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幸せは、「掴む」でいいのか
「今、幸せ?」
他愛のない親子間のゆるやかな放物線を描くキャッチボールの中で、いきなりにエースピッチャーが登場し、甲子園の優勝のかかった重みのあるボールをこの胸めがけてまっすぐに投げられたような衝撃である。
さっきまで、子供の頃はハンバーガーのピクルスは嫌いだからよけていたか、それとも最初から抜いてもらっていたかで盛り上がっていたのに。(好きと言う選択肢は最初から存在しない。)
その流れで、実はこんなカスタマイズをマックはやってくれるよ、だなんて小さい豆知識を披露して、くだらないマウンティングを取り合って盛り上がっていたし、
カスタマイズと言えば、スタバは「アドショット」って言う呪文を言うと、エスプレッソを一滴垂らしてくれるんだよだなんて、言った本人は素敵な言葉だろ?くらいなテンションで役に立つような立たないような知識をひけらかしていたのに。
けれど、「ヤボなこときくんじゃない。今のこの時間を幸せと呼ぶのさ。」なんてタバコをふかすような大人の余裕で持って答えられない。そんなことができるのは、大塚明夫さんが演じるキャラくらいなものなのだ。(よく知らないけどね笑)
改めて幸せを問われるとついつい意気込みしてしまって、「幸せってそもそもなんだろうね。」って何千年間も、名だたる哲人たちを一生を苦しめたであろう大質問に、大した学も人生経験も持ち合わせていない25歳が、タバコの代わりに爪楊枝を口に咥えて次元気取りの態度で考え始めてしまう。やれやれ。
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『急に具合が悪くなる』では、「不運」と「不幸」の違いについて語られている。
曰く、「不運」は点であり、「不幸」とは線であるとのことである。
「不運」は世の中に溢れるほどに起こりうる。外に出た瞬間に雨が降ったり、目の前で電車の扉がしまったり、鳥のフンが頭に降ってきたり、文字通り上げだすとマツキヨにマスクがなくなってしまう。いや、枚挙にいとまがなくなってしまう。
一方で「不幸」は、「不運」を受けて自分が作り出す物語だ。本の中でも下記のように語られている。
不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まる気がするのです。
「不幸」は、点である「不運」を、その中に取り込む行為なのだなとおもう。少し離れた位置にあったものも、「自分は不幸だから…」という悲劇のヒロインの決まり文句で、カメレオンが舌を伸ばして一瞬で虫を食べるみたいに「不幸の線」の中に取り込んでしまう。
「不幸」の蜜は甘く、ねばりけがあって、そして強い。ああ、プーさんが喜んでいる顔が目に浮かぶ。
『わたしは不幸だ』とおもうと、上に上げた「不運」は全て「不幸」になっていく。
『雨女だから私の頭には雨も鳥の糞も降り注ぐのだ。』『ついてなくて鈍臭いから電車を乗り過ごしてしまうのだ。』など、なかなかにくいしん坊なカメレオンである。
と、ここまでいろいろ書いてきたのだけれど、ここ最近まで詳細は控えるが、あまりにも度重なる不運に、自分は随分不幸だなぁとおもっていた。頭じゃそういうふうに考えることは逃げで、思考停止しているだけとわかってもいたけど、不幸という物語の甘美さから逃げることは難しい。
やっぱり、自分に降りかかる様々な不運はどうやらそういう星の下に生まれてしまった運命(サガ)によるもので、「どうにもなりゃせんわ」と、悲しさに暮れるだけだった。
宇宙兄弟の主人公南波六太が「俺はドーハの悲劇生まれだから」を理由にしているのと同じような状況だ、というかそれだ。
そんなふうに固定化されてしまった自分の物語をほどいてくれたのは、2月に一週間行ったフィンランドだった。
フィンランドの大自然は、自分という存在を認めることも否定することもなく、ただそこにあるだけだった。そんな圧倒的にスケールの大きい自然を前にして、理屈とかはなく「なんかいいなぁ」と感じた。
小鳥のさえずりがなんか心地よい。
森の空気が澄んでいる気がして気持ちがいい。
余すところなくおしろいをした見渡す限りの雪景色がうつくしい。
ながく麻酔のかかったうつろな状態から目の覚める思いだった。ずっと薄めでイジの悪いような、あいているのだかあいていないのだかわからないような目で世界をみていたのだと思う。麻酔が切れてはじめて、ああ、麻酔にかかっていたのだとわかったのだった。
フィンランドの自然のように、あたり前があたり前のままで、バカボンのパパじゃないけれど、「これでいいのだ。」とおもった。
「幸せ」という言葉によく使われる動詞として、「掴む」、あるいは「なる」がある。いつからか「幸せ」は、ぼくらの手元にはない。手繰り寄せるのか、自分で飛び込むのか、何かを変えるのかはわからないけれど、どうやら追うものになっているようなのである。
フライのボールの軌道から着地点を推測してその場所に飛び込むような、それを逃してしまえばすべてが終わってしまうかのような、なかなかハラハラさせられるものになっている。犬が尻尾を追いかけ続けるようなもので、終わりはなさそうだ。
終わりがあるものでも始まっているものでもなくて、そこに元々ただあるものなんだろう。受け入れるか受け入れないかの差で、常にぼくらのてのひらの内にあるという実感を、ぼくは今は持っている。
朝の日差しが心地よい。目玉焼きがいい感じに焼けた。コーヒーのいい匂いが鼻を通り抜ける。こんな些細なことも「そう」と呼んでいいじゃなかろうか。
日常に対してぱちりと目をあけてありのままをただ受け入れるだけできっといいのだと思う。とはいえ、辛いことも、苦しいことも、嫌なことも困ったことに生きているとつきものなんだけれど、それをカメレオンの餌にはするものかい。餌にしそうになったらまた自然に身を置いてみよう。悩みが小さいことや自分が小さいことも変わらずに教えてくれるだろう。
ある種、「幸せでいる」という覚悟を持って、これから先を過ごしたいとおもった25歳最後の日でしたとさ。
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