
きらきら✨な話 No10:”たとえ”は形式知なのか暗黙知なのか?
知識創造でいちばん大切なコンセプトは暗黙知。
「暗黙知xきらきら」な話、その10。
あるゼミ生たちが自主的に『知識創造企業(新装版)』を読んでいる。読んでいて疑問に思ったことがあるので時間をとって、と言われたので、オフィスアワーに来てもらった。
話をしていくうちに、
「表出化で言われている”たとえ”って、ほんとに形式知なんすかね?なんか、暗黙知っぽくないですか?」
おおお!
なんて、鋭い視点!
「そうなんだよねぇ。たとえって、人によって受け取り方も違うよねぇ。
なので、氷山モデルで言うと、ちょうど海面あたりなんだよね。まだもやもやしているよね」
この”もやもや”。なにかというと、
ひとりが暗黙知をたとえを使って形式知化したら、その形式知を受け取った相手の中では、自分の中の形式知や暗黙知と照らし合わせて自分なりに再構築するというプロセスが発生する。これを「ひとりSECIモデル」と(勝手に)呼んでいる。それぞれひとりSECIモデルを回しながら、ふたりの間ではSECIモデルが回っているところがもやもやの正体かと。
たとえだけでなく、画像・動画・イメージで共有するもの(たとえば、グラレコ)も、このもやもやの原因になる。そして、抽象的な言語であっても、その言葉の印象や理解は人それぞれなので、もやもやの原因になる。
だからこそ、人は対話をして、もやもやを払拭し、間を埋めようとする。なので、知識創造では、対話をケチってはいけない。その場での生産性はひょっとしたらあまり無いかもしれないし、情報を搾取されていると思うかもしれないけれど、知識は相互のやり取りの間からしか生まれない。
『知識創造企業(新装版)』
原点に戻ることは大切だと改めて思った次第。