持ったニーナがケラケラと笑った。

 そんな会話がしばらく続き、ダリアが言う。
「さて、そろそろ帰ろうかしら」
「えー!もう帰っちゃうの?
 顔を赤くしたニーナが不満げに言った。「明日も仕事なのよ。先に帰ってるわ。後でお嬢ちゃんを私の部屋に連れて行きなさいな」
 そう言った後、ダリアは夢亜の方を向き
「お嬢ちゃん。今日は楽しかったわ。また機会があれば付き合ってちょうだい」
「はい、私も楽しかったです」彼女はニコッとはにかむと、強い光を放ち、目を開けると彼女の姿は消えていた。
「ダリアさんって大人っぽくてカッコいいね。ニーナは素敵な友達がいて羨ましいな」
 夢亜は自分自身の言葉に驚いた。お酒が回っているからだろうか?
「うん、ダリアはいい友達。でもそんなダリア、そしてあたしも夢亜の友達だよ」
「……えっ」
  息が詰まった。ニーナは優しい顔で続ける。「夢亜もあたしの友達になって欲しいんだ、だめかな?」
 そんな事、生まれて初めて言われた。
「……私なんかでいいの?」
「うん!あたしは夢亜の友達になりたい」
 その一言ではっとした。どうしてこんな簡単な事に今まで気がつかなかったんだろう。夢亜は今までずっと誰かに愛されたかったのだ。母に捨てられてから、一人で生きてきた。捨てられた事を知った時、こうつぶやいた。私は一人でも大丈夫、きっと生きていける。それはただの強がりだ。本当はずっと苦しくて寂しかった。だけど人と関わるのはもっと怖かった。また捨てられるかもしれない。その思いが夢亜をさらに孤独にする。ニーナはそんな、ずっと動けずにいた夢亜をすごく簡単な事の様に救ってくれた。気が付くと涙がポロポロとあふれていた。いろんな感情がごちゃまぜだ。今までずっと泣かなかったせいか、涙はすぐには止まらない。
 本当は心にしまっておくはずだった。だけど今は、ニーナに打ち明けたいと思った。「あのねニーナ。今日、私の葬式に行ったんだ……だけど知り合いは、誰もいなかった」途切れ途切れ、泣きじゃくりながら言葉にする。児童施設の職員、学校の教員などは葬儀に参加していた。しかし、夢亜の事を思ってというよりは立場上しょうがなく来たといった感じだった。誰にも心を開けない夢亜は、誰からも愛されなかった。
「そっか……」 ニーナは静かに頷く。
「それでもお母さんが来てくれればそれでいいと思ったの。少しは私が死んだ事、悲しんでくれるかなと思ったんだ。でもあの人は――」
 その先を言う事はためらった。この事実は、認めたくない。「あの人は葬儀に来なかった。やっぱり私は、この世界にはいらない人間なんだ」そう言葉にしようとした時、突然ニーナにぎゅっと抱きしめられた。
「辛かったね、夢亜」
 ――暖かい。「私は夢亜が大好き。このまま貴方がいなくなるのは、とても悲しいよ」その言葉を聞き、夢亜はまた泣いてしまう。それはまるで夢亜の苦しみが涙となり洗い流されていく様だった。
 ――突然、強い眠気がやってきた。重くなる目蓋《まぶた》でニーナを見ると頭の上には光の輪が浮かんでいた。これもきっと天使の力なのだろう。
「辛い事は眠って忘れちゃおう。そして明日は良い日になるよ」
「ありがとう……ニーナ」
「おやすみ、夢亜」
 暗くなる視界で見た彼女の表情は、本当に優しかった。夢亜がまだ幼い頃の、母の様に。翌朝、目が覚めると、見知らぬ部屋のベッドに寝ていた。ゆっくりと部屋を見渡すと振り子時計、レコードプレーヤー、大昔の海外映画のポスター。なんだか昔にタイムスリップした様な部屋だった。隣では、ニーナが小さく寝息を立てていた。どうやらニーナがここまで連れてきてくれたらしい。
「んっ……」やがて彼女はゆっくりと目蓋を開け、夢亜の方を見て微笑んだ。
