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日本人を洗脳し、搾取する大本教・創価学会。東大は箕作家の工作機関。精神医学界にも深く絡んでいました。

なぜ精神医療について取り上げたかといいますと、私は16歳~20代半ばまで、色々とワケあって精神科に通院していました。通い始めた頃から相談をしても先生は適当に相槌をうって、結局、精神薬や睡眠導入剤などの有害な薬を処方してくるだけなので、嫌気がさしていました。しかし、酒飲みの父親や不安症で権威のある人を信じ込んでしまう母親は、私に何でも病院で相談するように言いました。精神薬は今では違法薬物と同じだとの認識が広まっていますが、私は薬による副作用で肉体も精神も壊れていきました。
それでも、私の親は私に病院通いや服薬を続けるように言いました。私もあるときを境に、向精神薬の有害な作用もあってか、親や兄弟と大喧嘩を繰り返すなど、大変苦しみました。
その悪徳精神医学界も大本教・創価学会や東大を仕切っている箕作家が深く関わっているようなのです。

箕作阮甫は東大の基となった蕃書調所の首席教授でした。つまり、東大は箕作家のものだったのです。さらに、彼の子孫の多くは学者になりました。(イルミナティお得意の英才教育やコネでしょうね。)

東京大学の創立に関わった津山人 箕作阮甫(みつくり・げんぽ) | 津山市公式サイト (tsuyama.lg.jp)






創価学会は、数あるカルトの中でも、現代日本では最大勢力となっています。自民党と連立与党として君臨してきた公明党の支持母体でもあります。つまり、自民党も創価学会と無関係なわけがありませんよね。

RAPTさんに工作してきた上級国民の李家やネット工作員、創価の集団ストーカー、その他。RAPTさんは、実に多くの悪人たちから妨害工作に遭われています。なぜ、そこまでして、上級国民たちがRAPTさんに酷い妨害工作してくるのか。それは、彼らにとって都合の悪い情報が広まることを恐れているからです。聖書の「マタイの福音書21-12」でも、イエス様が神殿から商人を追い出され、体が不自由な人たちを癒されました。その時、ユダヤ人の祭司長や律法学者はイエス様の行いに腹をたてていたと書かれています。イエス様は正しい行いをされたのにも関わらず。いつの時代も、神様に反逆したユダヤ人が世の中を悪くしてきたことがはっきりと理解できます。世の中に彼ら、サタン・悪霊に魂を売った者の支配が及ばなくなると困るのです。

東京で私をストーカーしてきた男です。
実はさっきからずっと、私が東京で集団ストーカーされたときの話をしている動画をアップしようとしているのですが、何度もエラーになって、なかなかアップできません。
明らかにInstagramを運営している創価信者どもが、不正操作をしているような感じです。
もうかれこれ2時間以上、アップしていますが、未だにエラー続きです。
腹が立つので、東京で私をストーカーしてきた男の動画をアップすることにしました。
創価の集団ストーカーについて↓
https://megalodon.jp/2020-0701-1855-39/https://matome.naver.jp:443/odai/2153412187173818501

