翅毟り、詩撃ち
河津聖恵『「毒虫」詩論序説――声と声なき声のはざまで』
宮尾節子
「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。」
ある朝、同じくカフカの小説『変身』の有名なこの冒頭部分の意味に「初めて読み解けたと」、目覚めた河津がいた。その朝とは、「深夜、安保法案(安全保障関連法案)が可決し、ほとんど眠れないまま迎えた朝」である。「毒虫」とは己自身の変貌ではなく「私は何も変ってない」、一夜で「戦争が出来る国に」となった、外の世界の変貌だと目の前の現実に引きつけて、ザムザを読み解く。つまり私を毒虫に変身させたのは、世界の毒虫化だと事態を逆転させる。河津はそのような逆転した世界で、もっとも毒虫的であることは、もっとも人間的であると了解し、「毒虫たらんとした人々」を本書で採り上げる。
「ああ、久しぶりに人間の声を聞いた」と彼女の言葉を引きながら「生涯をかけて、詩や言葉つまり人間を否定するものとたたかった」「意思としての詩の可能性」を切り拓いた人として茨木のり子を紹介する。
「毒虫」には黒田喜夫の代表作「毒虫飼育」も重ねられている。「共同体の言葉として意識が生み出されるのと同時に、排除されて生まれた無意識=『野』が深く拡がっている」その野の声(無声)こそが詩の声と「無声」を捉え、耳をすませた詩人が黒田喜夫だと河津は言う。
戦争責任と植民地支配といういわば日本の黒歴史に向き合い続けた詩人として「黒曜石」「月母神」と讃えながら高良留美子の仕事を高く評価する。戦争体験について「列島」派は戦争責任と向き合う詩を模索したと評価し、現代詩の系譜として今でも我が物顔の「荒地」派に対しては「戦争責任を引き受ける態度が決定的に欠けていた」と批判する高良に、河津は毒虫を見届ける。
これが河津聖恵の骨頂か、と唸ったのは「日本人が聞き届けるべき問いかけ――金時鐘『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店)」の書評の章だ。済州島四・三事件から日本に逃れてきた詩人が、事件の当事者として目の当たりにして被った、毬栗のイガの固まりのような「心の深い傷」を乗り越えて「六十数年後にして初めて綴った回想記」。それは「痛みに抗いつつ、あるいは痛みに触れることで蘇った記憶。思いのつよさのために長めにもなる一文一文の言い回しや文体は、時に詩的直感をきらめかせ、雅な香りさえ漂わせる。」としながらも「読者はイメージや映像によって想像力を自由に飛翔させることは出来ない。詩人の言葉の力によって、浮かび上がる『現像』におのずと向き合わされるのだ。」想像ではなく、現像に向き合えと訴える。「在日を生きる、実存の葛藤」が、類い稀な日本語の力を、美しい詩語を鍛え育てるのだ――と。この時、私は河津が『鶴の恩返し』の鶴のように、自らの想像の羽をむしり、いやその羽で錦を折ることすら放棄して、ただ深く贖罪にこうべを垂れ彼の国の人に寄り添う姿を幻視する。
植民地支配や侵略戦争という蛮行を、隣国人や日本人に受け入れさせる始まりにあったのが他ならぬ、我々の大切な詩歌であったことが悲しい。「やさしい歌として、親しみやすい小学唱歌や童謡、叙情歌として」涙ぐませ、陶酔させ、我々の魂を骨抜きにしていったのが詩歌であることの罪をを思い知れば、私は思う。河津のように蝶を捨て、我が陶酔の翅毟り、我が身の詩撃ち、我が言葉を遡って地を這い毒虫足らんとすることこそ、詩人足らんとする矜持に他ならないと。
河津に蝶であることを捨てて、毒虫足らんとする覚悟を見る。河津は、翅毟り、詩撃ち見せる。その覚悟のそこにある詩人である前に、人間たれとする温かさを。詩と深く出会うことは、人間と深く出会うことだと、気づかせてくれる。そして、深く人間と出会うことは、人間の温かさと出会うことだと、河津聖恵は教えてくれる。出会えてよかった、出会わなければならなかった好著だ。詩は毒虫の声だ。
加害の自覚から、はじめよ。共同体の声に取り込まれるな、絶望の場所こそ希望の場所、希望の生まれる場所。どんなに回り道であっても目指すべきは人間の詩である。憎しみの深さに寄り添い、人を鍛えることが、詩を鍛えることに他ならない。最北の言葉に寄り添い、あるべき南を指し示す、慈母の温かい声が聞こえる。
反戦、人権、弱者に寄り添う。詩に寄り添うとは、人間に寄り添うこと。詩の声は、人間の声、それを押し潰そうとするものに抵抗すること。その絶望に立ち向かうことが毒虫なら、毒虫こそ真の人間であり、その絶望こそが詩の希望である。
コロナに猛暑と厳しい夏も終わり、今は虫の声が賑やかな九月、河津の毒虫の声をそう聞いた。
*『現代詩手帖10月号』の書評欄に寄稿した時、割愛した部分も補足しました。