「おはよう夢亜。 よく眠れた?」夢亜はコクンと頷く。
「そっか、良かったぁ」
「ここはどこ?」
「ダリアの部屋。あたしも一緒に住まわせてもらってるの」
 目が覚めてくると、ある感情がはっきりとしてきた。その正体は罪悪感だった。
「ねえ、ニーナ」
「うん?」
「ごめんなさい!」
夢亜は大きく頭を下げた。ニーナは驚いたように目を丸くした。
「わ、どうしたの?」
「私、あなたに今までひどい事を言ってきた」
「あぁー、その事ね。全然気にしてないよ」 
「でも!」
食い下がる夢亜にニーナは優しく告げる。
「だって夢亜は友達なんだから、そんなの全然許せちゃうよ」
――友達。
その響きに、心臓の鼓動が鳴る。それはきっと世界で一番素晴らしい言葉だ。
「あのねニーナ。私、やり残した物が見つかった」
 キョトンとする彼女に夢亜は告げる。
「ニーナ、あなたと一日一緒に遊びたい。それだけでいいの。だからお願い。私と――遊んでくれる?」
天使の少女はその問いに答えるように、向日葵の様な顔をほころばせるのだった。
 
 しばらくすると、ダリアがやってきた。昨日の服装とは違い、ニーナと似た、白いワンピースを着ていた。
「あ、ダリアおかえり!」 とニーナ。
「おかえりなさい」 と夢亜も言う。今までほとんど使わなかった言葉なので、少し恥ずかしい。
「ただいま。よく眠れた?」
「はい、ダリアさんはどこに?」
「私はあの後仕事。これでも成績トップなのよ。この家だって、優秀な天使にしか貰えないプライベートルームなの」
という事は仕事中に酒を飲んでいた事になる。それでも優秀な成績を取れるダリアに、夢亜はなんだか可笑しくてクスリと笑った。「そうだダリア、夢亜のやりたい事が見つかったんだよ!」
 ダリアはニーナから聞くと、「それは素敵ね」微笑を浮かべた。
「行くところは決まっているの?」夢亜とニーナは顔を見合わせ笑い、せーのの掛け声で同時に言った。
「「遊園地!」」
ダリアが来る前、二人で決めたのだ。
「それで、ダリア。やっぱり実態化したいのだけど、あたしは翼を隠せばいいけれど、夢亜はどうしよう? バレたら死人が生き返ったってパニックになっちゃう」
「なるほど、それなら良い方法があるわ」
「なんですか?」
 夢亜が尋ねるとダリアは笑みを浮かべ、こう答えた。
「簡単よ、髪を切って化粧すればいいだけよ。私がやってあげる」
 夢亜は戸惑った。それで本当に分からなくなるだろうか? 「大丈夫でしょうか?」
「女は化粧で変わるのよ。それこそ魔法みたいにね。そこが女のすごい所なの」
「ダリアは髪を切るのがとっても上手いんだよ! いつもあたしの髪を切ってくれるの」
 ニーナ少し自慢げには自分の長い金色の髪を手ですくって見せた。化粧や髪形なんて、いままでほとんど気にしたことが無かった。髪は無造作に伸ばしっぱなし、使っていた物はリップクリームくらいだ。
 ――彼女の様な、大人の女になりたい。強い憧れの気持が夢亜の背中を押す。ダリアの目を真っすぐに見つめ言い放つ。
「ダリアさん、よろしくお願いします」
「任せなさいな」と彼女は力強く言い放った。

「さて、はじめましょうか」
 ダリアは大きな鏡が付いたドレッサーに夢亜を座らせると、クロスをかけ、霧吹きで髪を濡らし、夢亜の長い髪を切り始めた。ニーナについては、彼女にも準備があるらしく、後で待ち合わせ場所に落ち合う事にした。
「綺麗な髪ね」
「そうでしょうか?」
「ええ、とっても。 貴方のお母さんはきっと綺麗な人なのね」
「――確かにお母さんは、綺麗な人でした」
 そう放った言葉の意味は嫌悪感なのか、誇らしさなのか、自分でも判断出来なかった。
 鋏《はさみ》のリズミカルな音が耳に心地いい。床には黒い髪がとひらひら落ちていく。