創価に雇われたとおぼしき在日の集団ストーカーども。
私と奈々が、新宿の都庁の庭でお祈りしていたら、怪しげな男たちが次々と現れて、私たちの周りをウロウロとつきまといはじめました。
それで、私たちは大声で「ストーカーしてんの?」「創価なの?」と声をかけたのですが、彼らは何の返事もせず、ただ慌てたように黙ってどこかに逃げていきました。
最初は、彼らのことを麻薬の売人ではないかとも思いましたが、どう考えても、そうでないことは明らかです。
なぜなら、私たちは何度も彼らを怒鳴り散らして追い払っているわけですから、私たちが麻薬の取引を目的にその場所にいるわけではないことは、彼らにもすぐに分かったはずだからです。
しかも彼らは、私たちから声をかけられるたびに、何の返事もしないで、そそくさと逃げていきました。
私たちに対して、何かを売りつける意図はなかったということです。
このようなことから、彼らが集団ストーカーであることは間違いありません。
動画1
こちらが追いかけたら、そそくさと逃げていく男。
動画2と3
動画1とはまた別の男で、こちらが追いかけたら、やはり同じように逃げていったので、後ろから追いかけていって声をかけました。
この男の話からも分かる通り、彼らには何人も仲間がいて、パソコンを使ってストーカー行為をしているようです。
動画4
この動画に出てくる男が、今回のストーカーの司令塔ではないかという気がします。かなり苛立っているところを見ると、動画を撮影されたことをかなり嫌がっている様子です。
酔っ払いの男二人が、話の途中でやってきたのですが、他の男たちと違って、彼らは日本人で、かつ全く何の緊張感もなかったので、本当にただの通りすがりのように見えました。
もちろん、断定はできませんし、彼ら二人が在日どもを雇った創価信者かも知れません。
いずれにせよ、随分と面白い体験をさせてもらいました。
集団ストーカーの犯人の男
今朝、いつものように山にお祈りに行って帰っているとき、私を待ち伏せして、車で嫌がらせしてきた男です。
私はその車を最後まで追い詰め、彼が車を停めたところで声をかけましたが、何の疚しさもないなら、急にこんな風に声をかけられて、こんな態度を取ることはないでしょう。
「とぼければ、バレない」という素人臭い演技に思わず笑ってしまいました🤣
今日の集団ストーカーです。
今日も、通りすがりにパッシングしてきた奴がいて、なんとかその犯人を追い詰めることができたので、撮影しました。
Instagramだと拡散力がないので、いずれYouTubeにもアップしようと思います。
#集団ストーカー
#創価学会
上級国民の利益ばかりが守られ、庶民が潰される時代は終わりにしなければならない。
前回からの続きです。
東出融や中田敦彦のような上級国民は、自分たちの利益ばかりを守り、庶民が這い上がることを何が何でも阻止しようとします。
それと同時に、自分たちの利益を損ねる者が現れたら、直ちにその人を潰そうとしてきます。
そして、その実行部隊として、これまでは創価学会の信者やヤクザなどが利用されてきたわけです。
しかし、いつまでもそのようなことが続いてはいけません。
私たちがこのような世のあり方を完全に変えて、誰もが公平に栄えていく世界を作っていかなければいけません。

キリスト教の教会を破壊工作しているのは、やはり創価信者である可能性大。
キリスト教の教会を破壊工作しているのは、やはり創価信者である可能性大(2)



