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古地図と空中写真とわたし。

自分が生まれ過ごした地域の変遷や歴史に興味がある人はどれくらいいるだろう。

さかのぼること十数年前、わたしが生まれ育ち現在も住むその地域の古い地図(明治か大正の頃)が仕事の資料におおきく記載されていることに気づいた。仕事そっちのけでその地図に見入った。

今とは全く異なる河川のかたち。
立派な港湾施設は影も形もなく、ただただ砂浜と巨大な沼があるばかり。
わたしが生まれる前から家族で住んでいた公団があるあたりは、当時の地図上では本当に何も建物がなくて、ほとんどが田んぼか畑だった。
20年以上住んだその公団を退去し、近くの土地を買い家を建て現在もそこに住んでいるが、その近所の道路は、逆に当時と全く変わっていないこと。

すべてが新鮮だった。

しかし、何にせよ仕事中である。
ものすごく心残りだったが、無理やり仕事に意識を戻して、その日はそれ以上調べることはしなかった。

ところで、仕事で図面を描く際、図面の上を北にするのが一般的だが、北は北でも磁北でなく真北で描く必要がある。
真北を調べるには、公図を使用したりするのだが、たまに使用するのをためらうな古いものもあったりする。
そんな時は国土地理院地図で真北を調べるのだが、ある時、気づいてしまったのだ。

日本全国の空中写真を閲覧できるということに。

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を閲覧したことがある人はどれくらいいるであろうか。見たことがないなら、是非一度覗いてみて欲しい。

はっきり申し上げて、一度閲覧しはじめるとやみつきになる。

ちなみに、わたしの地域の空中写真は、撮影年月日が一番古いのは戦後すぐのものである。撮影者が米軍というのもまた感慨深い。

約80年前のわたしの地域は、冒頭の地図のとおり、今とはまったく違う土地だった。
港湾も全く整備されていないままで砂浜だったし、明治・大正時代までは川が蛇行していたのを昭和に開拓した名残がはっきりわかるくらい、田んぼの割りかたが面白い形になっていた。

わたしが生まれる少し前の写真では、公団の杭工事の様子もしっかり撮影されていたし、約20年前に引っ越してきた今現在住んでいる場所が、当時は家が数軒しかなかったのもわかった。

少し離れたところに立派な競馬場があったことも大きな発見だった。尚、今はまったく残ってはおらず、区画整理されて住宅地になっている。
さらに両親が生まれた場所も閲覧できたから、当時はああだったこうだったと思い出話を聞くこともできた。

一旦、わたしはこれで満足したはずだった。

実際、そのあと仕事で閲覧することはあっても、休みの日にいつまでもしつこく閲覧し続けることはなくなっていたからだ。

ところがある日、この「趣味」がぶり返すことになる。

きっかけは、息子だった。

息子が卒業した小学校は、田舎の中でもさらに児童数が少ない。
他の小学校の持ち上がりのような中学校にたまたま入学した息子は、その人数の多さにおどろいた。(とはいえ、そこも大した生徒数ではないのだが)

そうした時、彼はふと不安をおぼえた。

「ぼくの小学校、なくなっちゃうんじゃないか!?」

田舎の小中学校は実際に統廃合が少しずつ進んでいて、何校かはすでに消滅している。
そこで彼は、自分の小学校の将来の児童数を自分なりに予測するために、過去の児童数を市役所のホームページやまとめサイトを使って調べ始めた。それにあわせて、学校の歴史にも注目するようになった。
過去、児童数に大きな増減があった時期は、近隣の自衛隊の隊員数に影響を受けていることも知った。

段々と調査を進めていくうちに、息子は市内のどの地域に新しい小学校を建てれば人口が増えるかという妄想遊びを始めた。
人口が増えてからの学校新設が本筋であるから、考える順番が逆であること、市内には市街化区域と市街化調整区域があるということを息子に伝えたところ、今度は区画整理事業に興味を持ち始めた。

市内の完了した区画整理事業区域の中に、わたしたちが過去に住んでいた公団の建つ地域も含まれていることを思い出した。

その時ふと思い出したのが、わたしがまだ小学生の低学年くらいの頃、事業完了時に住居表示がはじまって、大字小字(おおあざこあざ)の住所から何丁目に変わったという記憶だった。