それは、過去を切り落としていくようにも思えた。辛い事、苦しい事、悲しかった事。
髪と共に散っていく。夢亜はそんな不思議な思いで鏡の中の自分を見つめていた。
「はい、終わり。次はメイクね」
 ダリアは嬉しそうに鼻歌を歌いながらドレッサーに置いてある様々な化粧道具を取り出した。
 どこかで聞いた事があるメロディーだった。
「楽しそうですね」
「ええ。ニーナは見た目が子供でしょ? 全然化粧が似合わないの。その点夢亜は大人びているからやりがいがあるわね」
 確かにニーナは私より子供の姿だから、きっと似合わないだろうな。  
化粧をするニーナを想像してたら、フフっと笑みがこぼれた。
考えるのは友達の事ばかりで過去の事はほとんど忘れてしまっていた。
「それにしても本当に上手ですね。天使より、美容師の方が向いてるんじゃないですか?」
 そんな軽口を言える余裕が今の夢亜にはあった。
「そうかもね。まぁ私はされる方ばっかりだったけど」
 される方……?夢亜は疑問に思ったが、それ以上ダリアは何も言わなかった。
 ダリアは魔法をかける様に、夢亜の顔を彩っていく。夢亜はその半分も化粧道具の名前が分からない。
「はい、完成」 
 夢亜は驚いた。
 鏡の中には、とても綺麗な、ショートカットの女の子がいた。
 それが本田夢亜だと気づくのに少し時間が掛かった。
「……すごい」
「――夢亜、ありがとね」
 
 ダリアはそっと呟く。
「あはは、感謝するのは私の方ですよ」
「ううん、ニーナの事。あの子のおせっかいに付き合ってくれて……あの子はそれが生きがいだから。今日1日、仲良くしてあげてちょうだい」
 ダリアの口調に違和感を感じる。夢亜は鏡越しに彼女の顔を見ると、頬には涙が伝っていた。
「ダリアさん……?」
 不安になり振り返ると、ダリアは、涙を手で拭い、こう告げた。
「実はね……ニーナは貴方で最後の仕事になるの」「えっ……?」
 最後の仕事……? どうゆう意味なのだろう?
 戸惑う夢亜にダリアは続ける。
「私達天使はね、元々は人間なの。人間は死ぬと普通、天国に行って生まれ変わるのはニーナから聞いたよでしょう?」
 夢亜は頷く。言いようの無い不安が募る募る。
「それで、ある資格がある者は天使となって働くの。 その代わり、天使としての役目を終えた時、普通より早く生まれ変われるの」
「ある資格って?」
 ダリアは重い口調で告げる。
「不幸よ」
 不幸……?」
「普通の人よりずっと暗い過去を持っている事が条件なの。 それで、ニーナは……」
 ダリアの声が、途切れ途切れになる。
「私なんか比じゃないくらい、酷いのよ……」
「でも! それでも普通の人より早く生まれ変われるんじゃないですか。 それはきっと、良い事なんですよね?」不安をかき消すように声が大きくなる。
「ええ、良い事よ。でもね」
 ダリアは両手で顔を覆う。次の言葉は、とても悲鳴じみていた。
「次の人生を歩めるのはあの子じゃないのよ……ニーナではない、別の誰か。私はあの子の笑顔が時々、痛々しく見えるの、それが何より辛いのよ!」
 夢亜は言葉を失った。ニーナが時々見せた、吸い込まれそうな瞳が脳裏に浮かぶ。ニーナは今までずっと、無理に笑ってきたのだろうか。
 ――あたしは死を悲しいものだと思いたくないんだ、死ぬって事はそれまで頑張って生き抜いたってこと
だと思う。たとえ今までの人生が辛く苦しい物でも、最後は笑顔でいてほしいんだ。
 そう言ってニーナは花が咲く様に笑い、私を温める様に抱きしめてくれた。そして今、私の願いを叶えようとしている。ニーナは人を幸せにし続けた。だけどそれなら。それならニーナは誰が救うというのだろう?

