くも

歌は歌に候

好きなことばだとして、今日ツイッターにつぶやいて思い出した記事ですが…もう一度ここに。

*2015年12月に早稲田大学の大隈講堂で開催された「緊急シンポジウム・時代の危機に向き合う短歌」の感想を2年前の『うた新聞』1月号に、寄稿させてもらった少し古い記事の原稿ですが、ここに書いた<胸騒ぎ>がまだ、治っていない気がして、今いちどこちらに、再掲してみます。ご高覧頂ければ幸いです。

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「歌は歌に候」

                             宮尾節子

 寒空に黄色く色づいた銀杏の樹を見上げながら、早稲田大学の構内を抜けて大隈講堂に向かった。最初は小講堂の予定が参加者が大勢のため大講堂になったとのこと。「緊急シンポジウム」と前置きされて「時代の危機と向き合う短歌」との題に、隣りの詩書きとしても緊急に向かわざるを得ない気持ちになった。驚きの動員数も、徒ならぬ時代の気配に〈胸騒ぎ〉を多くの人が感じ取っていることを知らしめた。

 最初の永田和宏氏による講演「危うい時代の危うい言葉」は、人として歌人としての両方の立場から、「今いったい何が起きているか」を歴史的にも、文学的にも丁寧な検証があり、圧巻だった。時代を学ぶと同時に短歌を学んでいる体験と言えばいいか、いわゆる政治運動家とは一味も二味も違う、感銘を受けた。「民衆から言葉が奪われてゆく4つのステップ」として「1言論抑圧・2自粛という形の萎縮・3言葉に対する脱感作、不感症の誘導・4抵抗できないオールマイティの言葉が民衆を追い立てる」の4点を掲げた。

 1、2については「梅雨空に9条守れの女性デモ」という俳句が「現政権批判にあたる」とかの配慮で、公的機関が発行する誌面から取り下げられたことなど例に「公務員には、憲法を守ることが義務づけられている」はずと矛盾を指摘した。そのような自粛が表現の萎縮につながり、やがて人々がお互いを監視し合う「隣り組」の出現が「いちばん怖い」と伝えた。

 3・4についても政治家より、本当に怖いのはいつの間にか変容していく我々自身だとして、人の心が骨抜きにされていくシステムや、ハウツーを表現用語・医学用語を駆使しながら、解き明かす技には息を呑んだ。例えば「見せけち(見せて消す)=花も紅葉もなかりけり等」に似た政治家の問題発言(例「戦争行きたくないは利己的だ」ほか)と、その後の訂正・謝罪。それを何度も繰り返すことによって、「脱感作(アレルゲンを徐々に入れて無反応にする療法)」に似た言葉への不感症状態が起きること。「国益・非国民」など反論できないオールマイティの言葉を多様して「民衆を追い立てる」などがあると、言葉の側から現状に警鐘を鳴らした。宝物のような言葉ももらった。

「歴史的出来事は残るが、その時の庶民の感情は残らない」それをするのが詩歌の役目だということを氏は伝えてくれたのだ。〈そうか!〉重い言葉だが、〈感情の可視化あるいは歴史化〉という役割に、歌うことに希望を与えてもらった者は、私だけではないはずだ。

 今野寿美氏によるミニトーク「時代のなかの反語」は、与謝野晶子の詩「君死にたまふこと勿れ」が取り上げられた。初めて暗唱できた詩だったのでよく覚えているつもりだったが、なぜか問題の第三連だけが全く記憶にないのが不可思議だ。それは、さておき三連の内容が「天皇制批判」だと大町桂月に誌面で厳しく批判されての晶子の反論が、一枚上手の感があり、唸った。

「あれは歌に候」弟を思う「まことの声」を歌ったまでのこと。何が悪いというの?「私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」とまるで啖呵のように畳み掛けるところは胸がすく。先ほどの「庶民の感情が歴史に残る」瞬間を見るようだ。尚且つ「歌は歌に候」のひと言で、地上から一気に成層圏に突き抜ける爽快感が疾った。

 さらに、今野氏に最も共感したのは、次の項目「文学の言葉と政治の言葉」。かねがね私が安倍首相に感じていた事と同じ事を指摘してくれたからだ。それは遠さではなく奇妙な「近さ(親近感!)」だった。文学表現がより真実に近づくために使う飛び道具「虚構」と「修辞法」を、安倍氏もまた政治政策をより現実に近づけてみせるための飛び道具として、使っているのではないかという、懸念だ。
 
 それは「美しい国」に始まり、「思いやり予算」「積極的平和主義」「日本人に指一本触れさせない」「汚染水は完全にブロックされています」「健康に対する問題は、今までも、現在も、これからも全くない」「戦争を抑止する法案であり、世界の平和と安全に貢献する法案である」「平和安全法制」……これら彼の使う言葉は政治的表現としては、あまりに現実離れしていた。

 まさに文学を揶揄する「お花畑」の世界だ。虚構は嘘、レトリックはトリックに堕する。現実が行き詰まったとき、人は虚構に飛び込むのだろうか。政治の言葉が文学を真似るときは、要注意かもしれない。先ほどの晶子の言葉「歌は歌に候」を噛み締めて、正気に戻りたい。

 紙幅がなくなったが、歌人たちによるパネルディスカッションにもたくさんの問題提議があって、表現者に宿題を残した。特に「人か、レトリックか」という問題は、一時会場を緊迫させた。「人の命か、歌の命か」ということになるだろうか。歌は「命を救うか、魂を救うか」に繋がる重い課題かもしれない。

 両者を救う言葉として、またしても晶子を呼ぶのは強引だろうか。
 歌は歌に候――と。


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