精神医療史 (smhc.or.jp)
--引用ここから--

日本の精神医療史
もともと中国の政治制度を輸入した平安時代の日本では、身体障害や精神障害がある場合、租庸調といった税制面で優遇措置がとられていました。また律令制度上では侍丁と呼ばれるホームヘルパーを派遣することになっていました。もっとも実際の運営では給料を出すゆとりもなかったので、家族や近隣者の中から侍丁を選んで税を軽減することで給料の代わりとしていたようです。
治療の面では神社やお寺の宗教的な活動としてサポートがありました。基本的には加持祈祷といった呪術的な要素の濃いものなんですが、それと組み合わせて薬草の調合がされていたようです。日本のお薬の神様はスクナヒコナなのですが、彼の名が付けられた「少彦の薬根」と呼ばれるセッコクという薬草は鎮静作用を持っています。また中世になると、薬師如来信仰と漢方薬が結び付いて輸入され、中国帰りの留学僧たちが新しい治療法を持ち帰ってきました。治療は長期にわたるものなので、寺院の近所の民家で寝泊りし、よく眠ては温泉に入る生活だったようです。いつの時代でもリラックスがなによりの治療法でした。
702 大宝律令、有疾者への課役免除。侍丁(看護者)の支給
1068 京都岩倉大雲寺、灌滝による癲狂者治療
1494 三河国、光明山順因寺(現羽栗病院)、漢方薬による癲狂者治療
1599 本多左内、泉州の浄見寺に爽神堂開基(現七山病院)。灸法による施療
1722 初の官立療病院として小石川養生所開設
1796 永井慈現、越後(新潟加茂市)に鵜森狂疾院設立(後の永井精神病院)
1808 武田一逕、安芸の竜口山神福寺(後の武田精神病院)にて漢方による施療
1840 山本秀詮、岐阜の鉄塔山天上寺にて催眠効果による施療
1846 奈良林一徳、江戸川小松川にて狂疾治療所開設(後の加命堂病院)
身寄りのない精神障害者は、寺社が保護施設として機能し、祭務や医療活動の補助、清掃、私的警察機関として仕事を与えています。「宮籠」と呼ばれ、精神障害者だけでなく戦災者や伝染病者も含まれていました。 ただ戦国時代になると寺社勢力が独立国家としての性格を帯びてきたため、織田信長以降、荘園などの経済的基盤を寺社から失わせ弱体化させる政策が展開され、住みにくい世の中となり、五人制の強化により1800年以降は共同体による監禁が始まります。さらに明治時代になると、近代化のために伝染病患者の隔離が急務となり、その延長として精神病者も隔離の対象となります。私宅への監禁が、なかば義務化されます。 しかし相馬藩藩主誠胤が監禁され死亡する事件が契機となり、私宅監禁から「精神病院」への監禁が国策として施行されます。精神病院への入院を「監禁」としてとらえる監護法と、「治療」としてとらえる精神病院法とが並存しながら、その矛盾を抱え戦争の時代へと突入していきます。
1868 明治元年
1871 京都府愛宕南禅寺に、京都府療病院付属癲狂院設立
1879 長谷川泰、東京府癲狂院(現松沢病院)設立
1883 相馬事件(~1895)
1884 大島甲子太郎、京都愛宕郡岩倉村に、岩倉癲狂院設立
1892 阪本元良(阪本三郎の父)、大阪癲狂院設立
1900 精神病者監護法公布。感化法(私立救貧施設の容認)
1901 呉秀三、東京府巣鴨病院医長就任。拘束具の禁止や作業療法導入など改革
1917 マラリア療法始まる(ワグナー・フォン・ヤウレッグ)
1919 精神病院法公布(代用精神病院基準)
1922 持続睡眠療法始まる
1933 インシュリン・ショック療法始まる(マンフレッド・ザーケル)
1936 ロボトミー法(前頭葉切除手術)発表される
1937 電気ショック療法始まる(セルレッティ)
1940 国民優生法公布
戦時中は食糧不足のため病院閉鎖となったところが多いそうです。またドイツではナチスが「安楽死」の名目で10万人近い精神障害者を殺害している暗黒の時代でした。
やがて日本は戦争に負け、戦後の混乱が落ち着いてくる中で、再び精神病の治療がクローズアップされてきます。様々な薬物療法が開発されたのもこの頃で、精神病も不治の病ではなくなり欧米では在宅治療に切り替わっていくのですが、日本では1964年、ときの駐日大使ライシャワー氏が分裂病の青年に刃物で刺傷される事件が起こり、再び精神病者の「隔離」が国策となります。アメリカへの面目を気にした日本政府は精神病院の開設基準を緩和し、劣悪な環境の精神病院乱立を招きます。
このことは、入院患者を病院職員がリンチで殺害した宇都宮事件を引き起こします。精神病院が治療機関として機能していないことを白日の元にさらしました。この反省から1988年に、入院患者の人権を尊重し社会復帰を支援する精神保健法が制定され、現在に至っています。入院は本人の意思によることと、電話や通信のプライバシーを保護することが原則とされています。
1945 終戦
1950 精神衛生法公布
1950 イミプラミンの抗鬱作用発見
1952 国立精神衛生研究所設立
1954 レセルピン療法発表
1958 ハロペリドールの抗精神病作用発見
1964 ライシャワー事件。東京オリンピック
1965 精神衛生法一部改正
1965 全国精神障害者家族連合会発足
1970 朝日新聞「ルポ精神病棟」連載
1970 心身障害者対策基本法公布
1984 宇都宮病院事件
1988 精神保健法施行
1995 精神保健法改正、「精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)」となる

