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乳幼児期編、0〜5歳

電子書籍で、母の子育てを振り返って[子育て]について書くにあたり、自分の生まれてから今までを記憶と家族の証言を頼りに文字に起こしてみました。

0〜5歳までの記録です。

本当は小さい時の写真も貼りたいのですが、アルバムは実家に置いてあるので日本帰ったら貼りたいと思います。

(現在スイス在住のため)

[乳幼児時代、前期]
1980年1月6日 午前11時22分 
世田谷区梅ヶ丘にて生を受ける。

寒く眩しかった記憶がうっすら残っている。

母親曰く、生後1週間の退院時、1ヶ月検診の乳児よりも大きく、すでに首が座っていた。
(3900g)

世田谷の母親の実家で父母、母方の祖父母と5人暮らしになる。
(父は入婿)

夜泣きだけでなく、昼間も置かれると泣き、終始抱かせていたため母親の足腰に負担をかける。
お陰で後頭部の骨が丸いまま成長する。

母親が相互のコミュニケーションを重要視しており、毎日話しかけられて生活する。
そのため8ヶ月で発話し始める。
(最初の発語は葉っぱ)

下北沢を母親と散歩中、冷たいものを口に入れられ、あまりの美味しさに驚愕する。
のちに母親から、それは31アイスクリームのバーガンディーチェリー味だと聞かされる。
この出来事が、終生杏仁豆腐系の揮発性の香気を伴う食品を好むきっかけとなる。

祖父が建てた、静岡県西伊豆松崎町にある山の中の家で、祖父母、母とたまに宿泊し、山の自然の中で楽しく過ごす。

庭で育てた野菜を収穫し、その場で土を落として食べ、生の苦い野菜(特にピーマン)の美味しさを知る。

松崎の家は海も近いため、夏は海で楽しく過ごす。
波打ち際の砂を手で掘ると、小さい生き物がいることを発見し夢中になる。

海の近くの精肉店で売っている小玉メンチカツを海辺で食べる事が習慣化。
海から上がった後だけは、ソースをつけない方が美味しく感じる事に気づく。

夏は山の中で蝉が鳴くが、時間帯によって音が違う事に気づき、なぜ違いがあるのか疑問に思う。
(当時はセミに知識がないため、何種類も存在している事までは気づかなかった)

東京では母が父の店のヘルプで夕方出かけて行くため、祖父母と共に自宅待機。
別れ際に毎晩大泣きで分離不安になる。

あまりに分離不安が酷いので、父の店でアルバイトを雇う。

[乳幼児時代、後期]
母親が二人目の出産のため入院、祖父と見舞いの帰りに号泣、祖父が誘拐犯に間違われる。

誘拐犯に間違われた祖父。


妹を期待していたが弟が生まれる、可愛い。

母親は弟の世話で忙しいため、松崎の家で祖父母と共に週末を3人で過ごすことが増える。
母親と離れると発作的に分離不安を起こすので、ここで訓練されていたと推測される。

松崎の家は山の麓のポツンと一軒家のため、大きい蜘蛛などがよく家の中に出没して毎晩怖い思いをする。
(アシダカ軍曹)

自然の中なので怖いこともあるが、祖父母に付き添われて山で食べられる山菜取りを楽しく実地研修。
摘んできた山野草を使った料理を食べ、店で買った物以外も食べられる事を学習する。

川で魚も獲るが、フナとザリガニばかりで食べられない。
鮎は素早すぎて、手で持つ網では捕まらず、生物の身体能力の高さに驚嘆する。

松崎の家の壁にはモナリザのレプリカとナマハゲの面が飾ってあり、裏側に大きい蜘蛛がいないか常に警戒する。
特に夜間は、二つの意味で恐怖。

松崎ではウズラやキジ、山鳥、鹿やキツネなどの鳴き声が聞こえるため、山へ探しに行くも見つからず。
姿がなかなか見えない野生動物への興味が膨らむ。
ウズラとキジは稀に庭を歩いているところを目撃して興奮する。

