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進行形JR乗りつぶし日記(少しのオマージュ)#37~信越・東北腰痛の旅(3)【原ノ町→仙台→女川→気仙沼→一ノ関→利府→仙台】

 一晩寝ると少し復活するが、リュックを背負って歩き出すとまた具合が悪くなる腰を気にしながら、ホテルから徒歩2分の原ノ町駅に向かう。この旅最終日の2024年3月11日(月)は原ノ町駅5時51分発仙台行き各駅停車から始まり、石巻、女川、気仙沼と海沿いを進んで、一ノ関から仙台に戻るという行程である。
 まだ薄暗いホームでエンジン音を響かせているのは国鉄民営化後まもない時期に製造された年季の入った701系の4両編成で、私が乗った最後尾車両には他の客は誰もいない。

 しばらく内陸部を走り、常磐線で福島県最北駅の新地駅を過ぎて宮城県に入る。新地駅から浜吉田駅までの3駅は甚大な津波被害を受けて内陸寄りに新たに線路が移動敷設された区間で、列車は広々とした田畑の真ん中を高架で駆け抜けていく。災厄をもたらした、しかし恵みももたらす海は遠くに見えている。
 旧線区間に戻った亘理駅付近では無数とも思えるイチゴ栽培のビニールハウスが見える。原ノ町では数えるほどだった乗客もいつしか通勤通学客で賑わってきて、常磐線終点の岩沼駅では立ち客も多数という状況になった。ここからは東北本線にそのまま入り、7時12分に大都会仙台駅で私は通勤通学客とともにホームに吐き出された。

 仙台駅の仙石線は東北本線や新幹線から遠く離れた地下ホームから出る。次の目的地である石巻にはその昔にCさんと共に行ったのだが、モタモタしていてその遠い地下ホームから出る列車に乗り遅れてしまい、やむなく東北本線経由ルートで行かざるを得なかった。そのお陰で仙石線は真ん中の松島海岸~高城町のたった一区間が未乗となっていて(松島海岸駅までは別機会に乗車済)、本日ようやくそこを乗りつぶす訳である。
 7時33分に4両編成の近郊型電車は地下ホームを出発する。ラッシュ時間帯なので、大きなリュックを持つ私は車両の片隅で肩身を狭くする。やがて地上区間に出て暫くすると日本三景松島の入り組んだ海岸風景が広がり、松島海岸駅を出るとすぐに左側から東北本線からの短絡線が寄り添ってくる。これこそがCさんとかつて渡ったレールである。
 松島海岸駅からほんの僅かの時間で高城町駅に到着し、仙石線乗り残しの一区間は終わった。列車はやがて震災後に内陸移転した東名~野蒜(のびる)区間に差し掛かる。仙台行きの上り列車が津波に流され、下り列車は高台にいたため間一髪で逃れることができたというあの区間である。新線は真新しい道床の上をまっすぐに走り、遠くには震災遺構として保存されている旧野蒜駅舎が一瞬見える。
 矢本駅の近くでは晴れた空に明らかに人為的に描かれた星形の飛行機雲が見える。これも津波で大被害を受けた航空自衛隊基地に所属するインパルスが描いたのであろう。今日は13年目の3月11日である。

 アニメのキャラが賑やかな石巻駅に8時58分着、次に9時33分の石巻線女川行きに乗り継ぐ。この石巻から終点女川までの区間は先程の一駅乗り残しと同様に、前回の仙石線乗り遅れの失策で断念を余儀なくされた区間である。発車3分前に入ってきた列車は110系気動車の1両で、ホームに溢れる人数を捌ける容量とは思えない。今日は特別に乗客が多いのかもしれないが。
 石巻から女川までは6駅、石巻市街地をすぐに抜け、万石浦という静かな入り江の淵を走る区間が美しい。混んだ車内で座れなかったが、30分足らずなので腰へのダメージは少ない。9時59分終点女川駅着。