--引用ここまで--

古来、精神医療と神社仏閣は深く結びついていたようです。ここで、よく読んでみますと、「加持祈祷といった呪術的な要素の濃いもの」というのが目につきました。「呪術」で精神的な病を治すというのは違和感があります。


呪い - Wikipedia

--引用ここから--

「呪う」という言葉は「祝詞(のりと)」と語源的には同じで、「宣(の)る」に反復・継続の助動詞「ふ」が接続したものであり、古代の言霊信仰に由来するものと思われる。
日本では既に死んだ人・動物や神霊がなす呪いを特に「祟り」と呼び分けることが多い。呪術(まじない)とも関係が深いが、呪術という言葉は意図および結果の善悪にかかわらず用いられるのに対し、呪いという言葉はもっぱら悪い意味で用いられる。
呪いは生きた人間による場合には、呪文、祈祷、その他の言語的、呪術的または宗教的な行為によって行われるとされることが多い。具体的には宗教・文化的背景によって様々な違いがあり、神・悪魔その他の強力な霊の力を借りてなされると考えられたり、あるいは自己の霊能力によると考えられたりする。日本では、丑の刻参りが呪術的な行為によるものの代表的なものである[2]。

--引用ここまで--


呪術(まじない)は結果の善悪にかかわらず用いられるとありますが、神社仏閣は悪魔崇拝に由来しているのですから、精神医療も悪魔崇拝者たちの温床の場と考えて間違いないでしょう。

神社仏閣に潜む悪魔たち。またはアガルタから悪魔のメッセージを伝える人たち。(RAPTブログより)


ここからは「呉秀三」に焦点をあててみます。


精神障害者は20世紀をどう生きたか (dinf.ne.jp)

--引用ここから--

精神病者監護法のもとで
 今から80数年前の1918年、日本の精神医学と精神医療の創始者としてよく知られている当時の東京帝国大学教授呉秀三は、その著書「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」で、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」という有名な言葉を残している。私はこの言葉ほど、切実に精神障害者の運命を表現した言葉はないと思う。この本は全国にわたって座敷牢の実情をつぶさに調査してその悲惨な状況を克明に記録したドキュメンタリーであるとともに、この非人道的な座敷牢を合法化し、その全国的広がりを許している「精神病者監護法」(1900年制定)と、これを黙認している明治政府を糾弾する告発の書でもあった。
 精神障害者の「此邦ニ生レタルノ不幸」の源泉ともいうべき「精神病者監護法」は当時、野放しになっていた、座敷牢や民間の収容施設を取り締まる目的でつくられた、監禁を合法化する法律である。「監護」という奇妙な言葉は、「精神病者監禁法」を主張する政府案と、「保護法」とすべきだとする、法案の審議に専門家として参画した東京帝国大学法医学教授片山国嘉(呉秀三の渡欧中、精神病学講座を兼任した)の意見の妥協の産物であると言われている。
 この法律をつくるきっかけとなったのが「相馬事件(1884年、明治17年)」である。旧相馬藩主相馬誠胤(1852-1892年)が精神病にかかり、座敷牢に入れられたことに端を発して、旧藩主の忠臣と称する錦織剛清が、当時の旧家老志賀直道(志賀直哉の祖父にあたる人)と精神科医が結託して相馬家を乗っ取ろうとした陰謀だと主張し、藩主に精神病の診断を下した東京癲狂院(都立松沢病院の前身)の院長中井常次郎、当時の東京帝国大学精神病学教室教授榊俶が訴えられるという騒動に発展した。結局錦織の敗訴、誣告罪が課せられるという結果に終わったが、この事件で明らかになった、不法監禁の野放しを取り締まるためにつくられたのが精神病者監護法である。
 この法律は、精神病者を社会にとって危険であり、監禁の対象であると見なし、座敷牢を「私宅監置」と呼び、監置の責任を家族に負わせるために「監護義務者」制度をつくり、また、この法律の施行を内務省と警察の管理下に置き、警察は、監護義務者が監禁の責任を果たしているかどうかを監視するというものであった。わが国の精神障害に関する法律が監禁の合法化で始まったという歴史を忘れるべきではない。
 呉らの私宅監置廃絶の運動は議会を動かし、精神障害者の医療を国の責任で整備するための法律「精神病院法」が1919年に制定された。この法律は国および道府県に精神病院の設置を促進することを求めたものであり、私宅監置廃絶に絶対に不可欠な法律であり、この法律の制定と同時に、呉らの要求してやまなかった精神病者監護は廃止するのが当然であったにもかかわらず、そのまま生き残ることになった。その理由は、1914年に始まった第一次世界大戦に参戦し、帝国主義の道を走り出したわが国政府が軍備拡張に要する莫大な国費を捻出するために、精神病院設置運営の財源を出し惜しみする必要があったからである。その当然の結果として、「精神病院法」とは名ばかりで、精神病院の設置は一向に進まないばかりか、「精神病者監護法」のもとで私宅監置の悲劇はいっそう拡大していった。
 30年にも及んだ精神病院法と精神病者監護法の並立なる奇怪な状況に終止符が打たれ、私宅監置が廃止されたのは、太平洋戦争が終わった5年後の1950年、「精神衛生法」が制定されたときであった。呉が「私宅監置の実況」で私宅監置の廃止を訴えてから32年の歳月が過ぎていた。呉はついにこの日を見ることができなかった。

