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「みんなのために」と「誰のためでもない」はコインの裏表
みんなちがって、みんないい
みんなともだち。みんななかよし...
「みんな」って一体、誰だろうか?
国家と「すべての人びと」
国家とは、「すべての人びと」のことである
ところで、「すべての人びと」というのは、
「だれのことも」気にかけたりしない。
「すべての人びと」に仕えるということは、
「だれにも」仕えないというに等しい
バルザックは、「君主」という具体的な支配者の代わりに「すべての人びと」に仕えるようになった近代国家では、むしろ規律がなくなったと唱えた。
日本国家の実態を見ていると、まさに「すべての人びと」に仕えることになっているが故の責任感の欠如というか、「だれかのため」という意識の欠如というかが感じられる。そして「自分(たち)のため」という意図が見え隠れする言動が止まらない。
福祉国家と「すべての人びと」
フィンランドやスウェーデンなどの北欧諸国は、高負担高福祉国家というイメージを持たれている。それらの国で福祉が発展したのは、実は民族が単一的でまとまりやすかく、仲間を助けようという意識が簡単に芽生えたかららしい。
対する移民国家のアメリカでは、様々な民族が暮らす中、どこまでを助けるべき仲間の範疇に含めるのかで意見がまとまらず、自己責任福祉となっている。
つまり、「みんな」を手厚く支援する福祉国家でも、支援の対象となる「みんな」をどこかで線引きしているわけだ。どこまでが、自分たちの仲間か。その線の中にいる人たちが(手厚い)福祉の対象になり、そこから外れると支援されない。
結局「みんな」とは?
「みんな」という言葉の定義自体も、「そこにいる人すべて。全員。」
つまり、「そこにいない人」もいる訳で、その人たちは「みんな」に含まれない。
今流行りのSDGs。
誰一人取り残さないというのが目標16に掲げられているが、誰一人、とは、どういうことだろうか?
現状の差別とか、対立とか、そして何より多くの経済大国を巻き込んでいる戦争の様子を見ていると、やはり「誰一人」という中に線が引かれている気がする。
身近なみんなが、世界中のみんなになると信じて
「みんな」というのが具体性に欠けて、線引きを要するものであるから「内輪」や「誰でもなく」なってしまうのであれば、具体的なところから始めてじわじわと広げていけばいいのでは?そんな感覚で私個人はいる。
例えば身近な家族から、友達から、同僚から。身近なところをベースに。
でも身近な人の繋がりや生活をたどると、地球の裏側の人や生き物の生活にまでたどり着く。それが、行く行くは「みんな」になる気がする。
というか、身近な人を大切にできずに、みんなを大切にすることなんてできるのだろうか?
「身近な人」を笑顔にする。
「身近な人が笑顔にしたい人」を笑顔にする。
「身近な人が笑顔にしたい人が笑顔にしたい人」を笑顔にする。
...と書きつつも、このアプローチはどこか、身内限りになる(つまり線引きされた中での「みんな」)可能性がある気がする。
では、どうすればいいのか。
なんか、こんなに難しく考えなくてもいい気がするのだが、文章にしようと思うとぐるぐるグルグル。
インスピレーション源 / 引用:
「政治家の責任 政治・官僚・メディアを考える」著・老川祥一
「社会福祉の歴史」(ポッドキャスト)歴史を面白く学ぶコテンラジオ
その他 仲間との会話