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風景論以後

東京都写真美術館で「風景論以後」という展示を観てきた。
僕は風景写真を沢山撮っていて、中平卓馬の本も読んだことはあるけれど、風景論なんて記憶の片隅にもなかったし、「以後」と言われても、そもそも「以前」も「最中」も知らなかった。

1970年代を迎え学生運動の潮流が衰退する一方で、全国的な都市化、均質化が進むなか、何の変哲もない日常的な風景を国家と資本による権力そのものだとする風景論が、写真や映像メディアと連動し大きく展開された。風景論を牽引した映画批評家の松田政男による議論は、のちに『風景の死滅』(1971)として刊行され、表紙には風景論の理論化で重要な役割を果たした、写真家中平卓馬の写真が使用された。半世紀を経た現代において、「風景」に取り組むとはどのようなことなのだろうか。1960年代後半まで時代を遡りながら、風景論を再考し、風景に関わるさまざまな表現を紐解き、その新たな可能性を検証する。

「風景論以後」展覧会ガイド0章より



会場では1970年代のアレコレがステートメントとしてあったけれど、正直「どうでもいい」としか感じなかった。当時の試みを先進性のあったものとして賞賛して権威的な言葉で称えても、現代の視点からはどうしようもなく陳腐でどこまでも自己満足なものにしか思えなかった(もちろんそんな先人たちの礎があって初めて現代の写真論が存在し得るんだろうけれど)。

1968年に多木浩二らと『Provoke』の創刊に関わった中平卓馬は、写真という枠組みを超えて大きなインパクトを残した同誌で展開された「アレ・ブレ・ボケ」と称される表現を、最終的には自己批判し、風景論を経て、独自の実作と理論に向かっていく。

「風景論以後」展覧会ガイド3章より


その実践が写真から撮影者の主観を排除した植物図鑑であり、写真表現である以上撮影行為自体を完全に排斥できないことを乗り越えようとした苦悩がそこにある。もしかしたら「Provoke」は中平卓馬にとって黒歴史かもしれない。ガラスケースに綺麗に並べて展示された「Provoke」を見たら草葉の陰で中平が泣くだろうなと思ったり。




風景写真は説明がなければ「その辺の景色を撮ったただの写真」にすぎない。スティーブン・ショアの写真だって妻に言わせたら「駐車場の写真」でしかないんだから。
それでも風景写真に説明は要らない。家族にだけ伝われば良いという程度のミニマムな表現方法を常に考えている。よく行くスーパーマーケットの駐車場、国道沿いの用水路、近所の踏切、1枚の写真から色々な場面が思い出されればそれで良い。そこには思い出を語る言葉があるだけで、写真を説明する言葉は要らない。



自分の記憶にある風景と似ている部分を見つけてはノスタルジーを感じる。
突き詰めれば、風景とは思い出であり、思い出は場所ではなく場面である。
そして同じ場面は二度と生起しない。日々変化していく風景に、過ぎていくもの、終わっていくものを思い、一期一会の情景に思いを馳せる。



風景は、誰にとっても馴染みのある言葉であり、多様な文脈や歴史的背景で語られてきたがゆえに、一つの論としてそれを定義することは難しい。

「風景論以後」展覧会ガイド4章より

風景を語らないとする僕の考えも、数多ある論の一つでしかない。

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