 しばらく無言の時間が流れ、古い時計の針が時間を刻む音だけが響いた。
「ごめんなさい、これから楽しい時間なのにこんな話をして、でも夢亜、貴方には知っていて欲しかった。貴方はニーナの唯一の”親友”だから」「そんな、ダリアさんだって――」
「私は違うの。多分、母親とか姉とかそういう部類。あの子の全ては私には分からないわ」
 ダリアは涙を拭い、悲しそうに笑う。
「ダリアさん。カットとメイク、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 夢亜はお辞儀をした後、ダリアを真っ直ぐ見つめ、強い口調で告げる。「あの! 私があの子を本当の笑顔にしますから! あの子を幸せにしますから! だからダリアさんも泣かないでください!」
 ダリアは一瞬驚いた様な表情で、しかしすぐに微笑み、言葉を返した。「そう、夢亜。あの子をよろしくね」その表情は、本当に家族を想う顔をしていた。小さい頃見た、母の様に。

 外に出ると、夏の暑さを肌で感じることが出来た。
 自分が一日だけ生き返った事が実感出来る。前までこの暑さは嫌でしょうがなかったが、今となっては愛おしく思った。服装はダリアから借りた。白いシャツにベージュ色のスカート。天使にも給料が出るらしく、ダリアはよく人間の世界で翼を隠し、世界中に買い付けに行っているらしい。ニーナとの待ち合わせ場所に着くと、彼女はいつものシンプルな白いワンピースでは無く、フリルの着いた、黄色いドレス姿に少し小ぶりな麦わら帽子をかぶっていた。なんだか絵画を眺めているようだと夢亜は思った。彼女は夢亜を見つけると、目を輝かせた。
「わぁ夢亜! すごく綺麗!」
「ありがとう。ニーナこそ、どこかのお姫様みたい」
 ニーナの明るさに夢亜は微笑む。さっきの話は嘘なんじゃないかとさえ思った。
「これずっとお気に入りだった服なの。天使は仕事の報酬で、昔持っていた物も貰えるんだよ」
 その言葉を聞き、夢亜の笑顔は一瞬消えそうになった。――天使になる条件は不幸。どうしてもその事を思い出してみる。ここに来る前、ダリアとそのことを話した。「実はこの事はあの子に口止めされてるの。多分怖いのね。貴方に過去を知られるのが」
「そうですか……あの、ダリアさんは?」
 恐る恐る聞くとダリアは少し微笑んだ。「私なんて大した事じゃないわ、よくある話。……天使になる前は女優だったの。これでも有名だったのよ。仕事が好きで、ずっと役作りの事しか考えていなかった。だけどある日、仕事のしすぎで体を壊してしまってね、もう二度と女優が出来なくなってしまったの。当時の私は馬鹿でそれなら死ぬしかないと思って手首を切った。つまらない話ね」
「そんな……」
 夢亜は絶句する。そんな壮絶なことですら、ダリアは大した事が無いと言う。それならニーナは、どんなに悲惨なのだろう。
「今思えば他に生き方なんて沢山あったのに、ほんと馬鹿。今でも時々後悔するわ……さあ、もういきなさいな。 あの子が待ってるわよ」
 そう言って見送ってくれた女性を見て、夢亜はハッとした。昔、母と一緒にとある古い映画を見たことがある。母の最もお気に入りの恋愛映画で、母が少女だった時に見た映画らしい。その主演女優は映画を撮ったあとに若くして自殺したと聞いた。
 ダリアはその女優と似ていた。夢亜はその映画に出ていた事を聞けなかった。理由は自分でも分からなかった。夢亜とニーナを乗せたバスは遊園地に向かう。天使の力を使えばすぐにでも行けたのだが、二人で話し合い、それはつまらないという事で却下した。
「それにしても、まさかニーナも遊園地に行きたいなんて思わなかったな」
「うん、本当びっくり! でも夢亜はどうして?」「――昔ね、お母さんが連れてきてくれた場所だから……最後に行ってみたいなと思って」
 暗い雰囲気になるのが嫌だったので、わざと明るい口調言う。「ニーナは?」
 ニーナは昔を懐かしむ様に話す。
「昔住んでいた街に遊園地があったんだ。すっごく大きな観覧車があったんだよ。でも、結局一度も行く事が出来なかったんだ。だからかな」
「そうなんだ、今回行く所の観覧車はすごく大きいよ。楽しみだね」夢亜は笑う。ダリアから話を聞いた時に決心に決めた事がある。それは、今日一日、出来るだけ笑顔でいようという事。夢亜が彼女に出来る唯一の事だった。
 ――私なんかが比じゃないくらい、酷いのよ……。
 ダリアの悲痛な声が脳裏をよぎる。ニーナの過去を知っても、私は変わらず彼女に笑えるのだろうか?
