
中国水害、果たして他人事か
※以下の記事は2021年に書いたものです。
中国河南省の事故の実態
中国河南省の大水害の報道を見て、その被害の大きさに目を背けたくなるほど痛ましく、心から哀悼の意を表します。濁流が市内を傍若無人に流れ、多くの人、車両が無造作に流される様は、これが近代都市の実態なのか、こんなに脆いものか、まるで水に浮かぶ浮き草のようではないか、と。
その中でも、人は助け合い励まし合い、命を守ろうとする懸命な姿に大きな感動を覚えます。
小生も、昭和34年の伊勢湾台風では名古屋市に住んでいた、家屋が被害に遭い、隣接の中学校の体育館に避難した。まだ小学校5年生だったが、その恐怖は肌で感じた。台風一過後は、全面海となってしまった港区、南区の現状を見て、改めてその被害の深刻さを感じた。この台風で犠牲になった人は6000人を超えた、忘れられない記憶だ。
自然災害は避けては通れない、人類は正しくその戦いの連続だ。堤防を築き、ダムを構築し、延々と水との戦いを繰り広げて来た。故に、治山、治水を収めたものが、古来名君、聖君と称えられてきた。
近代文明は土木技術の飛躍的発展により、強大なダム、長大な堤防を構築し、その近くに近代都市を形成し、便利な生活を手にしている。何も無ければ、これほど素晴らしい生活はない。スーパーには物が溢れ、整備された道路には車がひしめきあう。
しかし、その基盤の脆弱さと一度強大な災害が発生すれば、その快適な暮らしは一瞬にして崩壊することを忘れてしまっている、否、考えたくないのかもしれない。また遭ったとしても、自分には関係ない、そう、常に他人事として、その現実を直視しようとはしない。
静岡県熱海市の土石流は明らかな人災だ。盛土を放置した結果であることは認識されているが、如何せんそれを放置してきた行政並びに住民の意識の低さも厳しく指摘される必要があるだろう。
熱海市行政で一番の不手際は、同和問題に屈したことだ。盛土を申請した会社は、その同和会社だ。人権を盾にするこの似非同和は社会の屑だが、戦後この同和問題に対し正しくメスを入れて来なかったことが、今回の大惨事を招くこととなった。
何度も行政指導をしたであろうが、そんな生半可の指導で、法を捻じ曲げることなど屁とも思わぬ不逞の輩が応じることはない。では、どうすれば良かったのか。簡単な事だ、許可しないことだ。
だが、申請書類が適正であれば許可しない訳にはいかないと。それが土台から間違っている。山の地形から見て、そこに盛土をすれば危険が発生することは容易に分かる。であるならば、最初からその地域に盛土を運ばせることを許可してはならなかった。
話は元に戻る。中国は強大な国となったが、その要因として、先の日中戦争がある。そして、日本が致命的な失敗をしたのは、その内戦に深く関与した事だった。蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党、共に覇権争いを繰り広げ国民党優勢の中、日本はその国民党と戦い、共産党が壊滅の危機に瀕していたのに、間接的に助けたことにより、現在の中国共産党が樹立した。
また、戦後、日中国交回復後は膨大な援助をしてきた。日本企業も、中国市場は魅力的で、人、物を惜しげもなく注ぎ込んだ。
そして、中国は飛躍的な経済発展を遂げた。が、現在の日中関係は果たして良好か、否、関係悪化に向かっている。もっと、酷くなるだろう。
大東亜共栄圏を掲げ、白人支配主義を倒した功績は、敗戦により何もかも否定されてしまった。特に中国は、戦後いち早く戦地から日本兵を日本内地に送り返し、日本はその中国人の徳を感謝し、中国の復興に力を尽くしてきた。が、それは国民党(現在の台湾)で、共産党ではなかった。
それにも拘わらず、日本政府はその中国共産党を支援してきた。小説家、山崎豊子さん著「大地の子」は、その中国共産党の悪辣な所業を赤裸々に描いている。敗戦により、卑屈になった政治家は利権を得るため、その共産党に国民の税金を浪費した。挙句が、尖閣諸島を実質支配される事態を招いた。
河南省の水害に戻るが、ユーチューブの動画でその被害の深刻さが良くわかるが、一歩引いて見ると何か滑稽さも感じる。市当局の故意の情報開示の遅れが、この惨事を招いたことは確かだが、かといって市民も何もかも知らないと言う訳はない。特に、中国のネットワークは日本より進んでいる。
情報は拡散しているにもかかわらず、地下鉄に乗る、そして助けを求める。高架下の低地の道路を多数の車両が通行する。この有様を見ると、この危機意識の無さは何だろう、何故もこうまで無防備だと、唖然とする。