 女川駅も津波で流されてしまい、4年後の2015年に200メートル内陸の現在地に移設されて路線が再開したという経緯を辿っている。駅舎の外に出てみると一面の黄色いハンカチが風にはためいている。駅前広場にはテレビカメラも多くあるし、駅から海に続く場所に震災後に新たに整備された市場も多くの人で賑わっていた。
 しかし8分後の折り返し列車に乗らねばならない私には女川の街を歩く時間はなかった。運転士さんに乗車を急かされ、11時8分発の小牛田行き鈍行は黄色いハンカチで埋め尽くされた駅をスルスルと後にした。

 石巻駅で大半の乗客を下ろした単行ディーゼルカーは小春日和の陽射しの中を訥々と走り、気仙沼線との分岐駅前谷地に10時55分に到着した。前谷地から気仙沼に至るこの路線は全線未乗なのだが、今鉄道で行けるのは5つ先の柳津までで、柳津から気仙沼まではBRTという専用バスに転換されている。従って鉄道乗りつぶしという観点からは柳津で終わるのだが、バス区間もJR東日本直営で18きっぷも使用可なので、廃線跡探索のような感覚で気仙沼まで行くこととする。
 柳津までは旧北上川に沿って走る。低い山々と田園風景が続くのどかな場所で、「のの岳」という面白い名前の駅が気になる。近くにある「篦岳山(ののだけやま)」という山の名前が由来だそうだそうである。これは読めない。

 駅以外は何もなかった前谷地よりはかなりの住宅地が広がる柳津駅に11時21分着、小さな駅前ロータリーには既にBRTバスが待っているが、乗り込む客はバスのキャパを遥かにオーバーしている。私は何とか座席を確保したが、列車に比して格段に狭いシートでリュックを抱えているとまた腰が痛くなってきた。
 11時34分にBRT柳津駅発。すぐに線路跡の専用道路に入るのかと思っていたが、一般道をくねくねと走り、やがて沿線で一番大きな街である南三陸町の中心地志津川に着くと、8割以上の乗客が降りた。「JR志津川駅」と書かれた大きな建物に隣接して土産物屋さんやら飲食店が集まる商店街が広がり、多くの人で賑わっている。役場も近いし、何かイベントが開かれるのかもしれない。広大な駐車場もクルマで埋まっており、BRTで来た客は僅かであろうと思われた。
 志津川の市街地を抜けるとかつて鉄道が走っていた専用区間をかなりのスピードでバスは走る。震災前はここにレールが敷かれて気動車が走っていたのであり、何とも言えぬ感慨が湧きおこってくる。
 専用区間と一般道を往来しながらバスは長駆北上し、13時23分に気仙沼駅着。

 気仙沼駅も今日は人が多いのだろうと思っていたが、駅前には数台のタクシー以外は何もなく誰もいなかった。地図を見ると街の中心は駅から離れているようである。しかし一ノ関に行く次の列車出発までは中途半端な時間しかなく散策も出来ないので、盛駅まで北上するもうひとつのBRTバスや駅舎内を徘徊して時間をつぶした。
 14時21分一ノ関行き各駅停車は淋しい気仙沼駅を出る。岩手県に入って4つ目の小梨という駅に着いた時が14時46分であった。

 気仙沼から北上山地を横断して東北本線の一ノ関まで至る大船渡線は途中で北に大きく迂回しているのでドラゴンレールの愛称が冠されているが、車窓そのものはあまり風光明媚という訳でもない。何年か前に乗った時も寝てしまったのだが、今日も小梨駅を最後に記憶は途切れ、夢の中を大きく迂回して15時40分一ノ関駅到着。

 旅も終わりに近づき、後は東北本線を南下し仙台空港から帰るのだが、際どい乗り継ぎで途中の岩切駅から分岐するたった2駅の利府支線に乗る。既に日没寸前で、短い支線の唯一の見所である新幹線と在来線の車両基地も殆ど見えなかった。
 
 腰痛に悩まされ続けた3日間であったが、何とかほぼ当初計画どおり700キロ余の未乗区間に乗ることが出来た。JR全体での乗車率は92.485%になり、残存区間が10%を切ったことでゴールが薄っすら見えてきたような気がする。もっとも来週には北陸新幹線が延伸され、また新規未乗区間が誕生する。

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