【短編】Vruberを名乗るもの
この国は技術大国を自称している。確かに技術力で成功している国ではあるが、ことソフトウェアの話になるとボロが出始める。見えるものを作ることは得意なのに、見えない概念を想像する力に乏しい。
これは遺伝子の問題ではない、構造の問題だ。この国の経営者は技術を知らない。見えない概念を想像できないからだ。技術者がどんなに良い概念を作り上げても、経営者にとってそれは無いのと同じだ。だからこの国の技術者は「見えるもの」を要求され、安月給でこき使われる。
俺はそういう現状を変えたいと思っている。俺は雑誌記者だ。俺も見えないものは想像できない人間ではあるが、その価値を形にすることならできるかもしれない。
「桃井君、ちょっといい?」
同期のオーウェンに呼ばれる。こいつはアメリカ生まれの仏教オタクで、キリスト教と仏教の話を混ぜこぜにして語るという迷惑な趣味がある。悪い奴ではないが、話していると何か騙されているような気になる。
「どうした?」
「桃井君のチームってwebサービスのコラム担当してるよね。これ知ってる?」
オーウェンの机の上に付箋が貼ってある。付箋には「10oxen」の文字。
「見覚えあるな…16進数の10だっけ?」
「え?webサービスじゃないの?」
オーウェンはパソコンの画面を指さす。画面を覗き込むと、見た事のないロゴが映っている。黒い紙を丸めて広げたような背景に白いゴシック体で「Vrub」と書かれている。
「そっちの方は知らないな。それ、何なの?」
「分からないのよ。」
オーウェンはやれやれ、と両手のひらを上げる。
「私のスマホに保存されてたスクリーンショットなの。記者としての勘がビビっと働いて撮った記憶はあるんだけど、何のサービスか思い出せないのよ。なんか気持ち悪くない?」
「寝ぼけてたとかじゃなくて?」
「だとしても妙なのよ。」
オーウェンはブラウザを開くと、「Vrub」で検索した。ヒットするサイトは匿名掲示板の書き込みばかりで、開発者が作ったような公式のサイトは見つからなかった。
「確かに妙だな。知り合いが開発したアルファ版とかでも無いんだろ?」
「メールもDMも検索したけど、こんなサービスは見つからなかったわ。それに、私と同じ状況の人がいるみたいなのよ。」
掲示板の書き込みを見る。「いいサイトだと思ったけど、内容を何も覚えてない」「Vrubという名前は聞き覚えがある気がする」「リンクを保存した奴は何人もいるけど、誰一人としてアドレスが一致しない」。全ての書き込みが曖昧な記憶を元に書かれていて、本当にそんなwebサービスがあるのかすら疑わしい。
「考えるの疲れた、ちょっと休憩してくる。」
自販機でコーヒーを買い、スマホを開く。俺は長時間考え続けるのが苦手だ。考えること自体は嫌いではないが、スタミナがないのだと思う。だから定期的にここに来て、目的もなく惰性でスマホを触る。
そもそも、人間に知性は本当に必要なのだろうか。オーウェンに聞いたことがある。「分かる」というのは物と物を恣意的に分けること。水を分子ごとに分け、水分子を酸素原子と水素原子に分ける。分けた部品それぞれの性質を見れば、全体の構造が分かる。しかし、それは全て人間が考えた傲慢な分け方だ。だからキリスト教では知識の実を食べたアダムとイブがエデンから追放されたし、仏教では全てのもの、感覚、自分と世界ですらひとつのものであることを自覚しようとする。神のもとに戻るためには、悟りを開くためには、知性とは反対の…
ここで思考が中断した。オーウェンの付箋にあった「10oxen」の文字は十牛図を表しているのではないか。十牛図は悟りを開いてから再び日常生活に戻るまでの道のりが描かれている。オーウェンは十牛図に何かを見出したが、今は忘れているのかもしれない。このほんの少しのひらめきをオーウェンに伝えるべく、スマホを探す。いや、スマホは既に俺が右手で持っている。俺はスマホで何をしていた?
画面を見ると、Vrubのロゴ。いつの間に?俺が神と悟りについて思考を巡らせていたとき?どうやって?
Vrubの画面をオーウェンに見せないといけない。「10oxen」の付箋について聞かないといけない。なにより、Vrubが何か自然でないことをしようとしている気がして怖くなった。俺はオフィスまで走った。
オフィスって何だ?今いる場所とオフィスに何の違いがあるんだ?オーウェンって何だ?昨日のオーウェンと今日のオーウェンは同じオーウェンなのか?悟りって何だ?神って何だ?俺って何だ?Vrubって何だ?
ふと、全てどうでもよくなった。答えを知る主体は存在しない。だから「知る」なんていう概念もない。「概念」もない。「ない」もない。
オフィスに到着した。俺が走って来たから、オーウェンは驚いていた。少し体を動かしたら元気が出てきた。さて、仕事に戻ろう。