 今年はわが国の精神障害に関する最初の根拠法令である「精神病者監護法」が制定されて100周年である。「精神病者監護法」のもとでの精神障害者の生きざまをあらためて振り返り、そこから精神障害者がこの国に生まれたことを喜べる未来を迎えるための教訓を学び取ることが大切である。

--引用ここまで--


Vol.12 2019年年頭に当たって 呉秀三先生のこと | 東京都立 松沢病院 (tokyo.lg.jp)

--引用ここから--

さて、松沢病院の歴代院長の中で、最も有名な人はだれか、と言われたら、松沢病院に関心のある人のほとんどすべてが第5代の院長だった呉秀三と答えるだろうと思います。呉秀三は1890年に後の東京帝国大学を卒業、1897年から1901年、オーストリア、ドイツに留学し、オーバシュタイナー、クラフト・エービング、クレペリンなど、その後の精神医学史に名を遺す巨人たちの下で研鑽を重ねました。1901年、帰国と同時に東京帝国大学医科大学教授となり、松沢病院の前身である東京府巣鴨病院の医長(院長のこと)となります。時に、呉秀三36歳、いくら明治時代とはいえ、呉がかくも若くして東京帝国大学教授、巣鴨病院医長となったのは、前任者、榊俶の急逝によるのですが、呉秀三は、以来1925年に退官するまで20有余年にわたってその職にありました。
 呉秀三の業績として最も広く一般に知られているのは、1918年に出版された『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』と呼ばれる書物です。これは1910年から16年にかけて行われた精神障害者の私宅監置に関する全国実態調査のまとめです。私宅監置というのは、1900年に公布された精神病者監護法に基づく、私宅での精神病者隔離のことを言います。公的機関が関与し、精神病によりやむを得ないと判断された患者についてのみ、戸主が私宅にいわゆる座敷牢のような構造を作り、患者を監置することを認めるというのがこの法律の趣旨でした。精神科病床などというものがほとんどなかった時代のことですから、勝手にやらせるより、公的な監督のもとに置こうということでしたが、結果として、この法律が劣悪な環境下に精神病患者を監置することに公的お墨付きを与えてしまったのです。その実態をつぶさに調査した呉は、この書物を発表し精神病者の処遇改善を訴えました。本書中に記された、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ,此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ。精神病者ノ救済・保護ハ実ニ人道問題ニシテ,我邦目下ノ急務ト謂ハザルベカラズ」という呉秀三の言葉は、現在なお、日本の精神科医療関係者を叱咤し、鼓舞する言葉として、広く知られています。
 昨年、呉秀三の事績を顕彰する「夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年」という記録映画が公開され、反響を呼びました。呉秀三は、100年前、抗精神病薬も、mECTもなかった時代に、松沢病院から拘束具を追放し、保護室の使用を減らしました。
 同じく昨年、NHKクローズアップ現代プラスが、松沢病院が、近年、拘束を劇的に減らしたということに関するドキュメントを報じました。100年前に呉秀三が一掃したはずの拘束を減らしたことで、21世紀の現在、松沢病院は再び脚光を浴びているのです。両方の取材を受けながら、私はとても複雑な思いでした。