ずっと忘れていた。

幼稚園に通っていた時、自分の住所を暗記してこいという宿題が出されたが、暗記をするのをすっかり忘れて登園し、担任の先生にこっぴどく叱られたことがあった。
そのせいか、なんとなく古い住所は記憶の隅に追いやっていたように思う。

今でも大字は残っているが、公団がある場所の小字は残っていない。
そうなると、他の消えてしまったであろう周辺の小字が気になり始めた。

どんな小字があったのか、知りたくなった。

かたわらで、息子が小学校の過去の児童数を市のHPで閲覧できなくなったと騒いでいた。どこに行けば調べられるんだよおおと頭を抱えている。どうやら調査が見えない天井に阻まれているようだった。インターネットで調べられないとなると、どうしたものか…。

そうだ。図書館へ行こう。

日曜日、わたしたちは市立図書館へ繰り出した。
本嫌いの息子のためにせっせと通った時期もあったが、コロナによる閉館や設備更新工事での閉館ですっかり足が遠のいていた。

図書館に来て、郷土コーナーにまっすぐ向った。
小学校の人数を記載した資料はそこにはなかったが、お目当ての「地域の歴史」をまとめたパンフレットと写真で振り返る郷土史をゲットできた。

わたし的にはこれがなかなかのヒットだった。パンフレットに代表的な小字が掲載されていたからだ。

しかし、息子にとっては消化不良だったようだ。
小学校の児童数が記載された資料は、2階の貸出不可のコーナーにどうやらありそうだった。時間がお昼に迫っていたため、渋る息子を説得して一旦帰宅しお昼ご飯を食べた後、もう一度市立図書館に戻ることにした。

戻ってきたわたしたちは脇目もふらず2階へ上がった。
2階はデスクコーナーと貸出不可の図書のみがあり、静まりかえっている。
そこで、わたしたちは思い思いに気になる本を手にとっては目を通し、没頭していった。

息子は全年度の資料とはいかないまでも、数年分の児童数をメモ帳に書き留めていた。また来るぞと鼻息を荒くしていたのがなんだか可愛らしかった。

わたしもお目当てを見つけることができた。
午前中に借りた地域の歴史のパンフレットを100倍くわしくまとめた歴史研究会の自費出版の本を見つけたからだ。
表紙は恐れ多くも元首相福田赳夫氏の揮毫である。一体、どこにそんなコネがあったのか。

その本に、当該地域の小字がすべて書かれていた。
公団の谷間にあった小さな児童公園の名前は、消えた小字からつけられていた。
公団の隣の町内会名が、やはり消えてしまった別の小字だった。
その資料でしか見たことがない小字については、当時の地形や地質をもじった名称であることが容易に想像できた。
バス停の名前で生き残っている小字もあった。
さらに風変わりな小字の語源まで記載されていた。

たったその一日で、わたしの脳に地域の歴史が大量に流れ込んできた。

子供の頃の記憶とリンクしながら入り込んできたそれらの知識が、瞬時に自分の血肉になった感覚すらあった。

2回目の図書館から帰宅した後、郷土史の写真集を読みふけった。
写真集には市全体の歴史が網羅されており、なおかつ、当時の何もない時代の風景写真やお宮のお祭りの様子、太平洋戦争時の写真など、空中写真だけではわからないものがたくさん載っていた。

そうして、わたしの知識は完成した。

地図で平面状に知り、文字で情報を追加し、写真でイメージを立体化させることができた。

はじまりは仕事の資料だった。もし、あの見開きに別の地域が載っていたら、ここまで調べはしなかったであろう。
そして、自分がここまでふるさとに愛着を持っていたことにも気付かなかったと思う。

年が経つごとに、地域の様子はどんどん変わっていく。これは全国どこでも同じではあるが、自分のふるさとや今住んでいる場所が過去から現在に至るまでどういう過程を経て変遷してきたかということを知っていて損はないと思う。
NHKの「ブラタモリ」に一定数のファンがいるのも似たような理由なのではないかと思う。

悪いことは言わないから、まずは国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで空中写真を閲覧してみて欲しい。

はっきり申し上げて、一度閲覧しはじめると本当にやみつきになるのだ。

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