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映画『メッセージ』そして、小説『あなたの人生の物語』(2)

こんにちは、背骨です。

今回は
「映画『メッセージ』において原作から改変された(簡略化された)部分を知ると、この物語全体のイメージとラストの意味合いが全く違って見えてくる」の続きです。

前回の記事をアップした後、
「まさかの序章(笑)」
「焦らしプレイですか?!」
「勿体ぶりますねぇ…w」
などの声をいただきましたが、今回は、今回こそは核心に触れるお話が出来ると思いますのでご期待ください。

前回のラストで、

①ヘプタポット文字を理解するとなぜ未来を見られるようになるのか

②イアンとの破局や、生まれる娘が早逝するという運命を知りながらルイーズはその人生をトレースするのか

この2つのモヤモヤを解くカギは原作『あなたの人生の物語』の中にある。とお話ししました。

さらにそれがわかってくると映画『メッセージ』と原作である『あなたの人生の物語』がそれぞれ目指していたもの、その関係性まで見えてきます。

おっと、大風呂敷はこれくらいにして順を追ってお話ししていきましょう…

原作ではヘプタポットがなぜ「言語」ではなく、「文字」で伝達するのかに関して、光線が空気中から水面に入る時に屈折する『フェルマーの最小時間の原理』を例に挙げながら解読しようと試みます。

詳しくは原作をお読みいただくとして
『フェルマーの最小時間の原理』を要約すると…

「光は進むのにかかる時間が最小になる経路を通る」

というものです。

上の図をご覧ください。

作中のセリフで
「光は水中では空気中よりゆっくりと進む。そして、この経路の半分以上は水中にある。つまり、光がこの経路(下部点線)を進むには本当(実線)の経路を進むより長い時間を要することになる。」(要約)
というものがあります。

実線の下に書かれた点線、こちらの方が距離は短い。しかし光は距離よりも時間を優先して実線を通る。という事です。

光は「距離」ではなく「時間」を優先するのです。

ここで重要となってくるのは、A-C-Bという経路を辿るためには、

「光は動き始める方向を決めるより前に、最終的に到達する地点を知っていなければならない」

という一見矛盾しているかのような事実です。

ともあれ彼らは「ヘプタポットはこの光と同じように、行動するより先に目的を知っていて、それに則って行動している」という仮説を立てます。

それは、人間はこの世界を「まず時間というものがあり、時系列に沿って生きる中に自由意思があり、その選択の結果として未来がある。」としているが、ヘプタポットは『フェルマーの最小時間の原理』と同じように

「まず目的というもの知覚し、その目的のために適正な行動をとるのではないか。彼らは全てがはじまる前に最終到達点がわかっているのではないか」

という事でもあります。

その先、それは正しいという事がわかってくるのですが、それがわかった時、彼らが「言語」ではなく「文字」を使うことの説得力が増してきます。

その先の研究で彼らの「文字」は「はじまりから終わりまで、全ての必要な単語が順序関係なく入っている」という事がわかります。

それはまさに彼らの世界認識様式「はじまりと同時に結果を知る」をそのまま実体化させたものです。

「言語」とは、話すということは、時間の中で順に単語を並べなければならない、という特性があります。

よって全ての事象より先に目的を知っているヘプタポットたちにとって1→2→3というふうに単語を順番に並べなければならない言語というものは、彼らにとって世界を表し、伝えるには不便なものなのです。

なので、そんな不便な「言語」を使うより、その一文字の中に全てが含まれている「文字」を使う方が理にかなっている。

これがヘプタポットが「言語」ではなく「文字」で伝達する理由です。

そして前回からの疑問

①ヘプタポット文字を理解するとなぜ未来を見られるようになるのか

についてですが、ルイーズはヘプタポット文字についてさらに研究を重ね学ぶうちに、彼らの認識様式に影響を受け、

「自由意思はすでに決まっている結果に影響を及ぼさない」

という決定論的思考を受け入れるようになります。ヘプタポット文字が彼女の考え方そのものまで変えていくのです。そうしてルイーズは「はじまりと同時に結果が見える」能力を身につけていったのです。

それが答えです。
なので原作においては「未来が見えるようになる」のではなく「はじまりと同時に目的を知るようになる」ですね。

そしてもうひとつの問い

②イアンとの破局や、生まれる娘が早逝するという運命を知りながらルイーズはその人生をトレースするのか

については…

決定論的思考を受け入れたルイーズにとって、そこに自らの自由意思は存在せず、その決められた未来に対して行動することこそ歴史の一部となることであり、生きることだから

それが答えです。

それは彼女にとって自由でないのと同時に束縛でもないのです。この世界の認識様式においては。
なので、自分は原作の中でルイーズがその未来を受け入れる場面を読んだ時、はじめて映画『メッセージ』を観た時に感じたような悲しさに似た感情は抱きませんでした。

そこには世界の全てを悟った者が、黙々と使命を果たしていくような崇高さすら感じました。それはある種の清々しさすら伴っていました。

いかがでしょうか、ここまで読んで『メッセージ』をもう一度観てみたいな、とか、原作も読んでみたいなと思っていただけましたか。

もし、そう思っていただいた方がいたなら、すぐさまレンタルビデオ店へGOです。アマプラへGOです。本屋さんへGOです。AmazonブックスへGOです(Kindle版も読みやすいです)。

オススメは映画→原作小説、かな。

この映画に限らず、どんな原作ありの作品でも先に小説から入ると自分の中で出来上がってしまった世界と映画とのギャップに違和感を覚えるケースが多いと思います。

良い悪いではなく、小説とは読者の頭の中に自分好みの世界を作ってしまうものなので、受動的なメディアから体感していくの方が良いのではないかと自分は思ってます。

ここで、自分のお伝えしたいことは終わり…

だと思いましたよね?

しかし、まだ続きがあるのです。

「まだあるのかよ!」という声が聞こえます。
(まだ続きがあるよかよ〜〜〜…ブ〜…)

もちろん、その続きを待たずにあらためて『メッセージ』を観ても『あなたの人生の物語』を読みはじめていただいてかまいません。

ただ、ここまでを踏まえて…原作者のテッド・チャンが伝えたかったこと、監督のヴィルヌーヴが伝えたかったこと、その違い、映画と原作の関係、それに関する自分の解釈をお話ししたいのです。

それは冒頭に書いておきながら今回辿り着けなかった「さらにそれがわかってくると映画『メッセージ』と原作である『あなたの人生の物語』がそれぞれ目指していたもの、その関係性まで見えてきます。」についてであります。

次で必ず終わらせます。

宜しければ、次も読んでいただけるとうれしいです。
近いうちに必ず…

背骨









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