【映画感想】『仮面ライダーセイバー 深罪の三重奏』
※この記事では上映中映画の内容に触れています。これから鑑賞予定の方はご注意ください。
序奏
サービスデーを狙って映画を見てきた。Vシネクスト『仮面ライダーセイバー 深罪の三重奏』である。テレビシリーズの『セイバー』が終わってしばらくたち、若干脳内がリバイとバイスに占拠されつつあるのだが、薄暗い画面に突き刺さった聖剣を見た途端に当時の雰囲気を思い出した。相変わらずなソードオブロゴスの面々(北も東も)にほっこりしつつ、我が道を行く者たちの成長にも目を見張る。尾上は職歴的にはまだ若手のはずなのに、すでにベテランの風格すら漂っている。やはり半生に重厚な物語を紡いできただけの貫禄があるのかもしれない。
「三重奏」を奏でたのは誰か?
音楽に造詣の深くない自分のような者でも、字面を見れば何となくその意味は分かる。三重に奏でる、三重奏とは三つの音が重なって演奏されている状態、またそのような曲の事を指すはずだ。
今回の映画のタイトルは『深罪の三重奏』だ。ポスターを見ると「三重奏」には「トリオ」とルビが振ってあり、その真下には飛羽真・倫太郎・賢人のおなじみ三人組が配置されている。キャッチコピーも「これは、剣士たちに課された深き罪の物語」とはっきり銘打たれており、「三重奏」が示すのは飛羽真たち三人の事のように見える。
だが、実際に映画を見てみると、その印象は少し変わる。
舞台となっているのはテレビシリーズから8年後の未来だ。飛羽真は作家兼書店経営兼父親業、賢人は結婚間近の翻訳家、倫太郎はソードオブロゴスの一員。剣士たちはそれぞれの歩むべき道を進んでおり、かつてのような和気あいあいとした雰囲気は記念写真の中に残るのみである。
事実、間宮家で行われたすき焼きパーティに倫太郎は参加していない(芽依と喧嘩をしたため来られなかったのだ)。親友であるはずの賢人と飛羽真が顔を合わせるのは、飛羽真の記憶の中でだけだ。そして倫太郎と賢人は、偶然に街で出会いこそするが、アメイジングセイレーンワンダーライドブックの効力により、最後まで互いを「誰だかわからない人」としか認識しない。
果たしてこれは「三重奏」と言えるのだろうか。
どちらかというと、偶然居合わせたソリストが三人、同じタイミングで別々の曲を奏でているような立ち位置ではないか。彼らは敵を各個撃破するが、共闘はしない。自分に向けられた敵意へ、ピンポイントで対応しているだけだ。
飛羽真たちではないのならば、いったい「三重奏」をしているのは誰なのか。それは、陸と篠崎真二郎、立花結菜の三人だ。無数の死体に囲まれた真二郎は、婚約者の亡骸を抱いた結菜は、冷たい身体を抱きしめながらそれぞれ嗚咽の声を響かせた。そして陸も、燃え盛る「かみやま」の前に倒れ伏し、喉も枯れんばかりに甲高い叫び声を上げ続ける。
作中では、旧「かみやま」店舗全焼の原因は不明ということになっていたが、おそらくは無銘剣虚無とアメイジングセイレーンワンダーライドブックのもたらした火事なのだろう。施設から抜け出した陸がふらふらとその剣の柄に手をかけ、本が彼に応える。剣士をこの世から消すためだけの存在として、間宮が生まれる。間宮自身は父を失ったショックでの健忘だと思い込んでいるが、そもそも最初から彼には記憶など存在しない。唯一間宮が持っているのは、これから陸に降りかかる未来の光景だ。「剣士同士の戦いに巻き込まれ、死にそうになっている父親の姿」。確かに間違いではない。誤りがあるとすれば、父親=飛羽真自身もまた剣士であったということだけだ。かくて間宮は父親=飛羽真の敵を討つため、剣士=飛羽真の存在を抹消しようとする。矛盾した真実を知るのは最後の最後になってからだ。
間宮たちを導くワンダーライドブック「アメイジングセイレーン」。セイレーンと言えばその歌声で人々を惑わす妖怪である。陸たちの三重奏ならぬ三重唱は、剣士らに今まで見て見ぬふりをしてきた小さな犠牲を突き付ける。突き付けられた真実に飛羽真たちはそれぞれ思い悩むが、やがてそれぞれの結論を出す。彼らは自分たちの深い罪をみとめ、背負いながらも、剣をふるうことをやめようとはしない。切り開いた先しか希望は生まれないと知っているからだ。聖剣を引き抜く鞘走りの音が三つ、それぞれの戦場で響く。場所は違えど、これもひとつの三重奏なのかもしれない。
「四重奏」を奏でるのは誰か?