 2012年、松沢病院の身体拘束率は20%に迫っていました。現在は2~3%です。どうして松沢病院の拘束がかくも劇的に減ったのでしょう。患者さんを縛って精神医療はできないと、職員みんなが思ったからです。拘束をしない、ということのために、病院の構造や人的配置を変えたわけではありません。それどころか2012年度の新入院患者数は2,400人だったのが、18年度は3,800人に迫りそうなので、職員1人が対応する患者さんの数はおよそ1.5倍に増加しています。だから、「もう少し人手があれば」、とか、「保護室がたくさんあれば」、といったことで、拘束を減らしたわけではないのです。
 夜間、休日などに警察官通報によって診察をした結果、入院となる緊急措置入院という制度があります。同じ救急でも通院中の患者さん、紹介状を持った患者さんと違って、緊急措置診察をする患者さんの大部分は、詳しい病歴も生活歴も家族状況もわかりません。下手をすると名前さえわからない。はっきりしていることは、警察官に自傷他害の恐れがあると判断されて保護された、ということだけです。夜間、休日ですから、医師も看護師も当直、休日体制で極めて手薄です。そのため、2012年度は70%弱の患者さんが入院時に身体拘束を受けていました。それが今は2%です。拘束される患者さんが劇的に減少したのと同じ時期に、救急外来で静脈注射によって鎮静される患者さんが統計的に有意に減りました。拘束をやめたら、大量の薬剤で眠らせなければならなくなるのではないか、と考えていた私の心配は、まったくの杞憂に終わりました。さらに、この間、翌日から自分で精神科の薬を飲んでくれる患者さんの割合も増えました(江越・今井2018)。現在の、松沢病院における拘束の劇的削減は、拘束をしないで入院を受け入れてもらうために、職員が救急患者と真摯に向き合い、時間をかけて説得し、患者さんの苦しみに寄り添うことによって達成されたのです。
 短期間でなしえたことは、短期間で逆戻りする可能性があります。これから100年後の松沢病院で、再び、拘束削減を目指した取り組みが行われるようなことにならないよう、こうした姿勢を、松沢病院の文化として根付かせなくてはなりません。今年も、どうかよろしくご支援、ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。