そんな不安が、波の様に押し寄せる。
その時、
「ねえ」
 ニーナの方を見ると悲しみ穏やかな表情だった。
「もしかしてあたし達は、すごく似た者同士なんじゃないかな?」
その一言で夢亜は安心する。同時に嬉しくなる。
 ――二人なら、きっと大丈夫だ。
「うん、きっとそうだよ」
 夢亜は笑った。
 今日はきっと、楽しい一日なる。 

 遊園地に着くと二人で手を繋ぎ、はしゃぎながら走り回る。
 まずはジェットコースターに乗る事にした。落ちる時、いかにも女の子らしい悲鳴を上げてしまい、 なんだか自分の声では無い様に聞こえて、後から少し恥ずかしくなった。ニーナは翼があるからか、全く怖がらなかった。
「あはは! 夢亜もそんな声出すんだね」とニーナにからかわれた。しかしお化け屋敷の方では真逆の反応だった。今の自分は幽霊なので、偽物にしか見えず驚かなかったが、外へ出た時、ニーナの方に目を向けると涙ぐんでいた。
「貴方だってお化けみたいな物じゃない」 と言うと、
「本当のお化けはあんなに怖くないよ!」 と文句を言っていたのが可笑しくて夢亜は腹を抱えて笑った。次にメリーゴーランドに乗り、お昼になったので二人で園内のレストランに入った。
 夢亜はハンバーガー、ニーナはイチゴのショートケーキを食べる。ケーキを口に入れた彼女はあまりにも幸せそうなので「そんなに好きなの?」 と訪ねると「女の子で甘い物が嫌いな子はいないんじゃないかな?」 
「私は女の子だけど苦手」 と言うと
「本当!? こんなに美味しい物が苦手なんてもったいない
!」と本気で驚いていた。その後空中ブランコに乗り、戻るとニーナとはぐれてしまった。 ニーナは金髪で目立つからすぐに見つかると思っていたが、夏休みシーズンだからか入場客が多く、なかなか見つからない。
「困ったな……」一人になると、また少し不安になってしまう。 それに夢亜もニーナも、有効時間は今日までなのだ。 
 貴重な時間を失いたくない。
 その時、後ろから、「夢亜!」 と声をかけられた。
「ニーナ! もう、探したよ……」そう言いながら振り向いた瞬間、息が止まった。心が凍り付く気がした。声の主は母だった。昔よりしわが増えていたがすぐに母だと分かった。だけど何よりも驚いたのは母が酷く疲れた様な顔をしていたからだ。派手な化粧もしておらず、高そうな服も着ていなかった。母は夢亜の顔を見つめ、少しの時間が掛かってから、
「そんな訳ないわよね……あの子はもう……ごめんなさい、あまりにも娘と似ていたので……人違いでした」そう言い終わると、弱く笑い頭を下げた。 そしてふらふらとした足取りで歩いて行く。
夢亜はひどく混乱した。なんで、なんで今更……。
 どうして私の葬式に出てくれなかったの?
 どうして――私を捨てたの?
