男は他の男の配偶者にほぼ拘泥しない - 「100分deフェミニズム論」は要検証では
最近NHKで放映された「100分deフェミニズム論」という番組において、以下のような話があったようである。いろいろと突っ込みの多い番組だったらしいが、私自身は見ていないので、後で鑑賞会でもやろうか言っている段階で評論するのはちょっと問題かもしれないが、メモも兼ねてそのまま続ける。なお、下記の話は上野によるセジウィックの紹介なので上野の意見ではない。
こういった世界観は、峰なゆかの漫画にも出てくるようだ。
こういった「男は妻/彼女の価値を第三者に評価してもらわないと理解できない」「男は妻/彼女でマウントを取り合う」なる言説は、明らかに嘘、虚構である。
まず、男同士の価値観において、妻が美人なら上司にマウント取れるかと言うと、それは絶対にない。男でそれをやる可能性があるとすれば「スト値」等の単語を使うナンパ師の界隈の内輪くらいで、かつそのナンパ師もナンパが上手い程度で出世した男相手にマウントを取れるわけではない。
男の価値は基本的に本人の力や業績に帰するもので、彼女や配偶者がそれを与えることはできない。親が地位を与えれば「親の七光り」と呼ばれるし、実力者との閨閥関係で出世したとみなされた京極高次は「蛍大名」という陰口をたたかれた。本人もそう呼ばれるのは屈辱的と感じるのが一般的である。トロフィーワイフというのは出世した結果選択肢が広がったというだけで、それが男の価値を高めるわけではない。そのことは普通に女性学の研究でも言及されるところである。
この論が真であることは、例えば上記研究と同様の手法で男性向けのTVドラマや青年漫画などの配偶者マウンティングエピソードを収集すれば検証できるだろう。女性向けのそれに比べ出現頻度が1/10でもあれば私は驚く。あったとしても、視聴者・読者たる男の肌感覚とあまりにも合わないために、違和感のある作品になってしまうだろう。
マウントを取り合うこともないので、そもそも他人の妻/彼女の品定めも原則としてしない(浮気する気ならあるかもしれないが)。男がどんな女を好きになるかについて第三者の評価を必要としないことは、木嶋佳苗あたりを見れば分かるだろう。
他人の妻/彼女にあえて言及するならば、「いい奥さんだねえ、大事にしなよ」といった褒める文脈になるし、惚気を自分から言い出したとしてもかわいいものと思われるだけで嫉妬されたりすることはない。他にモラ妻、浪費妻などに言及することもあるが、それはモラ夫やアル中夫に言及するのと同じで、同性でもどうかと思うことに対する言及である。
ただ、米国から日本に移住した女性のエッセイ本によると、男性が女性を伴っての社交をしない傾向を文化差としてとらえているので、日本の文化である可能性はある。
こういうフェミニズムは勘弁してほしい
「妻/彼女の男社会の中での評価を気にする男」というのは、女社会におけるそれを男社会にもあるに違いないと投影したものだろう。あるいは女性が付き合う男の延べ総数では、軽薄に女を乗り換えるナンパ師の比率が実際の男の総数に比べ著しく多くなるため、競技のようにナンパする人々としか付き合ったことがなくてそれを標準と思っているのかもしれない。
ただ、上野千鶴子にしても峰なゆかにしても、虚構の男社会を元にフェミニズム運動をしているのだとすれば、それは根本から間違っているからやめてほしい、というのが正直なところである。特に上野千鶴子に対しては、ちゃんとアカデミックな手法で調査したものがあるんだからそれを尊重しなよ、と思う。
女社会の価値観と男社会の価値観のどちらを優先するかという話で言えば、スパルタン・フェミニストである私は、独立して生活を営める個人が先にあってその連合が夫婦という見方を取るので、自分の地位は配偶者によって決定されたりはしない、という今は男社会側にある価値観が女社会にも浸透すべきだと考えている。そもそも女社会の配偶者マウンティングは女が男に経済的に従属していた期間が長いから発生したものであって、それを変えるべきというフェミニズムの主張からすれば、配偶者ポケモンの価値観に合わせることはあり得ない。現行民法でも夫婦は共同生活を営むことを前提としつつも、原則としては財産も独立した個人とみなされるわけで、それが原則だろうと思う。