--引用ここまで--


東京都立松沢病院 - Wikipedia

--引用ここから--


松沢病院の前身は、明治5年(1872年)に東京府本郷に設置された養育院に始まる。その目的は、明治政府樹立後の内戦や廃藩置県による混乱によって生まれた浮浪者や行き場のない病人を収容することにあった[3]。
1879年(明治12年)7月に養育院が東京府神田に移転した際に収容者を調査したところ、120人中68人が精神疾患者であることが判明し、彼らの収容目的として、同年7月に東京府上野の上野恩賜公園に建てられた東京府癲狂院(とうきょうふてんきょういん、当時の精神科病院はこの様に呼ばれていた)を設立する。初代院長は東京府病院長長谷川泰[4]である[3]。
その後1881年(明治14年)8月に本郷区向ヶ丘、1886年(明治19年)6月に小石川区巣鴨駕籠町に移転。第3代院長には、東京帝国大学医科大学精神病学教室初代教授に就任した榊俶(さかき はじめ)が兼任する[5]。
1889年(明治22年)に東京府巣鴨病院と改称。
1901年(明治34年)に東京帝国大学精神病理学講座主任教授・呉秀三が巣鴨病院院長を兼任し、病院改革を始める。大きな改革は次のとおり[6]。
拘束具の使用禁止。それらをすべて焼却処分する。
現在は、やむを得ない場合において身体拘束が使用されている。
患者の室外運動の自由化 - 看護職員や家族が付き添い、病院構内での運動を自由化。
旧来の看護観を持つ看護長などリーダー格の職員を更迭し、看護職員の人員と意識の刷新を図る。
新しい看護長には医科大学附属病院で看護学講習を聴講させ、看護技術の向上を図る。
患者処遇の改善と治療方針の刷新。
作業療法の積極的活用。
病棟の増改築の実行。
1916年(大正5年)、東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離[7]。
1919年(大正8年)11月7日に荏原郡松沢村に移転し、東京府松沢病院になった。敷地面積は6万坪。これは呉が入院患者を約600名とする予定で「患者さん一人100坪。全部で6万坪が必要」と東京府に要請したものが承認されたため[8]。各病棟は□型をしており、閉鎖病棟の患者も中庭には出られる構造になっている[7]。
1943年(昭和18年)7月の都制開始とともに現在の名称になる。
1949年(昭和24年)、公務員法による国家公務員と地方公務員の兼職禁止により、院長内村祐之(東京大学教授)が退任する。

--引用ここまで--


この記事の冒頭の引用ツイートより、呉秀三は箕作家の箕作阮甫の孫にあたるとご紹介しました。箕作家は青出雲(青をシンボルカラーとする出雲族)ですので、敵対勢力である明治政府=薩長土肥=毛利家=秦氏と白出雲(白をシンボルカラーとする出雲族)から精神医療利権を奪いたかっただけなのです。つまり、明治政府が行っていた私宅監禁を止めさせるためではなく、また、精神病患者の処遇を良くする目的があったわけでもありません。単に、呉(箕作家)らが関わる精神病患者を精神病院に誘導して、利用して金儲けしたかった。だからこそ、「患者さん一人100坪。全部で6万坪が必要」と東京府に要請したのです。呉が院長だった松沢病院も患者が自ら進んで精神薬を服用することをあたかも良いことのような記事を書いています。すでにご存知の方も多いと思いますが、病院も下手に信用すると大変な目に遭うことになります。

RAPTブログやRAPTさんのInstagramでは、この世の常識はすべてイルミナティにより作り出されたインチキ、デタラメ情報ばかりだと証明されていますので、ぜひともご覧ください。

RAPT×読者対談〈第115弾〉癌という病気は存在しない。(前編)
RAPT×読者対談〈第115弾〉癌という病気は存在しない。(後編)
日赤の集めた献血のほとんどがガン治療に利用される。
RAPT理論によって、癌という病気は存在しないことが暴かれましたが、日本赤十字社の集めた献血のほとんどが抗癌剤治療のために使われるそうです。
医療とは、ほとんどが嘘の上に成り立ち、その嘘によって多くの人が犠牲となり、多くの医者たちがボロ儲けしています。
ですから、何の症状も出ていないのに、医者から病気と診断された場合、一切その話を真に受けないことが知恵だと言えます。

この世の常識はすべて噓。
前回の対談からの続きです。
放射能→存在しない。
癌→存在しない。
コロナ→存在しない。
宇宙→存在しない。
ということを、これまでRAPT理論によってことごとく解明してきたわけですが、つまりこの世の常識はすべて噓だったということです。
そんな非常識だらけの異常な世界に生きている我々は、各自がそれぞれ常識と非常識をきちんと見分けて、正常な考えだけを持つように努力しなければなりません。
正常な考えを持って生きてこそ、人生は楽になるし、幸せになるし、成功できるからです。
というお話をしています。


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