映画の最後にはちょっとしたサプライズが用意されていた。物語はエンディングを迎え、画面に映し出されたタイトルロゴが観客の目の前で変化する。『深罪の三重奏』は『深愛の四重奏』へとその調べを変え、芽依たち四人の歌うテーマ曲が流れる。
おめかしした芽依たちがいるのはおしゃれな室内だ。どこかに快盗でも潜んでいそうなその部屋に、飛羽真はひとりの客人を誘う。雨降りの町でたまたますれ違ったその青年は、間宮陸という名前の小説家の卵である。曲の終わりに画面へ映し出されるのは、彼らが飲み終わったコーヒーカップである。余韻にじんわりひたっていた自分は、ここであれ? と首を傾げた。「四重奏」なのに、カップは五脚ある。途中で間宮がやってきたので、人数が増えたのだ。せっかく「三」から「四」へ印象的なタイトル変更をして、「四人」で歌うテーマ曲まで作ったのに、ここで「五」が突然現れるのはなんだか違和感がある。
ここで少し前に立ち返る。飛羽真たち三人のことを指すかのように見えた「三重奏」が実は陸たち三人を指しているのではないか、とは先ほど述べたとおりだ。ならば、この「四重奏」も芽依たち四人の事だけを指すのではなく、なにかほかの意味を有しているのかもしれない。
ヒントになるのはタイトルのもう一つの変更点、「深愛」だ。この物語には深い愛の形がいくつも描かれていた。倫太郎とその父の、今際のきわにのみ許された抱擁。復讐の決意が「わからなくなっちゃった」と笑い、賢人を生かそうとする結菜。陸の父親たらんとする飛羽真の、ひたすらに純粋な愛情。ならびに、間宮と飛羽真の間に確かに通っていた、八年間の間に育まれた友愛の情。
陸が無銘剣虚無を手にした過去は書き換わり、真二郎や結菜がアメイジングセイレーンワンダーブックに魅入られることもなくなった。だが、飛羽真がアメイジングセイレーンを破壊せず持ち続けているために、「間宮陸」と「陸」は別々の人間として存在している。また、倫太郎と真二郎が相まみえた歴史は消えてしまったが(ただし真二郎から倫太郎への一方通行の愛情は、すれ違う真二郎の柔らかな目線でちらりと示されている)、その穴を埋めるように倫太郎は芽依との恋愛関係を保持している。
エンディング時点で、飛羽真たち三人の剣士は四種類の通じ合う「愛」を手に入れている。これらはすべて相手のある「愛」であり、思いを「重」ねることで、未来へと物語を進めていくものである。『深愛の四重奏』とは、このことを指したフレーズではないだろうか。
あえて五脚映し出された使用済みのカップは、アメイジングセイレーンによって生み出された「間宮陸」が、他の四人と同じく実体を持った人間であることを示している。「間宮陸」が実在するのならば、その母体とも言うべき「陸」自体もどこかでかくれんぼをして遊んでいるはずだ。これにより、「間宮陸」と「陸」がもはや別の存在であることがわかり、彼らから飛羽真の得た二つの「愛」が、それぞれ別カウントされるべきであることの傍証になろう。
後奏
「死んだ人間も誰かが覚えている限りはその人の中で生き続けている」などと言うが、生きた人間を忘れさせることで間接的に殺そうとしたのが今回の「アメイジングセイレーン」の目論見であった。剣士が存在しなければ、ソードオブロゴスが存在しなければ……しかしその願いをかなえるのが他でもない聖剣とワンダーライドブックである以上、間宮の目論見は完遂しない。たとえ飛羽真を殺して自分も死んでも、無銘剣虚無は残り続け、いずれ新たな剣士が生まれてしまう。
ブレイズに這い寄る血みどろのリビングデッドたちや、賢人が素手でつかんだ剣から滴り落ちる自らの血液など、本編のほとんどがVシネクストらしい刺激的な演出に彩られていた。小さなお友達はトラウマになってしまうのではと思いつつ(さきの『ゼロワン』Vシネクストの時など、親子連れも結構見かけたのだ)、飛羽真たちの身を切るような思いは文字通り痛いほど感じられた。というか痛そうだった……。
あとなんといってもエンディング曲がいい! 劇場を出た後もしばらく錆のフレーズが頭の中に響いていた。さすがに八年も経てばダンスはしなかったようだが、その分MVのような仕上がりであった。本編では斬られたり倒れたりぼろぼろの飛羽真であったが、ここにきてちゃんとオシャレ感を見せつけてくる。これでこそ『セイバー』という感じがして、なんだか説得力のあるエンドマークであった。お疲れさまでした。