小山田氏の過去のいじめ問題について
#KENMAYA です。
東京オリンピックの演出メンバーでもあるミュージシャンの小山田氏が過去に行った「いじめ」について物議を醸しています。
まず率直な感想として、小山田氏はオリンピックに関わるメンバーとして不適格なのはもちろん、当記事では詳細について触れませんが彼が行った「いじめ」とされる内容について、一般的な「いじめ」のイメージを大きく上回る非道なものであること、そして彼がいくら今謝罪と後悔の意思表示を行ったところで、大人になってから音楽雑誌のインタビューでそれを武勇伝のように語っていたこと、などから彼を擁護することは一切できず、不快感しかないというのがわたしの感想です。
以前、わたしは「いじめ」について以下のような記事を書きました。
だいぶ昔の記事で少々読みにくいところがありますが、ご容赦ください。
この記事では「いじめをなくすことはできない」と結論づけています。なぜならば、人間はコミュニティ内において自己存在の肯定や権威のため、誰かを相対的に貶めることによって勝ち上がろうとする本能があるからです。
これは人間誰しもがもつ競争意識、本能であり、それを理性的に防ぐのであれば法や秩序といった権力機関の介入が不可欠なんです。
ネット上では過去の話をいつまで持ち出すのか。いじめは未来永劫贖罪しなくてはならないのか。といった彼を擁護する言論も見受けられます。
なるほど、確かに刑法で定められた法的措置を受けたわけでもないのに、過去に犯した罪は一生責められなければならないのか。という言説も最もです。
しかし、その言説がまかり通るのであれば、「バレなければどんな犯罪を犯しても問題ない」ということになるのではないでしょうか。
刑法はあくまで犯した罪が発覚し、裁かれるときに適応されるものです。ということは、発覚さえしなければどんな罪でも時間経過と共に社会的に許されなければならないのでしょうか。『良心の咎』や『道徳観』はどこにいったのでしょう。
いじめた側はいじめた事実を自分の都合の良いように記憶を改ざんし、いじめられた側はいじめられた事実を一生鮮明に記憶していると言われています。成長期における、人格否定や人間としての尊厳を踏みにじられる行為は、一生忘れることができません。
わたし自身、中学生の頃、悪ガキすぎて中学校から放逐された経験があります。大人ですら手を焼く悪ガキっぷりでしたので、多くの叱責を受けた記憶があります。わたしが悪いのですから当然です。しかし今でも記憶に残っているのは、放逐される当日、当時の校長から「君は社会不適合者だ。我が校には相応しくない。将来は犯罪者になる。」と忌々しげに言われた一言です。
前半部分は言い当てられたのかもしれませんが、少なくとも未だわたしは犯罪に手を染めてはいません。しかし残念なことに、この一言はこれからもわたしの記憶に残り続けるのでしょう。言われたシーン、言った校長の名前、声のトーン、同席していた教師、全てを鮮明に記憶しています。
いじめの記憶とは少し異なりますが、このようにショッキングなシーンというものは何十年経っても記憶に残り続け、本人を苦しめ続けるのです。
恐らく言った本人はもちろん、周囲の人間もわたしという存在などとうの昔に忘れ去っているのでしょうが、人間関係とはこういうものなのです。
いじめた側がいくら反省や後悔の弁を述べたところで、いじめられた側がその苦しい記憶や呪縛から解き放たれるわけではありませんし、長きに渡りその忌々しい記憶によって苦しめられ続けてきた時間を取り戻せるわけではありません。
わたしの場合はこの記憶を自分への戒め、世渡り上手になるための土台として活用させてもらいましたが、そうではない人も多くいるということです。結論として、いじめた側はいじめた事実から目を背けず、一人の人生を台無しにしてしまったかもしれない、という『良心の咎』を一生背負って生きていく覚悟をもって頂きたい。わたしはそう思います。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
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