傘をさしながら濁流渦巻くなか、ロープを頼りに大勢が道路を移動している。わざわざ、スーパーの建物から離れる光景に違和感を覚える、高い場所に避難し水を引くのを待ち、救援を待つべきなのに。
日本とて水害は他人事ではない。毎年河川の氾濫、土砂崩れは人的、財的被害を増加させている。治山、治水が如何に困難か、平野が狭い日本は危険な山肌の近くや、低地帯に家を建てるしかない。被害に遭えば、何十年に一度だからと諦めるしかない。
が、果たしてそうなのか、私は違うと思う。戦後日本が一番大きな過ちを犯してきたのは、大都市中心の政治、経済構造だと考える。特に、大都市の東京、大阪、名古屋を中心とした経済圏に大きな過ちがある。人口が集中する大都市には、全ての物が集まる。特にエネルギーはその最たるものだ。この膨大な電気を供給するのは地方だ。水力、火力、原子力、風力、皆地方だ、そしてそれを長大な送電線が巨大都市に送り込む。そして国の予算も常に大都市中心だ、特に東京は多くの人の汗と努力を下敷きに享楽に耽っている。
話は少し飛ぶが、コロナウイルスの拡散は全て大都市から始まり、その終息の目途は立っていない。ワクチンで、それを封じ込めようとしているが、次々と発生する変異株に翻弄されている。人口が密集すれば、そのリスクは拡散することは分かっていながら、誰もその便利さを手放したくない。中国の、水害に遭うと分かっていても地下鉄に乗る心理を笑えない。
災害は、人類は避けては通れない。未来永劫完全に防止することは、宇宙が消滅しない限り続くだろう。問題は、その被害を如何に最小限に防止するかだ。それはまた、税金を如何に有効に使うかだ。
中国共産党は近年軍備を拡張して来た。三峡ダムの巨大な水力発電は中国経済発展、その延長線上の軍備を強大にならしめ、台湾危機、南シナ海の実行支配、尖閣諸島とアジア並びに全世界に緊張を齎している。
だが、足元では河南省初め各流域都市及び山岳地帯で毎年甚大な被害が発生している。中国共産党はその被害実態を正確に公表することなく、中国人民も大半はその事実を知りながらも、共産党の独裁支配に抵抗することを諦め、一時の享楽に耽っている。
だが、日本が中国を笑えますか。日本も近年は各地で深刻な事態が発生している。果たして行政、そして我々はその事態に真剣に向かい合っているのだろうか。確かに引き続く災害に対し、避難指示を呼び掛けるハードそしてソフトは充実してきているだろうが、先の熱海の人的土砂災害を未然に防止するハード(確たる行政指導)、ソフト(住民意識)は充分だろうか。
中国国民は、何も中国共産党に期待はしていないだろうが、急速な経済発展で、車を所有し海外旅行や大量の物質を得ることが出来る今の境遇にすっかり満足し、このままでは国が壊滅してしまう危機感を持っている中国国民は本の僅かだろう。
だが、その中国国民を日本国民は笑えますか。我々だって地に足のついた生活を送っているのでしょうか。特に大都市圏を中心とした市民は、一時の享楽に浸っているのではないでしょうか。コロナウイルスが蔓延している中、東京都民は連休ともなれば地方に大移動し、それを拡散させている。
福島原発事故は膨大な電気エネルギーを東京に送り続けて来た結果だとも半面言えるでしょう。原発が、安全、安心と広めて置きながら、関東圏に設置しなかったのは欺瞞としか言いようがない。
しかし、それを受け入れた地方にも責任がある。先の熱海災害も、熱海市民は盛土が山頂に運ばれるのを目撃していたのに、その危険性を声高く叫ばなかった。中国国民が目先の欲望に浸っている様子は、我々日本人も同じです。
中国共産党が一党独裁だとその弊害を説く日本は、戦後自民党がこの国の政治を牛耳ってきました。不正が発生しても、その非を厳しく咎めることなくその独裁を許して来たのは我々です。
政治理念を持たない国民は不幸です。国が如何にあるべきか、暮らしは如何にあるべきか、正義、秩序は如何にあるべきか、人生は如何にあるべきか。人として如何にあるべきか。戦後、その全てを我々は放置し、考えなくなってしまいました。これでは中国を笑えません。同じ穴の貉です。
今後の対策
人命軽視も甚だしい中国共産党、その共産党支配の中国に物や人を大量に送り込む日本、経済発展という美名の元、資本家だけが肥太っているのは中国だけではなく、日本も同じです。また、新疆ウイグル自治区の強制労働を先進諸国は猛烈に批判し非難しているのに、経済を優先する日本は傍観者で、とてもその態度、対応は先進国とは言えないでしょう。
