新型コロナによる監視社会から監視国家への変貌について
まず、私は感染症の専門家ではないため、今回のCOVID-19、いわゆる新型コロナウィルスの医学的見地からの意見を持ち合わせていないことを断っておく。そのうえで、自分の好きな社会という分野から思ったことを少し書いてみたい。
今回のコロナ騒ぎでは、行政よりいわゆる営業自粛、外出自粛が要請され、多くの国民がこれに従って自粛を続けた。その甲斐があったのかなかったのか、それは今後の検証に任せるとして、いずれにしても新規の感染者数は減少をたどっている。この自粛要請の根拠として、政府の緊急事態宣言に基づく各都道府県知事の自粛要請があったわけだが、ここで非常に重要なのが、外出や営業に関して禁止ではなく自粛ということである。
戦前から太平洋戦争にかけての強権的な政治への反省から、戦後の日本はかなりリベラルに寄った政治運営をしてきた。政府から国民への統制や強制は割と少なく抑えられており、自由が謳歌されてきた。背景として、冷戦構造があり、資本主義と共産主義という二大陣営が角を突きつけあった結果、その最前線たる日本はアメリカの庇護のもと自主防衛をせずとも平和だったことも挙げられるだろう。つまり、自らを守るために強い政府が必要ではなかったのだ。
そんな日本だが、国民の統制がなかったわけではない。ここで出てくるのが、社会である。日本においては国民の監視、統制を行う組織として社会が利用されていたのだ。代表例が町内会である。町内会は江戸時代の五人組に始まり、戦時中は隣組として構成員の相互監視を担ったが、戦後もほぼ解体されることなく町内会として生き残った。町内会は行政と国民をつなぐ存在であり、市井の世論を行政に伝えるとともに、行政の要請を国民に強制させる機能も担った。つまり、行政は国民を統制する手段として自ら直接手を下すのではなく、中間組織として町内会や企業、各種組合や団体といったものを利用して間接的統制を行っていたと考えられる。
戦後も数十年がたち、核家族化、単身化が進んでくると町内会の組織率も低下し、構成員の高齢化も進展した。これにより従来のような監視社会としての機能が低下し、いわゆる個人主義的なものが進むこととなった。中間組織の弱体化によって間接的統治の手段を失った行政だが、意外とこれによって困ったのが国民の側だったというのが今回の新型コロナ騒動ではなかったか。これまでであれば自粛という名の禁止がほぼ強制できたのに中間組織が機能不全になったことから、自粛が文字通り強制力を伴わない自発的な自粛になってしまったのだ。この流れの中で出てきたのが自粛警察だろう。
自粛警察、誰に頼まれたわけでもないのに営業を自粛しない店舗に対して抗議や嫌がらせを行う人たちのことである。パチンコ店や行列のできるラーメン店などでその存在がクローズアップされ、賛否両論あったわけだが、先程までの議論を踏まえれば、直接的な強制手段を持たない行政と力を失った中間組織の存在によって国民側が自ら行政権を行使しようとした結果と考えられるのではないだろうか。
今後の流れを予想することはさほど難しくない。行政は強制力を保持したい、しかし国民が直接行政権を持つことは問題がある。すると、やはり行政が直接統治する構造にならざるを得ないだろう。従来の自粛要請から自粛指示、営業停止命令へと変貌していくのだ。我々に残された選択肢は、国民が直接行政権を行使する自粛警察か、国家による統治を受け入れつつ、それを監視する社会を目指すかのどちらかだと思う。リヴァイアサン以来の伝統的な国家スタイルを基礎とする我が国にあっては、より実現性が高いのが後者だろうし、私自身もそうあるべきだと思っている。