情報は、得てもそのまま受け取らないほうがいい
出張で長崎にいる。色々な人のプレゼンを聞いてきただけだけれど、どうも前提条件がおかしかったり、データ収集・解析の手順がおかしいものがちょくちょく出てきていた。
ううむ、と唸りながら、まあこんなもんか、と思いつつ、用意された原稿をただ読み上げるだけの発表者を見ていた。
公的な場でされた発言や発表内容であっても、自分でその情報を咀嚼するときは、最悪「その情報が全く役に立たないフェイクである可能性がある」ことを認識しながら見ていかないと、どうも正常な判断ができなくなることがある。
相手と自分で背景となる知識が違うことなんて、往々にしてありえるのだ。
そして、それを判断するためにはある程度の「教養」、つまり基礎知識が必要になる。それがないと、ある人にとっては本当に当たり前だと思っていることですら、そう取られない場合がありえるのだ。
今回唯一面白かったのが、AIの話だった。
ドラえもんのように、人間と同等の言語機能をもつAIは、少なくともしばらくは開発できないらしい、という発表だ。
人間は、発せられる言葉の裏に膨大な背景知識を潜ませている。人生/魂を潜ませている、といったほうが適切かもしれない。その人が発する言葉遣いから人生が透けて見える、と言われるのは、そういうことだ。
AIには、まだ「人生を言葉に籠める」ということができないのだろう。そのためには膨大なデータが必要だし、不特定多数のデータを食わせるのでは不十分だ。
だから、まだ人はその存在自体をAIに取って代わられることはないのだろう。
ただ、あまりにも粗末な言葉ばかりを吐き続けていると、自分の底の浅さが知れてしまう。
他人の言葉をよく吟味する必要があるように、自分が発する言葉もよく考えてから発しないといけない、と自戒する日であった。
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