戦後見失ったものは、日本人としての自立心でした。先の大戦が、列強の圧迫からアジアを解放する意義もありましたが、戦後はその全てを失念し、徒に経済援助だけをして、日本としてアジアをどのように導きかつ協調していくのか、明確な理念が欠如したまま、僥倖の経済発展に胡坐をかいてきました。
東京一極中心主義は、政治、経済に今や硬直化を招き、今度のコロナウイルスでいみじくもその集中が、コロナを終息させるに邪魔な存在であることを気付きながらも、尚も何時かは終息するだろう、そして元の生活に戻れるだろう、常に自己都合の良い、“だろう”思想に慣れきっています。
ネット社会の急速な発展は、最早集中型の都市機能は不必要です。少なくとも、政治と経済は分離しなければなりません。このままでは、何時までたっても政治と経済の癒着はなくなりません。
法律がある、それに守られている、それは幻想です。法律は常に為政者のものです。ましてや、自民党政治を許して来た我々は、その法律体系が常に強者だけが利を得るように構成されています。
良く考えて見て下さい、三権分立と言いながら、法の番人である最高裁判所が下した判決は、常に行政側に傾いています。裁判所事態が、経済発展を優先する判決を出しています。裁判官の良心と言いながら、裁判官も人の子、その独立性を維持して来たと胸を張って言い切れる最高裁判所裁判官とその下級裁判官は何人いますか?
中国は急速な経済発展による軍事力の増強で驕り高ぶり、軍事大国のアメリカに対抗心を燃やし、南シナ海、東シナ海を制圧し、太平洋に乗り出そうとしています。協調性のかけらもない中国に日本外交は常に傍観者及び時には諂う、また一部政治家は媚びを売っています。誠に恥ずかしい限りです。中国人は、北海道初め日本の土地を買い占めています、その所業を自民党政府は見て見ぬふりです。
オーストラリアは中国のその所業を許さず、敢然と立ち向かっています。が、日本だけが、摩擦は避けなければとならぬ、と傍観者を決め込むばかり、もうこれは国としての体面が維持されているとは到底言えません。
私は、日本が中国と喧嘩せよとは申しません。是々非々で中国と対応しなさいと申したいのです。中国の専横を許してはなりません。特に台湾問題は神経を使いますが、台湾応援は決して内政干渉ではありません。台湾の方達が中国帰属を望まないのは中国共産党の人権無視を知り尽くしているからです。
ユーチューブ動画では続々と救援物資を被災地に届ける映像が流れています。一見人道的な活動ですが、元を正せばかくもこのような悲惨な災害を受けることは無かった筈です。中国国民は多少の事では動じぬ逞しさを感じますが、裏返せば全てが雑に出来上がっていると感じます。都市構造の脆弱さを何とも感じていないように思えます。自分たちが砂上の楼閣に住んでいる事、一度災害が発生すれば多大な人的、物的損害が発生するが、それも膨大な人口、国土では微々たるものと考える。このような事なかれ主義の国民と付き合うにはそれなりの覚悟がいります。
さて話は右左に飛びますが、コロナを終息させることは容易ではありません。全世界中が一致協力してコロナと戦う覚悟が必要です。人、物の交流の縮小は、世界経済に打撃を与えるでしょう。しかし冷静に考えれば、行き過ぎた経済は地球環境を悪化させてきました。脱炭素を唱えるならば、経済の縮小は受け入れるべきではないでしょうか。
日本はその先駆けでなくてはなりません。何度も言いますが、政治と経済は切り離すべきです。政治が介入しないことが、健全な経済活動を促進します。
首都移転、東京は経済中心、政治は地方分散で良いではないですか。国会議事堂は東京でなくても良いではないですか。政治家が集まりやすくしない方が何を決めるにも早くなります。派閥による政治資金集めも無くなります。企業も政治家との癒着、つまり便宜を貰う代わりに政治献金することから解放されるでしょう。財界も、政治家と癒着を断ち、本当の近代的経済活動を行うべきでしょう。
華美な生活を求めてはなりません。産業革命で確かに人類は膨大な富を得ましたが、その代償は地球環境の悪化を招きました。加減を知らぬ経済活動、その富を一人占めしているのは極一部の富裕層です。その富裕層の為に我々は働かされています。その現実を直視し、駄目なことは駄目だとはっきり言える国民が多くなることが、我が国を発展させ、世界貢献に寄与出来ると考えます。