【トッキュウジャー】35~36話

第35駅「奪われたターミナル」

 総裁のお電話シーン、まさかウサギ頭の下から無理やり子機をつっこんでかけるとは思わなんだ。
 車掌さんの操るチケットくんが自ら動き喋り、車掌さんとは別の人格を持っているように見えるのは、トッキュウジャー面々ならびに車掌さん自身のイマジネーションの賜物だろう。車掌さんがチケットくんを外しているシーンを目撃したヒカリでさえ、それは例外ではない。チケットくんがパペットであるという大人の真実を知ってなお「チケットくんの声」が聞こえているのだから、むしろイマジネーション力は強いとも言える。
 対するウサギ総裁は、その頭が着ぐるみであることがチケットくんよりも明確に描かれている。総裁は頭を外して汗を拭くし、動揺すれば頭を落としさえする。着ぐるみであるがゆえに距離感がつかめず、車内の入り口につっかえたりもする。総裁をウサギ総裁たらしめているのは、魔法のようなイマジネーションの力ではなく、たかが一つの被り物なのだ。……逆に言えば、首から上を覆う被り物ひとつで、我々はどこまでもイマジネーションを広げることができる。演者が面をつけているからこそ、豊かに育まれる世界もあるのだ。

 ターミナルのガラス壁はあれ、真実の鏡か何かなのだろうか。ミオたちが自分たちの子どもの姿をはっきりと見とめたのも、同じガラス壁に反射した姿によってであった。シャドーライン本拠地のあの姿見に向き合ったとき、トッキュウジャーたちはどの姿で写るのだろう。置いてきた子ども時代の姿か、それとも今を生きる大人としての姿か。

 確かにドリルはよいものだ。なんといってもシンプルで力強い。ドリルレッシャーは元がシャドーラインの烈車だからなのか、ほかのサポート烈車たちのような「お仕事」を持っていない。純然たるドリルとしてのみそこに存在する。応用が利かない分、まっすぐな使い方をすれば滅法強いのである。
 そんなドリルレッシャーを入れて全13台の烈車たちがにぎにぎしく勢ぞろいし、新巨大ロボ「トッキュウレインボー」が完成する。トッキュウジャー6人+サポート烈車7台で、虹の名を持つにふさわしい威容である。
 当初はシュバルツとの一騎打ちによりドリルレッシャーを取り戻そうとしていた明だが、相手は将軍、容易に勝てる相手ではない。ザラムの能力を利用した雨の目くらましで姿を隠し、体勢を立て直そうとする。雨降らし能力にそんな使い方があったとは。そして、あんなに嫌がっていたザラムの姿・能力を、必要に応じて利用することができるようになったとは。トッキュウジャーたちが過去を取り戻し、未来へ進む力へ変えたように、明もまた過去の自分を見つめ、過ちを受け入れることはできないまでも、自分は自分としてその存在を認めることができるようになったのかなと思う。

 グリッタの遺志が、ただ鏡の前で姿を現すだけのおぼろげなものではなく、明確な力としてゼットの中に息づいていることが明らかになる。そして彼女のキラキラはゼットに馴染まない。グリッタの物理的な身体を食らうことはできても、その魂までを消化することはゼットにはできていない。そのことこそがノア夫人のわずかな希望であり、モルグ侯爵にとっての頭痛の種であった。「その気になればいつでも消すことができる」とすごんではみるものの、ゼットは一向にグリッタを潰そうとしない。グリッタのキラキラはライトのそれと同じくらい、ゼットを魅了している。
 ノア夫人とカグラ・ミオの戦闘シーン、いつもはパラソルによる射撃で距離を開けて戦うノア夫人が近接戦闘になると容赦なく二人の腹を殴っていくので、えぐいなあと思いながらはらはら見守る。肉弾戦は傷みがある程度想像できるだけに心配もひとしお。

 以前ライトたちの前では口を濁していた、シュバルツの本心が垣間見える。勝利のためには手段をいとわず、他人を利用することも辞さないようなシュバルツが、まるで姫君へ忠誠を誓う騎士のようなことを口走っている。
 グリッタ嬢のキャラソンのタイトル「そして王子さまが」からも見えるように、グリッタはシュバルツの事をおとぎ話の王子のように思っている。彼らは大抵お姫様を見初め、その窮地を救い、最後は末永く幸せに暮らす。シュバルツはもちろん王族ではない。一介の軍人である彼は、グリッタの「王子さま」になるどころか、彼女の窮地を利用して自らの本懐を果たそうとするような人物だ。
 それでも、グリッタのウェディングドレスのひとかけを拾い上げるシュバルツの姿は、拾った真っ白なハンカチを大切そうに握りしめる在りし日のグリッタに重なる。
 おとぎ話にはなれなくても、騎士道物語にはなれるのかもしれない。望んでいた物とは少し違う形だが、きっとそれでもグリッタは微笑むのだろう。


第36駅「夢は100点」

 子どもと教育実習生が生活を共にするのは、お互いの人生の中でほんのわずかな数週間でしかない。下手するとほんの数日で終わることもある。だが、たとえ一瞬の交錯であったとしても、大切な思い出としてずっと心に残り続ける場合もある。
 例えば、自分の得意をほめてもらえたとか。
 あるいは、自分の悩みを励ましてくれたとか。
 そして、自分の心に波紋を投げかけるような、印象的な出来事があったとか――ヒカリの場合はこれであった。自分の両手を包み込むように握りしめてくれたさくら先生のことを、語った言葉ややり取りのひとつひとつを、それが自分にまつわる記憶ではなくても、ヒカリはちゃんと覚えている。
 そしてさくら先生も、ヒカリたちの事を心の奥底では知っている。昴ヶ浜に関する情報はあらゆるメディアから消え去り、関わった人たちの記憶からも拭い取られてしまった。だが、昴ヶ浜で彼女が得たきらめきだけは、闇の中にあってもわずかな輝きを残していたのだ。
 ヒカリとの出会いによりさくら先生は夢を取り戻し、同時にギャルファッションを卒業して、黒髪に落ち着いた色のコートという出で立ちになる。そこでギャルを辞める必要は別にないのではないか、と思ったりもするのだが(ギャルと教師志望を両立できないと誰が決めた?)、夢も目標もなかったさくら先生はギャルファッションに対してもそこまで熱意があったわけではなかったのかもしれない。彼女の本質が教育実習の時に見せていたあの地味で真面目な姿なのだとすれば、あるべき方向性に正しく服装を見定めたと考えるべきか。

 マンネンヒツシャドーのおおきな手の意匠、気づいた時には思わずうれしくなってしまった。あれはよいものだ。

 ドリルレッシャーを返してもらった際の、シュバルツとの約束に関係があるのだろうとは思う。はらはらするので敢えて深くは考えずに次の展開を待ちたいところ。

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