 頭の中にノイズが走り、ゴチャゴチャになる。酷く叫びたい衝動に駆られる。私は貴方のせいで散々な人生だった! 施設で貧しい生活を送り、親に捨てられた事でいじめられた。友達だっていなかった。何より私自身が貴方に捨てられてからおかしくなった! 上手く笑えなくなったし、世界中の人間が敵に見えた。誰も信じる事が出来なかった!
 全部全部、貴方のせいだ。大きく息を吸う。全部全部、ぶちまけてやろう。
 そう思った瞬間――。
「あっ……」
 思い出した。ここは母が昔、よく連れて来てくれた、思い出の場所だ。そこに母が現在一人で来ているということ。その理由は。母はいなくなった娘を探しに来たのだ。どこにもいるはずも無い娘を。怒りと憎しみが静かに消えていく。最後に残った感情は、母への愛情だった。
「そっか、私は、お母さんともう一度会いたかったんだ」小さな声で呟く。
 そしてお母さんが元気で生きていてくれたのなら、それでいいと思った。
「あのっ!」 母の寂しい背中に声を掛ける。ゆっくりと振り向いた母に夢亜は微笑んだ。「娘さん、早く見つかるといいですね。今頃きっと、会いたがっていますよ」
 そう言終えると、夢亜は軽く会釈をし歩き始めた。少し歩いてから振り返ると、母は両手で顔を覆い、しゃがみ込んでいた。離れた距離でも、嗚咽をもらす声は聞こえた。夢亜は心の中でそっと呟く。
 さようなら、お母さん。
 ニーナは夢亜を待つ様にベンチに座っていた。空は赤く、夕日が沈もうとしていた。閉園時間は迫り、客のほとんどは帰宅を始める。
 もうすぐ一日と二人の少女が終わろうとしていた。ニーナは夢亜を見つけると、軽く手を振った。
「ニーナ、もしかして貴方がお母さんをここに呼んだの?」
 彼女は微笑み、静かに首を振る。
「ううん、”天使の力”なら出来なくもないけど、今回、あたしは何もしていないよ」
 母は、自分の意思で来た。
 少し、胸が苦しくなる。
「夢亜、貴方はお母さんに愛されていたんだね」
 ニーナは優しい顔で告げた。夢亜は無言で頷いた。泣いてしまいそうだったからだ。
 あのとき夢亜を見る母の顔は、10歳の頃と何も変わっていなかった。
 「ねぇ、最後にあれに乗ろうよ」
彼女が指をさした先には、夜間用のイルミネーションが灯し始めた、巨大な観覧車がそびえ立っていた。二人で観覧車に乗り込むと、ゆっくりと上に登り始める。。一番高いところまで行くと、、夢亜の住んでいる街が見えた。ぽつぽつと灯りが付き始め、生活の輝きを発していた。最初に連れられ、ダリアも含めて三人で酒を飲んだビルも見えた。夢亜はガラス越しに地上を見つめ呟く。
「私の街は、こんなに綺麗な場所だったんだ……」
「うん、普通に過ごしていると分からないけれど、本当はこの世界は、とても綺麗で、幸せなんだよ」
 夢亜の前に座るニーナも、同じ様に眺めていた。 お互い少しの時間無言が続いた後、ニーナが静かに話し出しす。
「――ダリアから私の事は聞いたんだよね?」
 夢亜は頷くとニーナは苦笑した。「ダリアに悪い事しちゃったなぁ」
「……本当なの? 貴方が、不幸で、今日消えてしまうという事」
「本当だよ。……実は怖かったの。過去を話す事、過去を貴方に打ち明ける事が。でも今日決心が付いた。――あたしの話をするね」
夢亜は初めて会ったときからずっと彼女を、強い少女だと思っていた。
どんな時でも笑顔を絶やさない、向日葵のような少女だと。
だけど目の前にいるニーナは、震えている、一人の幼い女の子だった。
「あたしが人間の時はね、ここと似ている綺麗な街に住んでいたんだ。街のあちこちに向日葵が咲いていて、少し遠い所に観覧車が見えた。パパとママがいて、学校に行くと友達や先生がいて、すごく幸せだった。だけどあたしが十二歳の時、世界中で大きな戦争が始まったの。街はどんどん戦いの色に染まっていって、みんな他の国の人を殺す事しか考えなくなった。毎日銃声と大砲と戦闘機の音が鳴り響いていた、毎日が怖かったなぁ。
