“弱者男性”だけがフェミニズム批判をしているのか?
年末年始にかけてまたなにやら男女論界隈が荒れているというか、ちょっと見ていると、いわゆる”ツイッターフェミニスト”界隈がだいぶ煮詰まっているようである。その中で若干気になったのは、”ツイッターフェミニスト”界隈が自分たちの論敵を“弱者男性”と呼ぶのを好んでいる点が気になった。
いわゆる弱者男性論はフェミニズム批判の立ち上がりの段階で目立っていた印象はあったが、一方で、弱者男性論を張る一派はフェミニズム批判というラージグループの中では一つの小集団に過ぎない。
男女論界隈に立ち入ったことがある方ならお気づきと思うが、フェミニズム批判界隈には、英語の学術論文が読める人がゴロゴロおり、両手の指ではとても足りない。潔癖的に政治的正しさを追求する人から、「弱者男性論といいつつ論壇を作っているのは高学歴の強者男性ではないか」というような批判も見たくらいである。また論壇の一部はマネタイズを行っているが、やっていないほうが圧倒的多数派である。
また、私の周囲ように女性の管理職を増やす等お女性エンパワメントをお題目として掲げ、フェミニズム運動内に存在する"主婦としての女性の権利"を保護する論調(母性保護論争における平塚らいてう派の末裔)を批判するタイプのグループがあるが、こちらは女性管理職を断られるなどの経験があってツイッターフェミニズム批判側に回っていて、社会的な地位が高い人が結構な割合で混じっている。
ツイッターフェミニズム批判が単なる「弱者男性によるミソジニー」程度にすぎないならとうの昔に勢力が弱体化していただろう。アカデミア・フェミニズムのエビデンス軽視の姿勢が攻撃され、大学フェミニズム全体に対して反学問的という論陣がツイッター上で優勢になるのは、批判者側にその論を維持できるだけの知性があり、同時にツイッターフェミニズム側にそれにまともに反論できるだけの知性がないからに他ならない。こういうことを自分で書くのはかなり躊躇があったが、そう公言しても構わないと思える程度には大差がついてしまっており、ツイッターフェミニストの皆様に置かれましてはもう少しセルフイメージを現実に沿ってアップデートしていただきたいと思う次第である。