松崎から東京に帰る際、途中の修善寺付近で必ず鰻を食べさせてもらう。
最終日に鰻を食べられる報酬を作る事で、母親と離れるモチベーションを保つ。

祖母は片付けが非常に苦手なため、松崎の家も実家の祖父母のフロアも常に物が散乱している事に気づく。

母親からはことある毎に何でも話し合い、質問されていたが、考えて言語化して答えることは億劫なので、正直煩わしいと感じていた。

この頃、マイペース、約束の時間にルーズ、無鉄砲、興味のある事とやりたい事しかしないなど、右脳の感覚に偏った成長をしていたため、母親が危機感を覚える。

世田谷周辺でトップクラスに厳しいとされる、昭和女子大学の附属の幼稚園を勧められ、特に何も考えずに同意する。

[昭和女子大学附属幼稚部時代]
幼稚園の入試で煎餅が出される。
出された物を一度お断りする事で、謙虚さを測る目的の試験だったが、個人的に煎餅が好きではなかったため断り、偶然受かる。

入園後すぐ、他の園児(女児)からティッシュペーパーや色鉛筆、糊を[食べられるから食べてみろ]と言われ、特に疑わずに実行する。
後にいじめだったと発覚するが、感情的に反応せず食べていた事で加害側がつまらなかったらしく、一度で終わる。

いつもの様に私物を出しっ放しにしていたところ、先生から執拗に叱責される。
ハサミを机に出していただけで、他の園児もいる前でここまでこっぴどく怒られる事にえも言われぬ恐怖と理不尽さを覚える。

クリスマス子供会の出し物で他の園児と音楽に合わせてプラカードを上げる動作が、どうしてもタイミングを覚えられず、廊下に立たされた上、出来なければ子供会には出席させないと脅される。
母親と自宅にて子供会の前日まで数日間猛特訓、特定の歌詞が聞こえたら反射的に腕を上げる反応をすり込み、ギリギリ子供会に参加させてもらう。
条件反射を学習する。

園の夏祭りでオタマジャクシをいただき、可愛さと好奇心で触って遊んでいたら潰してしまう。
5秒前まで生きていた生物が自分の行いによって動かなくなる様子を見て、後悔と反省する。
悲しみと共に生命の脆さを学習する。

イジメはないが、厳しい指導と純粋に体験とヒトが多い疲労とストレスで、家に帰ると蕁麻疹が毎日出るようになる。

特に何も考えず、思いつきでバレエをやってみたいと発言したら、次の週には見学に連れて行かれ、流れでそのまま習い始める。

春夏冬の長期休暇のみ、松崎の家で祖父母と過ごす。

園の廊下で追いかけっこしていたら、転んで机の角に顎をぶつける。
自分は気づかずそのまま歩いていたが、顎が切れて大量に出血しており、周囲が騒然とする。
救急搬送され3針縫う。
自分で見ていなければ、痛みは大して氣にならないと知る。
同時に、狭い場所で走り回っては危ないと體で覚える。

友人を自宅に招いた際、追いかけてきた弟を誤って怪我をさせてしまう。
(階段に取り付けていたフェンスに弟の指を挟んだ)
三本杉の過失と弟に認識され、それ以降弟には拒絶され関係は険悪になり、家庭内では[一人っ子が二人]の体制になる。
(40年経過後の現在も会話はない)

友達を作りたいという考えは持っていなかったため、特定の子と仲良くなる事はなく、その日にそこにいる園児と適当に遊ぶ日々。

昭和女子大学は、神奈川県(東名学林)と千葉県(房州海浜学寮)に宿泊施設を保有しており、移動教室に利用される。
幼稚部ではお試しで1泊の移動教室が行われるが、松崎の家で母親と離れて眠る訓練を受けていたので事なきを得る。

それでも親元を離れると安定的に不安にはなるので、心細い一夜を過ごす。

厳しい昭和女子大学の附属とはいえ、幼稚部はなんだかんだ緩く、比較的楽しい幼児期を送る。

卒園し初等部に入学しても、同じ敷地内で隣の建物へ移動するだけなので特に感慨はないが、初等部以降の教育と校則の厳しさは小耳に挟んでいたため、小中高に対して楽しいイメージは持てない。


と、振り返ると、想像以上に長くなりました。

小学校編に続きます。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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