 そのうちパパは戦場に行き帰ってこなかった。少しすると毎日沢山の飛行機が爆弾を落としっていった。向日葵畑も燃えて、観覧車も壊れちゃった。友達も、先生も、ママも。みんな爆撃に巻き込まれて、死んじゃったんだ」
「もう……もう話さなくていいよ!」
夢亜は耳を塞ぎ叫ぶ。夢亜を救ってくれた彼女が一番不幸だなんて、あまりに残酷で嘘だと思いたかった。ニーナはそっと夢亜の手に触れる。
「夢亜はあたしの友達だから――全部聞いて欲しいな」
 耳を塞いでいた手がゆっくりと降りる。そうだ、私はニーナの友達だ。彼女の過去は、知らなければならない。「ありがとう、続けるね」
 ニーナは静かな笑みを浮かべた。
「両親を亡くしたあたしは、孤児院に住むことになった。シスターのおばさんは優しかったなぁ。そこであたしは毎日聖書を読み、神様の像に祈り続けたの。死んでしまったみんなが、天国に行ければいいな。そんな風に考えていたんだ。ある日、おばさんと一緒に買い物の帰り道を歩いていたら。敵国の戦闘機があたし達に機銃を撃ったんだ。おばさんは頭を撃たれて即死、あたしは胸を撃たれた。血が溢れて、視界がどんどん暗くなって、最後に灰色の空を見上げたとき、もしかしたら神様や天使は、いないのかもしれないなぁと、ぼんやり思ったんだ。
そう思ったらとても悲しかった。……これで私の話は終わり。夢亜、聞いてくれてありがとう」
 話を聞き終わる頃には夢亜は、涙を流していた。泣かないと決めたはずだったが、どうしても無理だった。あまりにも酷すぎる。
「こんな……こんなのっ、悲しすぎるよ」
「でも戦争は沢山の人を不幸にしたから、あたしだけが特別じゃないんだよ」
「そんな事ない!」
 夢亜は叫ぶ。ニーナは自分の事を話しているのにまるで、夢の中の出来事であったかのような、口調だった。
「ありがとう、夢亜はやさしいね。 でもね、あたしの人生は、悪いことばかりじゃ無かったよ。
次に目が覚めて背中に翼が生えていたのが分かったとき、すごく嬉しかったの。本当に天使存在して、あたしはその天使になれたんだって。あたしの力でどんな辛い過去があった人達も笑顔で天国に連れて行ける。
それはすごく、やりがいがあった。嬉しかった。そして最後に――」
 ニーナは空の様に青い瞳で夢亜を真っすぐ見つめた。「夢亜に会えた。だからあたしは、今日消えたっていいくらい幸せだったんだよ」
 夢亜は強く頷く。
「私もだよ、ニーナ。」
「あはは、そっか、おんなじだ」
 その時初めて、ニーナの瞳から一筋の涙が流れた。
 それはどんな宝石にも負けない美しさだった。
 直後、とても強い眠気がやってきた。ニーナも同じ様で、彼女の青い瞳は目蓋に隠れていく。「いよいよだね、ニーナ」
「うん。ねぇ夢亜、手を握ってもいいかな?」
「もちろん」
 ニーナの小さい手を取る。
「……あったかい。夢亜、大好きだよ」
「私もニーナが大好き。」
 天使は微笑むと、ゆっくりと眠りについた。その表情は、とても幸せな子供の顔だった。夢亜は閉じゆく瞳で夕焼けが終わる瞬間の街並みを眺め微笑み、一言だけ呟いた。
「やっぱり、綺麗……」
 観覧車の中で、二人の少女は祈るように手を重ね、深い深い眠りについたのだった。

 夢亜が次に目を覚まし周りを見ると、最初にニーナに連れてこられたビルの屋上だった。遠くで車のエンジン音が聞こえる。目の前には黒髪の妖艶な天使がいた。
「久しぶりね、夢亜。五年ぶりくらい?」
「ダリアさん…… あれ? どうして私ここに? ニーナと観覧車に乗っていたのに。そもそも私天国に行くんじゃ?」ダリアはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「背中を見てごらんなさいな」 
「えっ、あっ……」背中を見ると、驚いた。
 夢亜の背中には白い翼が生えていた。その時ダリアの言葉を思い出す。天使になる条件は”不幸”。
そうか、自分は――天使になる資格があったのだ。
 驚きと同時に彼女の事を思い出す。
「そうだ! ニーナは? ニーナはどこにいるんですか?」
「あの子は、天国に行ったわ。私が連れて行った。――あの子の最後の笑顔は、本当に幸せそうだった」
「そうですか――良かった。」
「実はあの子から貴方あてに手紙を貰っているの」 そう言ってダリアは小さな手紙を差し出す。夢亜は受け取り、ゆっくりと紙を開く。
 書いてあったのは一言だけだった。
 【――生まれ変わっても、絶対夢亜の事を覚えているからね。】
 夢亜は微笑んで空を見上げた。手紙の返事は、こう書きたかった。――それなら私は、生まれ変わった貴方を絶対に見つけ出す。夢亜はゆっくりと歩き出し、手すりから下の世界を眺めた。
 目の前に映る景色は以前と違い、とても綺麗だった。 
 この美しい世界のどこかに、ニーナはいる。そう思うと、本当に嬉しかった。
 こうして夢亜の天使としての生活が始まった。
天使の仕事は死んだ人間の魂を天国に連れて行くこと。なかなかハードな仕事内容で夢亜は、これじゃあ人間の時とあまり変わらないなと苦笑した。
 夢亜はかつてのニーナと同じ様に、担当になった者にやり残したは無いかと事を聞いた。それを出来る限り実現し、最後は彼らを笑顔で見送った。
他の天使からは、また変わり者がやってきたと夢亜を煙たがっていたが、夢亜は全く気にしなかった。 ダリアとは時々、あのビルの屋上で飲んでいる。見た目は中学生のままだったが、お酒は飲み慣れてきた。しかし酔うと泣き出してしまうらしい。(全く記憶に無い)ダリアからは、
「あの時、初めて飲んだから酔っぱらってたと思ったけど違うのね」とからかわれている。こうして天使としての忙しい毎日を送り、何十年かの時が経った。
 ある時、日々の働きが評価され、とても長い休みをもらった。夢亜は旅に行こうと決めた。
 天使の力で翼を隠し実体化し、向かった先は、夢亜の住んでいた町ではなく、かつてニーナが語った、大昔に戦争があった国だった。そこはかつて戦争があったとは思えないほどに美しい街があった。夢亜は町を歩き、やがて大きな向日葵畑に着いた。
遠くには遊園地があるらしく大きな観覧車が見える。
 そよ風を感じながら、向日葵畑を歩いていると、向こう側から、大きなゴールデンレトリーバーを連れた小さな女の子がやってきた。
 夢亜は微笑み、挨拶をした。
「こんにちは」
「こんにちは! お姉さん」女の子は花が咲いた様な笑顔でとあいさつを返した。
 夢亜はレトリーバーの頭を撫でる。レトリーバは嬉しそうに尻尾を振った。
「かわいいね。名前はなんていうの?」
 すると少女は、まるで聞いて欲しかったかの様に目を輝かせた。
「ユメアっていうの! 本当に不思議な事なんだけど、昔からずっと頭の中にある言葉で、絶対に忘れちゃいけない、とても大切な言葉の様な気がするの。だからこの子に付けてあげたのよ」夢亜は驚き、しかしすぐに微笑んで答える。
「そっか。とても素敵な名前ね」 
「うん! バイバイ! お姉さん」
 少女は手を振り、青空の下の向日葵畑を犬と駆けていった。夢亜は手を振りながら優しい口調で独り言を呟いた。
「貴方には、向日葵がとても似合うのね」
 強い風が吹く。向日葵の花びらが空に舞い上がり、遠くでは観覧車がゆっくりと回り続けていた。
〈了〉

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